第9話:氷の歩み寄りと、不器用な待遇
マリア叔母様が文字通り逃げ帰った翌日の夜。
夕食の席は、これまでとは明らかに違う空気に包まれていた。
長い大理石のテーブル。いつもなら私の挨拶に短く頷くだけだったアルベールが、今日は私が席につくのをじっと待っていたのだ。
そればかりか、彼の手元には、職務の書類ではなく一通の豪奢な目録が置かれている。
「……アリアナ」
食事が一段落した頃、アルベールがいつもより一段低い、けれど心なしか緊張を含んだ声で私を呼んだ。
「はい、アルベール様」
「昨日のことだが……ハンスから詳しく聞いた。お前が、あの叔母を完全に黙らせたとな。……アスラン公爵家の主の座を脅かす不穏分子を排除したお前の功績は、認めざるを得ない。」
(あら、昨夜あんなに動揺していたのに、一晩で『功績の評価』っていうビジネスライクな理屈に落とし込んできたわね)
心理学でいう「感情の知性化」。
自分の中に湧き上がった「アリアナに守られて嬉しかった、惹かれた」という強い感情が恥ずかしすぎるため、あえて『功績』や『利益』という客観的な言葉に置き換えて処理しようとしているのだ。
「公爵家として、相応の恩賞を与える。……ハンス。」
アルベールの合図で、ハンスが恭しく目録を開いた。
そこに書かれていたのは、目も眩むような内容だった。
「王都の一等地にあるブラウ男爵家(実家)の借財の全額肩代わり、および、アリアナ様個人の自由になる月々の莫大な生活費の支給。さらに……公爵邸の『主寝室』の隣にある、最も日当たりの良い一等客室を、アリアナ様の正式な『私室』として開放いたします。」
ハンスが読み上げる間、周囲のメイドたちの顔がパッと華やぐ。
これは形式的な人質ではなく、事実上の「公爵夫人」としての権限と財産を与えられたに等しい。
さらに部屋がアルベールの寝室の隣になるということは、彼が心理的に「アリアナを近くに置いておきたい」と切望している証拠だった。
「……勘違いするな」
アルベールは私からフイッと視線を逸らし、耳元を微かに赤くしながら付け加えた。
「これは、アスラン公爵家としての正当な報酬だ。お前が男爵家の貧しい身なりのままでいては、俺の面目に関わる。それに、隣の部屋なら……万が一お前が良からぬ企みをしても、俺がすぐに監視できるからな」
(『面目のため』に『監視のため』。相変わらず防衛線だらけのツンデレの教科書みたいな言い訳ね。でも行動がすべてを物語っているわよ、アルベール様)
人間は言葉で嘘をつくが、行動は嘘をつかない。
本当にスパイだと疑っているなら、自分の寝室の隣の部屋など絶対に与えないはずだ。
彼は無意識のうちに、私の「安全基地」にいつでも逃げ込めるよう、自ら物理的な距離をゼロに縮めてきたのだ。
私は、目録をそっと閉じると、アルベールに向けて心からの愛おしさを込めた微笑みを送った。
「ありがとうございます、アルベール様。私の実家のことまでお気遣いいただけるなんて、本当に深い慈悲をお持ちの方ですね。あなたのその広いお心に、私は救われました。」
「っ……、だから、俺の面目のためだと言っているだろう。」
「ええ、分かっております。ですが、何より嬉しいのは、アルベール様のすぐお隣にいられることですわ。これで、あなたが夜遅くにお仕事で疲れたときも、すぐに温かいハーブティーをお持ちできますもの。」
「お前は……っ、どこまで図太いんだ……。」
アルベールは片手で顔を覆ったが、指の隙間から覗くアメジストの瞳は、激しく明滅していた。
拒絶したいのに、私の言葉が胸に心地よく響いてしまう。その快感(全肯定される心地よさ)に、彼の脳は確実に「依存」し始めている。
心理学における「報酬予測エラー」。
「冷たくすれば離れていくはず」という彼の過去のデータに対し、アリアナは「冷たくされても100%の愛を返す」という予測不可能な報酬を与え続ける。結果、アルベールの脳内ではドーパミンが異常分泌され、アリアナのことばかりを考えるようになっていくのだ。
「……もういい。俺は執務室に戻る。」
アルベールはいつものように逃げるように立ち上がったが、その足取りは昨日までのような冷酷なものではなく、どこか私の反応を伺うような、甘やかな余韻を残していた。
(ふふ、いい調子。これで完全に外堀も内堀も埋まったわ。……さて、次はいよいよ社交界かしら?)
公爵夫人としての地位を確立し始めたアリアナの前に、次なる展開が待ち受けていた。




