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春のプールはジャージの季節  作者: 与一
二 やわらかな光
21/50

高校のプールはすごかった

教室のドアが静かに開いた。

「みなさん、お待たせしました」

中野先生の声がした。紺色のジャージの上に緩めのブラウスシャツを羽織った先生が教室に入ってくる。その優しい微笑みは相変わらずだ。先生のジャージ姿を見ると、俺はなんとなく安心感を覚える。ジャージというのは本当に不思議な服だ。

「さあ、お二人とも。準備はいいですか?」

「はい」

俺と芦川は同時に返事をする。先生の言葉は、さっきと同じく、二人しかいない教室全体に染み渡るように響いた。

「では、屋内のプールに行きましょう。初めてかもしれませんね。我が校の屋内プールは、ちょっと自慢なんですよ」

そう言って中野先生は軽く胸を張り、先に立って歩き出した。俺たちもその後ろに続く。教室を出て廊下を進み、昇降口とは反対側の階段を降りる。昼休みでもないこの時間帯の校舎は妙に静かで、足音だけが乾いた音を立てていた。

一階の渡り廊下を抜け、そのまま外へ出る。

校舎の裏手に回ると、途端に人の気配が遠のいた。グラウンドとは反対側のこの一角は、生徒があまり通らない場所だ。背の高い塀が続き、その脇に細い舗装路が一本だけ伸びている。先生は迷うことなく、その道を歩いていく。俺と芦川も並んで後に続いた。

塀の向こうからは、遠くで運動部の掛け声がかすかに聞こえてくるが、この道には誰もいない。足元に落ちた落ち葉が靴の下でかさりと鳴った。普段通らない場所というだけで、どこか秘密の通路のようにも感じられる。

道の先に、やがてコンクリート造りの建物が見えてきた。第二体育館だ。その一角に、地下プールの施設があると聞いたことはある。しかし先生が向かったのは、正面の入口ではなかった。

建物の裏側へ回り込むと、壁の片隅に人ひとりがやっと通れるほどの小さな扉がある。金属製で、普段は閉ざされているらしく、表札のようなプレートもない。知らなければただの設備用の出入口にしか見えない。先生はその前で足を止めた。

「今日は施設見学なので、ここから入ってみましょう。直接プールに向かう出入り口なんです」

そう言いながら、ポケットから鍵を取り出す。金属が触れ合う乾いた音がして、鍵穴に差し込まれた。カチャリ、と静かな音がして扉が開く。

中に入ると、すぐに細い通路が伸びていた。外の光が届かず、薄暗い。コンクリートの壁に囲まれた空間はひんやりとしていて、ほんのりと塩素の匂いが混じっている。通路の奥には、地下へ降りていく階段が続いていた。先生は振り返り、軽く微笑む。

「さあ、こちらです」

俺たちはその後に続いて階段を降りていく。コツ、コツ、と靴音が反響して、やけに大きく聞こえた。

下まで降りると、もう一つ扉がある。先生がそれを押し開けた。

すると——

そこに広がっていたのは、別世界だった。

目の前には、想像していたよりもずっと大きな光景が広がっていた。

まず目を引くのは、中央に横たわる長方形の巨大なプールだった。

深さはおそらく一・五メートルほどだろうか。水面が天井から差し込む光を反射し、きらきらと揺れている。プールサイドは青いタイルで覆われ、その清潔な光沢が印象的だった。赤と白のコースロープが張られ、二十五メートルプールが六レーン整然と並んでいる。

天井は高く、上部の大きな採光窓から柔らかな光が差し込んでいた。

壁際にはスピーカーや監視カメラらしき機器も設置されていて、施設としての整備の行き届きぶりがうかがえる。隅には救護室やシャワールームへ続いているらしい扉も見えた。

「わあ……」

思わず声が漏れた。

中学の頃に通っていた近所の市民プールとは比べものにならない。まるで小さな競技場のようだ。

「学校にこんな立派なプールがあるなんて……」

芦川も驚きを隠せない様子で、きょろきょろと周囲を見回している。動くたびにロングボブの髪が軽く揺れ、セーラー服の襟元からのぞく臙脂色のジャージの襟が、わずかにその存在を主張しているように見えた。

