第77話「見えてる世界」
11月中旬の夜、相原家のリビングは温かな灯りに包まれていた。
テレビの画面には、アイスホッケーの国際試合が映し出されている。
日本代表対カナダ代表の一戦だ。
「お母さん、この試合見たかったんだよねー」
けいが嬉しそうにテレビを見つめている。
緋色は宿題をリビングでやりながら、その横で試合を眺めていた。
巧真も珍しくテレビに夢中になる、笑顔のけいの隣に腰を下ろした。
「へぇ、珍しいな。アイスホッケーの放送なんて」
「でしょ?北海道の由里さんから、教え子が出るからって観てって放送日を教えてもらってたの!日本代表の試合だから特別に中継してるみたいよ」
画面の中で、選手たちがリンクの上を猛スピードで滑走している。
パックが激しく行き交い、選手たちの激しい体当たりの音が鳴り響く。
「速いなぁ...目が回りそう」
緋色が思わず声を漏らした。
「そうねー、フィールドホッケーとはまた全然違う迫力だよね!」
けいがうなずく。
「人もパックも氷の上だと動くスピードが段違いだからね。でも基本的な考え方は同じなのよ?」
試合が進む中、日本代表が攻撃のチャンスを作った。
しかしカナダの守備に阻まれ、カウンターを受ける。
その瞬間、けいが小さく「あ」と声を上げた。
「今の場面、惜しかったわねー」
巧真と緋色は首をかしげる。
「そうなの?僕には良いパスコースだと思ったけど…」
「ん―…ほら、さっきの攻撃の時…」
けいは少し考えるような仕草をして、それからテーブルの上にあったメモ帳とペンを手に取った。
「ちょっと待ってね、実はさっきの場面で...」
サラサラと、けいがペンを走らせる。
緋色も思わず宿題の手を止めて、母の手元を見つめた。
数秒後、メモ帳にはリンクを真上から見たような図が描かれていた。
リンクの形、選手たちの位置、パックの軌道。
すべてが正確に、まるで写真を撮ったかのように再現されている。
「…そう、ここね」
けいが図の一点を指差した。
「さっきの場面、日本の10番がパックを持った瞬間に実は左サイドにスペースが空いてたの。でもこの選手の視線は右に向いてたから、その選手は気づかなかったのよ」
「...なるほど」
緋色がテレビを見返す。
「それで、カナダの6番がすぐにそのスペースを埋めに来たのか。だから次の展開では完全に読まれてたってわけだな」
巧真が感心したように頷く。
けいの指が図の上を滑る。
選手たちの動き、意図、次の一手。
すべての選手が見えているかのような解説だった。
緋色は息を呑んだ。
(…すごい。お母さん、あんな一瞬の場面をここまで...)
試合は続いている。
しかしけいの視線は常に全体を捉えているようだった。
前線の選手だけでなく、中盤、そして後方のディフェンス。
さらには交代してくるベンチの選手の動きまで。
「あ、あそこDFにつられてる…今度は逆サイドが空くわ」
けいが小さく呟く。
緋色は母の横顔を見つめた。
画面の隅々まで見るように眼が小刻みに動き、画面全体を…いやリンクのすべてを把握しているように見えた。
(首を振って、眼を動かして...…全部見てる)
(前だけじゃない。後ろの選手、交代してくる人まで...)
そして、ふと気づいた。
『緋色、水筒忘れてるわよー』
学校へ行く朝、急いで家を出る僕に玄関で声をかけてたこと。
『お父さん、傘持ってなかったでしょ?雨降るって言ってたわよ』
巧真が出かける前、けいが先回りして声をかけていたこと。
『みっちゃん、お薬飲んだ?』
みっちゃんへさりげなく、でもタイミング良く声をかけていたこと。
緋色の脳裏に浮かぶ。
そういえばいつも母からの声掛けは完璧なタイミングだった。
それは偶然じゃない。
家族全員の動きを常に見ていてくれて、把握していてくれたからだ。
(お母さん、家の中でもずっと...)
緋色の胸に、じわりと熱いものが込み上げてきた。
テレビの試合は進み、日本代表が再び攻撃のチャンスを作る。
けいが再びメモ帳に図を描き始めた。
「この負けてる展開だと...きっとこうなるわね」
けいの予測通り次の瞬間、日本代表の鋭いパスが通った。
緋色は思わず声を上げそうになった。
(僕も、試合中はある程度見えてる...パスコースが見えてる。仲間や敵の動きも読めてると思ってた)
(でも...お母さんは、もっと上から見てる。もっと上空から広く、もっと深く...正確に)
(視点を変えるだけで、こんなに...こんなにも世界が広がるのか...!)
