現実への覚悟
ぶわっと全身から汗が噴き出した。
ゆっくりと近づくヒロインから距離を取りたくても、足が、手が、動かない。
「おかしいと思ったのよね。全然いじめてこないし、何だか真面目だし。ルドは思った通りの人だったけど……悪役がいなきゃ、ほら、つまらないじゃない?」
「……つまら、ない?」
くすくす、笑う音さえ涼やかで愛らしい。ヒロインは、楽しそうに声を弾ませる。
「そう、つまらない。恋って刺激が大事よね。だから、お父様に毒を勧めたのに、あなたが受けちゃうんだもの。ルドを介抱するの、楽しみにしてたのよ。お部屋に誘ってもらえるんじゃないかしらって」
そんな。そんなくだらない理由で、兄に毒矢を仕向けたのか。
沸騰しそうに腹が立つのに、口までもうまく動かない。悔しさに身体が震えた。
「お父様の企てもね、ルドと一緒に解明するからいいんじゃない。手と手を取り合って、秘密を共有して、ふふ。その前に、悪役の子猫ちゃんにいたずらされて、ルドに甘やかしてもらわなきゃ」
「…………」
「なのに、まだなーんにもしてないのに、もうお父様が捕まったなんて。おかしいでしょ? だから、あなたのせいじゃないかなと思ったの。ねえ、あなたも転生者なんでしょ?」
転生者。そうだ、とはっきり言えるほど、シュヴィアは前世の記憶がない。
どちらかといえば、元のシュヴィアが戻ってくるまでの仮のシュヴィアだという意識でいた。
でも、そう。社会人、異世界、前世、小説という知識があることを『転生者』と呼ぶなら。
「────そうです」
シュヴィアは、シュヴィアでない〝誰か〟である。
少なくとも、ここで生まれて育ってきたとは、今のシュヴィアは思っていない。
異世界で生まれ育った、この世界における異物だ。
だけど。
「それでも、ここを現実として生きている、シュヴィアです」
痺れる口を無理やり動かし、感覚を失わないよう時折り唇を噛みながら、シュヴィアはヒロインを睨みつけた。
「物語じゃない。小説じゃない。ここは、生身の人間が生きる、現実です」
でなければ、今のシュヴィアが毒に倒れることも、麻痺に不自由することもない。
この痛みは、苦しみは、悔しさは、そして愛しさや喜びも、すべて生身のリアルだ。
「覚悟がある。わたしには、ここで生きて、」
もしも元のシュヴィアが戻らないとしたら。
「生き抜いて、死ぬ覚悟がある」
言葉にして、やっと自覚した。やっと。
今のシュヴィア、じゃない。今も昔も、シュヴィアは、シュヴィアだ。
────シュヴィア。よく頑張った。
心の奥底、一番柔らかい大切な場所で眠りに就く、愛しい体温を見つけた。
肉親の死にショックを受けて、兄の代わりに毒をあおって、心身ともに傷ついたシュヴィアは、胸の一番奥でぬくもりを保っている。
今のシュヴィアの、一部として。一欠片として。
「わたしは、シュヴィア・フォン・シェルス。この国の王妹」
胸を張れ。誇りを抱き、気高く。
「我らが国王陛下の唯一の血縁です」
兄の身を傷つけたこの人は、ヒロインは、シュヴィアの敵だった。
「セルジオ」
一瞬で現れた広い背中は、そう、いつもそこでシュヴィアを守る者。
一度目の時も二度目の時も、それ以前にも。
ゆっくりと同期していく記憶の中で、この騎士はいつでも兄とシュヴィアを見守ってきた。
今もなお、兄とシュヴィア二人の紋を身にまとっている。
「拘束せよ。我が君に仇なす不届き者である」
我が君。陛下。────お兄様。
何度でも、お守りしますから。
「ええっ? 私はヒロインよ。あなた、自分が何を言っているかわかっているの?」
セルジオに拘束されながら、困ったように笑うヒロインは、どこか世界から浮いている。
「私がいないと、物語が終わっちゃうじゃない」
「終わらないよ」
「何を言うの。主人公がいない小説なんて、物語として成り立たないわ。ねえ、悪役の子猫ちゃん。考え直して。私を助けてくれないと困っちゃうわ」
ふわふわとおぼつかないこの人は、ずっと描いた物語の中で生きてきたのか。
小説とは違う道順を自らも辿って来ただろうに、未だにここが現実とは認識していない。
少しの不気味さと、それを上回る哀れみに、シュヴィアも小さく笑う。
ヒロインを他の騎士に任せた深紅の彼が、そっと華奢な身体に寄り添い支えた。
「さようなら。異世界人のお姉さん」
世界は、誰か一人を失ったくらいでは、何も変わらないんだ。残念だけれど。