温水プール特有の、少し湿り気を帯びた暖かな空気が肌にまとわりつく。塩素の匂いがかすかに混じっているが、不思議と不快ではない。むしろ水に入る前の身体をゆっくりほぐしてくれるような心地よさがあった。

プールサイドに立つと、その広さがいっそう実感として迫ってくる。

深い青色の水底がはっきりと見え、壁面の深さ表示も鮮やかだ。赤と白のコースロープが水面に映え、整然としたラインを作っている。

「すごいな……こんな場所で泳げるのか」

俺が感嘆の声を漏らすと、中野先生がにっこりと微笑んだ。

「いつもはこの時期、水泳部が練習に使っているのですが、今週は遠征中なんです。ですから今日は、私たちの貸し切り状態ですね」

貸し切り。

その言葉を聞いて、胸の奥が少しだけ軽くなる。水泳部員たちがいたらいたで賑やかなのだろうが、初めて来る俺たちには少し気後れしてしまいそうだ。

「プールの深さは一・三メートルから一・八メートルまで、奥に行くにつれて段階的に深くなっています。初心者用の浅いエリアもありますし、スタート台やダイビングボードも完備されています」

そう言って先生はプールの端を指さした。確かに壁際には赤いラインで区切られた、少し浅くなっているエリアが見える。

プールの壁際に並ぶタッチプレートに、芦川が目を留めた。コースごとに設置されたそれは、選手がゴールした際の正確なタイミングを測るものだ。

「先生、あれは……タイムを測るためのものですか?」

芦川が尋ねると、中野先生は頷く。

「そうです。競泳では、ゴール後の0.01秒まで正確に記録する必要があります。このプールには最新の測定システムが導入されています」

少し誇らしげな微笑みが、先生の表情に浮かぶ。

「それと、ほら。スタート台も見てください」

指の先には、白いタイルで覆われた滑らかなスタート台が整然と並んでいる。台の下部にはセンサーらしき装置が取り付けられ、選手のスタートを正確に捉える仕組みになっていた。

「あれは、足が完全に台から離れた瞬間を感知して、自動でタイムを計測するんです。どんなに速く飛び込んでも、正確に記録されます」

「へえ……マジか!」

思わず声を上げてしまう。スタート台一つにしても、ただ飛び込むだけではなく高度な技術が組み込まれているのだ。


「すごい設備ですね……。競技用のプールって感じがします」

芦川も感心した様子で台を見つめる。首元まで上げたセーラー服のファスナーが白い肌に馴染み、臙脂色のジャージの襟がその下からわずかに覗く。その存在感に、自然と目が向いてしまう。

先生は柔らかい眼差しで二人を見守る。紫色のブラウスは光を受けて明るく映え、濃紺ジャージの襟はきちんと整えられている。落ち着いた立ち姿が、この空間に安心感を与えていた。

「このプールは競泳大会にも対応できるように作られています。自動でタイムを測定できるので、私がストップウォッチを持って追いかける必要もありません」

冗談めかした口調に、芦川が「えー!」と声を上げる。

「じゃあ、もし世界記録が出たら、すぐにデータが残るってことですね?」

「可能性はゼロではありません。ただ、この学校からそんな選手が出るかは別のお話ですが…」

楽しそうに笑うその表情はいつも穏やかで、濃紺ジャージの落ち着いた姿と相まって、頼もしく見えた。

俺も改めてプールを見渡す。光を受けて水面が揺らめき、青い水底までくっきりと透けている。壁の白いタイルはまぶしく光を反射し、赤と白のコースロープも水面にきらきら映る。水がかすかに揺れる音が静かに響き、湿った温かい空気が肌にまとわりつく。塩素の匂いがほのかに混じるが、不快ではない。むしろ身体をゆっくりほぐしてくれるような心地よさがあった。

(でも、本当に俺たち二人だけで使わせてもらえるのかな)

少し申し訳ないような気持ちになる。立派すぎるプールを独占するなんて、贅沢すぎる。

芦川の臙脂色のジャージが、水面の光を受けてほんの少し艶やかに見える。首元のセーラー服の襟とジャージの色のコントラストが、静かに存在感を主張していた。


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