あなたのためでなく
許可を取ることもせず無断で立ち入った執務室で、デスクに向かっていた兄は非常に恐ろしい顔をした。
本当にものすごく怖い。以前なら、絶対に逃げ出していた。
けど。
「待って、それ飲まないで!!」
ちょうど出されたばかりなのか、湯気を立てるカップに飛びつくように駆け寄り、震える手でソーサーごと抱える。
何かの間違いがないようにと、後退るように兄から距離を取った。
「何の真似だ」
「給仕した者は誰! 毒味はしたの!?」
「はあ。また得意の癇癪か?」
ああもう。きーきー泣いたり叫んだりするのが常だと、こんな時も事の重大さが伝わらない。
それでも、この紅茶を飲ませるわけには、どうしてもいかないのだ。
小説では、疲れを振り切って執務ができるよう濃く入れた紅茶に、毒が仕込まれていた。
濃くなければ、きっと気づいた。でも、今これを抱えているシュヴィアですら、紛れて嗅ぎ分けられない。
解毒剤が間に合って命には別状ないが、家族を喪い多忙を極めるこの期間を、毒の後遺症で満身創痍になりながらこなすことになる。
そんなの、絶対だめだ。ただでさえ疲弊しているのに、一歩間違えば死んでしまう。
兄までもいなくなってしまったら、シュヴィアは本当に一人ぼっちだ。
「毒が入っています。毒味はしたんですか?」
「……側近が給仕した」
「その方は、今ここにいますか?」
「……」
「わ、わたしが、新しいのを持ってきます。お兄様の前で、毒味もします。お望みなら、もっと濃く入れます」
鋭利な刃物みたいに冷たい視線は、斬りつけるように鋭い。
鼻で笑われると、心が折れそうだ。
「おまえを信用する理由がないな。さっさと寄越せ。余計なことをするな、手間をかけさせるな」
たかが紅茶一杯。なのに、こうもムキになるのは、側近の信用がかかっているからか。シュヴィアへの嫌悪か。
どちらもかな、と思いつつ近衛騎士を横目で見ると、瞬きで応えられた。
大丈夫、すでに給仕した側近への追手は出されている。王子への服毒は、疑惑であっても騎士は動く。
だとしたら、あとは兄の説得だけ。
「じゃあ、今ここで、わたしが毒味をします」
「姫殿下!」
アイコンタクトをしてくれた騎士が、思わずといったふうに声を上げた。
が、気が荒れている兄が右手を挙げたことで、口を閉じる。
「構わん。勝手にしろ」
どうせ嘘か、あるいは恐れて毒味などできない、と思っているのだろう。
嘲笑どころか、兄の目はすぐにデスクの上の書類に移り、シュヴィアは視界から締め出された。
「姫殿下、おやめください」
こそり、騎士が囁く。確かに、兄はこちらを見ていないから、逃げる間を作ってくれたとも捉えられる。
でも、万が一、何かの間違いで、これを口にしてしまったら?
もしものその時、止めに入れるとは限らない。
混乱と、焦りと、少しの意地。
両親と姉の顔を見た直後で、ちょっとの投げやりさもあったかもしれない。
頭を下げ、部屋の扉まで下がったところで。
「姫殿下っ!!」
勢いよく、誰かの手が届くより早く、シュヴィアは一気に中身をあおった。
味は渋すぎる紅茶というだけだが、感じる温度はやけに高く、喉が焼ける感覚がする。
駆け寄った騎士の手がカップを弾き、半分ほどを含んだところで止められた。
頬を掴まれても頑なに口を開けず、シュヴィアは中に残っていた液体を飲み下した。
喉から胸のあたりが、ひどく熱い。手足が震え出し、全身に汗が吹き出す。
怒声のような指示が飛び交う中、シュヴィアはぼうっと絨毯の刺繍を眺めていた。
カップを弾いた騎士が、視線を合わせるように腰を折る。
「姫殿下、落ち着いて、腰を下ろせますか」
「……」
舌が痺れて、うまく答えられない。
いつの間にか身体中がガタガタと震えていたようで、騎士の両手が支えている肩以外、感覚がない。
視界がひどくぼやけて、狭い。
騎士の深紅の瞳は、何だか、飴のようだと考えた。美味しそう。
立っている感覚もないから、自分が今どんな体勢かもわからない。
不思議と心地よく、浮き足立つような、穏やかな水中で揺蕩うようだ。
────ああ。このまま、ここにいたい。
お父様も、お母様も、お姉様も、優しい人はみんないなくなってしまったの。
きっと、お兄様にも嫌われて、捨てられてしまうのでしょう。だったら、もう、いいのではないかしら。
「失礼します」
目の上に大きな手を翳され、口の中に何かを吹き込まれた気もするけれど、シュヴィアは眠るように意識を手放した。
戻って来れなくても、もう構わなかった。




