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春のプールはジャージの季節  作者: 与一
二 やわらかな光
19/49

制服とジャージ

中野先生が黒板に大きく「浮力」と書いたところで、チャイムが鳴った。

「はい、2時間目の授業はここまで。皆さん、理解できましたか?」

先生がにっこりと笑いかけてくる。その表情は穏やかで、優しさに満ちている。

「はい」

俺と芦川は同時に答えた。

「それでは皆さん、お疲れ様でした。ずっと座学が続いて集中力も切れてくる頃だと思いますので、ここで少し長めの休憩を挟みましょう。三時間目はプールに移動します。今回は、施設見学になります。私が誘導しますので、そのまま教室で待っていてくださいね」

先生はそう言い残し、俺たちに軽く手を振って教室を後にした。閉められたドアの向こうで、先生の足音が遠ざかっていく。静まり返った教室に、俺と芦川だけが残された。

「ふぅ、座りっぱなしで疲れたわね」

芦川が伸びをしながら言った。長い髪がサラサラと揺れる。

「だな。先生の話は面白かったけど、ずっと集中して聞くのも疲れるよな」

俺も肩を回しながら同意する。ファスナーを首元まで上げたセーラー服姿の芦川が、伸びをする仕草を見ていると、セーラー服の襟元から覗く臙脂色のジャージの襟の一部が、わずかに見え隠れする。そのわずかな露出が、何故か俺の目を惹きつけた。

「浮力かぁ。理屈は分かったけど、実際に泳いでどう活かすのか、いまいちピンと来ないな」

俺が正直な感想を漏らすと、芦川は小さく笑った。

「佐藤にはそうかもしれないけど……私は結構納得できたわよ」

芦川はノートをパタンと閉じた。窓から差し込む春の陽光が、彼女のセーラー服の襟元を白く照らしている。その影が、ファスナーを首元まで上げた臙脂色のジャージの襟に落ちて、濃淡を作り出していた。俺はそのコントラストに目を奪われる。

「どういうことだよ」

「だって私、中学は一応、水泳部だったから。毎日泳がされていたけど、こんなふうに理論的に説明されることってなかったもの」

芦川は少し懐かしそうに天井を見上げた。

「でも今日みたいに『浮力を利用する』とか『関節の角度で抵抗が変わる』とか説明されると、ああ、だからあの時あんなに疲れたんだなとか、この泳ぎ方は効率が良かったんだなとか、色々腑に落ちることが多いのよ」

彼女は再び俺に向き直り、少し得意げに言った。

「私にとっては、水泳の基本を今更学んでいるようで恥ずかしいけど……でも、すごく勉強になったわ」

芦川の言葉には嘘がないように聞こえた。俺にとっては何気ない座学も、彼女にとっては新たな発見と繋がっているらしい。そう思うと、なんだか俺まで少し嬉しくなった。

「そっか。芦川がそう言うなら、先生の授業はやっぱりすごいんだろうな」

素直に感心すると、芦川はふふっと笑った。

「まあね。物理が苦手な佐藤には難しすぎるかもね」

「うるせえな」

軽口を叩き合う。幼馴染の気安さだ。

ふと窓の外を見ると、陸上部員たちがまだ練習を続けていた。数人は休憩しているのか、日陰に座り込んでいる。その中の一人が水分補給のためにジャージのファスナーを少し下げた。汗ばんだ白い体操服の襟が見えた瞬間、俺はなぜかドキリとした。ファスナーが上げられた時の密閉感と、それが一瞬だけ開放される瞬間の対比が妙に印象的だった。そしてすぐにまたファスナーは閉じられ、臙脂色のジャージが彼女の体を再び隠してしまう。

