第10話:社交界への切符と、死神の独占欲
私室がアルベールの主寝室の隣へと移されてから、さらに二週間。
公爵邸での私の生活は、快適そのものだった。実家の借金が完済されたという報せに胸を撫で下ろしつつ、私は公爵夫人としてのマナーや歴史の勉強に励んでいた。
――というのは表向きで、実際は屋敷に揃えられた他国の人間心理に関する書物を読み漁り、この世界の『こじらせ貴族たち』の傾向を分析していたのだ。
そんなある日の朝、アルベールが私の部屋の扉を自ら叩いた。
「……アリアナ、入るぞ。」
見慣れた軍服姿ではなく、今日は最高級の仕立ての深い紺色の夜会服に身を包んだアルベールがそこにいた。
ただでさえ人間離れした美貌が、夜の正装によっていっそう冷徹に、そして妖艶に際立っている。
「アルベール様、お召し替えですか? 息を呑むほど素敵ですわ」
私が心からの賛辞を贈ると、アルベールはふいっと視線を斜め下に落とし、喉の奥で小さく咳払いをした。
「……お前の世辞は相変わらず大袈裟だ。それより、これを。」
ハンスが後ろからうやうやしく掲げたのは、金箔が施されたラングレイス皇室の招待状だった。
「三日後、皇宮で皇帝陛下主催の春宵が開かれる。お前を『アスラン公爵夫人』として公式の場でお披露目する。……これまでのように、屋敷の中だけで叔母相手に大口を叩いているのとはわけが違うぞ。王都の狐狸どもが、お前の粗を探そうと大挙して押し寄せてくるはずだ。」
アルベールのアメジストの瞳が、鋭く光る。その言葉は厳しい忠告のようだったが、私のカウンセラーとしての耳はその裏にある「過保護なまでの心配」を聞き逃さなかった。
(あ、これは『お前が傷つくかもしれないから、俺の後ろに隠れていろ』っていう、彼なりの不器用な騎士道精神ね)
「お気遣いありがとうございます、アルベール様。ですが、私はあなたの妻ですもの。恥をかかせるようなことはいたしませんわ」
「フン……。分かっているならいい。当日は、俺の側を片時も離れるな。お前のような無防備な女、百戦錬磨の貴族どもに一瞬で食い荒らされるのがオチだからな」
そう言って私の肩を軽く引き寄せる彼の手に、ほんのわずかだけ、力がこもる。
かつて「愛される幻想は捨てろ」と吐き捨てた男が、今や「俺の側から離れるな」と、強烈な「独占欲」を滲ませているのだ。
心理学において、人間不信の人間が特定の「安全基地」を見つけたとき、その執着心は常人の数倍にも跳ね上がる。彼はまだ自覚していないが、アリアナという存在を他人に触れられたくない、見せびらかしたくないという猛烈な独占欲の塊――「溺愛モンスター」の雛形が、完全に形成されつつあった。
そして迎えた、晩餐会当日。
皇宮のまばゆいシャンデリアの光が降り注ぐ大広間。
「アスラン公爵閣下、ならびにアリアナ公爵夫人、ご入場!」
ハルバードを持った近衛兵の朗々とした声が響き渡り、巨大な扉が開かれた瞬間、数百人の貴族たちの視線が一斉に私たちへと突き刺さった。
「おい、見ろよ……。あの戦場の死神が、本当に女を連れているぞ。」
「ブラウ男爵家の……確か、地方の貧乏貴族の娘だろう? なぜあんな泥娘がアスラン公爵夫人の座に……。」
ヒソヒソと囁かれる、嫉妬と蔑みの混ざったノイズ。
私を品定めするような冷ややかな視線の嵐。
アルベールは、私の腰に回した手にグッと力を込め、周囲を威嚇するようにアメジストの瞳をギラリと光らせた。
だが、私の唇は、この夜会で最も不敵な、そして美しい弧を描いていた。
(さあ、お待たせいたしました、王都の有象無象の皆さん。現代心理学による『集団メンタルハック』の時間よ。誰から順番に、その認知の歪みをへし折られたいかしら?)
きらびやかな地獄の社交界で、アリアナの快進撃が幕を開けようとしていた。