けいが再び画面を見つめる。
その目は、まるで氷上全体を俯瞰しているかのようだった。
「これがイーグルアイ......」
緋色が小さく呟いた。
「ん?何か言った?」
けいが振り返る。
「あ、ううん。何でもない」
緋色は慌てて首を振った。
(これが北海道のおじいちゃんから聞いた、母の能力なのか…。)
(これは単なる観察眼じゃない!フィールド全体を、まるで空を飛ぶ鷹のように上から見下ろす視点。これがイーグルアイなんだ。)
(そして、いつか自分もあの境地に...!)
緋色の心の中は新たな世界の見え方に興奮していた。
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試合が終わり、日本代表は惜しくも敗れてしまった。
けいが「惜しかったわねー」と呟きながらテレビを消す。
巧真が立ち上がりかけた時、緋色を見つめた。
「緋色」
「うん?」
「少し...話があるんだ」
巧真の声に、いつもとは違う重みがあった。
けいも、みっちゃんも、緋色を見つめている。
緋色は宿題を閉じて、姿勢を正した。
「え…と、どうしたの??」
巧真は深呼吸をして、それから口を開いた。――――――――――
前夜、緋色が寝た深夜のことだった。
けいと巧真が並んでリビングの椅子に座っている。
「...大丈夫?」
けいが静かに尋ねた。
巧真は天井を見つめたまま、しばらく黙っていた。
「実は烈真から、U14の技術コーチを頼まれた」
「…そう、凄いじゃない!」
「でも...俺に、そんな資格があるのか…」
巧真の声には迷いが滲んでいた。
「あの時…俺は自分に負けて逃げだしたんだ。最高のライバルを…烈真を傷つけて、怖くなって代表からも逃げた。そんな俺が、未来ある子供たちを指導する資格なんてほんとにあるのか...」
けいは優しく巧真の手を握った。
「あなた、緋色を見て」
「緋色...?」
「緋色はこの1年ですごく成長したでしょ?」
けいの声は温かかった。
「それは、いろいろな栄光や挫折を味わって……でも負けずに立ち上がった。
それは周りのみんなが支えてくれたからよ?」
「...」
「それに過去のことは、もう済んだ話でしょう?烈真さんもあれは事故だったと、あなたを許してくれたじゃない。」
けいは巧真の目を見つめた。
「あなたには、あなたにしか伝えられないものがある。技術も、戦術も、そして何より...心を」
「心...」
「そう。あなたは知ってるでしょう?挫折の痛みを。逃げることの苦しさを。でも、そこから立ち上がることの大切さも」
けいの言葉が、巧真の胸に染み込んでいく。
「子供たちに必要なのは、完璧な指導者じゃないわ。一緒に悩んで、一緒に成長してくれる人よ」
「そうか…」
「それに」
けいは少し笑顔を見せた。
「緋色も喜ぶわよ?お父さんが日本代表のコーチになるなんて!」
巧真は目を閉じた……。長い沈黙のあと、ゆっくりと目を開け決意を込める
「...ありがとう、やるよ。俺は...もう逃げない」
けいは優しく微笑んだ。
「良かった。その方があなたらしいわ!」
二人は手を握り合ったまま、しばらくそうしていた。―――――――
巧真は緋色を見つめて、ゆっくりと口を開いた。
「俺は...U14日本代表の技術コーチを引き受けることにした」
緋色の目が大きく見開かれた。
「え!お父さんが...!?」
「ああ。U14の監督を務める神門監督からの依頼だ」
「すごい...!凄いよお父さん!!」
緋色の顔が輝いた。
誇らしい。
父が、日本代表のコーチに。
そして...
「お父さん、僕も...!」
緋色は立ち上がった。
「僕も、選考会で選ばれて...親子で、日本代表になろう!」
巧真が優しく笑った。
「ああ、そうだな!一緒につかもう。日本代表を」
けいとみっちゃんも、温かく二人を見守っている。
「緋色と巧真なら大丈夫さー!2人とも頑張るんだよ~!」
みっちゃんがけいの手を掴んで踊りだす。
緋色は強く頷いた。
12月の選考会、全国から集まる才能たち。
颯真、瞬、虎徹、凜太郎、功多、藍人...
みんなが、同じ日本代表の舞台を目指す。
そして、父も...
(きっとお父さんと一緒に...!)
緋色の胸に、熱い決意が燃え上がった。