「佐藤ってさ、いつも陸上部の女子のジャージとか見てるよね」

芦川が俺の視線に気づいて言った。

「え? そんなことねーよ!」

俺は慌てて否定する。

「嘘ついても無駄よ。さっきだって鈴木さんのジャージ、すごく気にしていたじゃない」

芦川は楽しそうに笑った。

「別に深い意味はないって。ただ、みんな同じジャージだけど、着方とか違って面白いなって思っただけだよ」

俺は言い訳を重ねる。

「いいわよ、ごまかさなくても。まあ、私も、この学校指定の臙脂色のジャージ、結構、気に入っているんだけどね」

芦川はジャージのズボンの裾を軽く引っ張り、ニッコリと笑った。オープン型の上着に、腕と脇腹に2本のラインが入った、昔ながらのデザイン。芦川は、普段の私服はもっと清潔でお洒落なものを着ている芦川が、こういうことを言うのは意外だった。今はジャージのファスナーは首元まで上がっており、その上にセーラー服の上着を着ている。ただ、もともとスタイルのいい彼女が着こなすと、こういうジャージでもなぜかスタイリッシュに見えてくる。

「なんか意外だな。芦川って、こういう地味めの服は好きじゃないかと思ってた」

俺が言うと、芦川はふふっと小さく笑った。その笑顔がまた不意打ちで可愛い。

「確かに派手さはないけどね。でも、この生地の厚みとか、手触りとか。あと、色合いも悪くないじゃない。臙脂色って意外と品があって」

彼女はそう言って、自分の着ているセーラー服の上着の裾を軽く摘んでみせる。その下に隠れている臙脂色のジャージの存在を主張するかのように。

「それに、中学の時は、真冬でも体育の時は、ジャージを着るのを許されなかったのよ。先生の方針でね…。年中、体操服とブルマーだけ。寒さを堪えるのに必死だったわ。だから今は、ジャージで過ごせるのが嬉しいのよ。自分が着るのも好きだし、他の人が着ているのを見ているのも、いいものだと思っているわ」

芦川はどこか嬉しそうに言った。その言葉には、俺が思ったよりも強い感情が込められているように感じた。ジャージへの思い入れ、というか。

「へえ、そういうもんか」

俺は曖昧に相槌を打つ。芦川がジャージをそこまで好きだとは知らなかった。そして、彼女が中学時代にジャージを着る自由がなかったという事実は、少し意外だった。

「だから今、佐藤が同じデザインの青いジャージに学ランを着ているのを見るのも、楽しいのよ。なんか、男の子の方がこういうデザインが似合うんじゃない? リブ編みがしっかりしていて、引き締まった印象で」

芦川が俺のジャージ姿を褒めている(?)のかからかっているのか分からない言葉に、俺は少し照れ臭くなった。

「そうか?」

「ええ。男の子の方が、動きやすさも重視するだろうし。それに、佐藤の場合、昔からちょっと大柄だから、余計に似合ってるかもね」

「うるせーな。お前だって細いくせに、ジャージが似合ってるぞ」

軽口を叩き合いながら、俺は再び窓の外に目をやった。

陸上部員たちの練習は続いている。臙脂色のジャージに身を包んだ女子部員たちが、それぞれのペースで走ったり、ストレッチをしたりしている。ファスナーを首元まで上げている者、鎖骨のあたりで止めている者、あるいは大胆に下まで開けている者と様々だ。そのバラエティが面白い。俺自身は青いジャージのファスナーはいつも適当なところまでしか上げていない。学ランも羽織っているしな。でも芦川と一緒になってから、なんかファスナーをしっかり上げることを考えるようになった気がする。

芦川の場合は、臙脂色のジャージのファスナーを必ず首元まで上げている。それに加えて、今はセーラー服の上着を着ている。完全防備だ。その完璧さが、また違う魅力を引き出しているようにも思う。ジャージという機能的な服を、ここまでキッチリと着こなす芦川の几帳面さが現れているような気がした。

(セーラー服とジャージの組み合わせ……やっぱいいよな)

改めてそのファッションを観察する。セーラー服の黒い襟と臙脂色のジャージの襟が重なり合い、そこに白色のリボンがアクセントとして映えている。そのコントラストが絶妙だ。ジャージの生地の質感とセーラー服の繊細さが融合している。なんだか見ていて飽きない。


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