第11話:社交界の毒蛇と、認知の反転
きらびやかな皇宮の大広間。
シャンパンの泡が揺れるグラスを片手に、私たちを取り囲む貴族たちの視線は好奇と悪意に満ちていた。
アルベールは、私の腰を抱く手にじわりと力を込め、周囲を寄せ付けないほどの鋭い殺気を放っている。戦場の死神としての威圧感。
並の貴族なら、その一瞥だけで震え上がって退くところだが、ここは「言葉の刃」で戦う宮廷だ。
死神の武力を恐れつつも、その隣にいる「貧乏男爵令嬢」を精神的に引きずり降ろそうとする命知らずは、必ず現れる。
「――お初にお目に掛かります、アスラン公爵閣下。そして……そちらが噂の、新しい『公爵夫人』ですのね?」
扇子で口元を隠しながら、優雅な足取りで近づいてきたのは、一際豪華なエメラルドのドレスを纏った若い令嬢だった。
彼女の後ろには、数人の貴族令嬢たちが取り巻きのように控えている。
ハンスから事前に共有されていた夜会の要注意人物リストが、私の脳内で瞬時に合致した。
ラングレイス皇国でも有数の権勢を誇る、ロベルト侯爵家の令嬢・セシリア。
彼女はかつて、アルベールの公爵夫人の座を最も激しく狙い、冷酷に一蹴された過去を持つ「こじらせ令嬢」の筆頭格だ。
「セシリアか。……何の用だ。」
アルベールの声が、氷床のように冷たく響く。
しかし、セシリアは可憐に微笑みながら、アメジストの瞳ではなく、私の纏うドレスへと値踏みするような視線を向けた。
「お祝いを申し上げに参りましたの。ですが……まぁ、そちらのドレス、大変素晴らしい仕立てですこと。ブラウ男爵領の『一年分の税収』をすべて注ぎ込んでも、お袖のレース一枚すら買えなくてよ? 泥にまみれた地方の小鳥が、急に公爵家の黄金の籠に入れられて、さぞかし驚いて震えていらっしゃるのではないかしら?」
クスクスと、背後の令嬢たちから下品な忍び笑いが漏れる。
「お前は身分不相応な泥娘だ」という、あからさまな階級マウンティング。
アリアナの出自の低さを周囲に印象付け、公爵夫人としてのプライドを公式の場で粉砕しようとする王道にして陰湿な一撃だ。
アルベールのアメジストの瞳が、怒りで一気に暗転した。
「セシリア、貴様――。」
彼がその冷徹な牙を剥き彼女を社交界から抹殺せんと一歩踏み出そうとした、その瞬間。
私は、彼の夜会服の袖を、そっと指先で引いて止めた。
「アルベール様、大丈夫ですよ。」
私はアルベールに、最高に甘く、穏やかな微笑みを返す。
アルベールが「っ……お前、何を……」と息を呑むのを横目に、私はゆっくりとセシリアの方へと向き直った。
その瞳には、怒りも、恥辱も、怯えも一切ない。
ただ、どこまでも深く、すべてを見透かしたカウンセラーの「慈愛の視線」だけがあった。
(――なるほどね。典型的な『自己対象の喪失』による防衛行動、および『シャドー』の投影だわ。)
心理学において、セシリアのように他人の出自を激しく攻撃する人間は、「自分自身が『条件付きの価値』でしか愛されてこなかった人間」だ。
彼女は高貴な侯爵令嬢として、完璧なマナー、高価なドレス、高い身分という「条件」を必死に維持することでしか自分の価値を証明できない。
だからこそ、何の条件も持たない貧乏男爵令嬢のアリアナが、最高峰のアルベールに選ばれたという現実が彼女のアイデンティティを根本から脅かしているのだ。
「セシリア様。……本当に、お可哀想に」
「……は? お可哀想、ですって……!?」
セシリアの完璧な笑顔が、ピキリとひび割れた。
「ええ。あなたはこれまで、周囲の大人たちから『完璧な侯爵令嬢でいなければ価値がない』『最高級のドレスを着ていなければ愛されない』と、過酷な条件ばかりを突きつけられて生きてこられたのですね。だから、ドレス一枚で人間の価値が決まると思い込んでしまっている」
「な、何を――」
「私は、ドレスが豪華だからアルベール様に選ばれたのではありません。何もない私という存在を、アルベール様が無条件で受け入れてくださった。だから私は、このドレスに負けないくらい、彼を幸せにしようとここに立っているのです。……セシリア様、あなたには、そんな風に『条件をすべて剥ぎ取った、裸のあなた』を愛してくれる味方は、いらっしゃるのかしら?」
「っ――あ、ああ……っ!!」
応接室の時以上の、強烈な「直面化」。
セシリアの後ろにいた取り巻きの令嬢たちが、ハッと息を呑んで後ずさりした。
セシリアの顔は、屈辱を通り越し、まるで自分の魂の最も暗く寂しい部分を白日の下に晒されたかのように恐怖で真っ白に変色していた。
ドレスの価値でしか自分を測れない彼女の脆弱な自尊心が、アリアナの「無条件の全肯定」という本質的な強さの前に、文字通り粉々に粉砕されたのだ。
「う、嘘よ……そんな、私を、愚弄するなんて……っ!」
セシリアは涙目で私を睨みつけようとしたが、私の底知れない包容力を湛えた瞳に気圧され、ついに耐えかねたようにドレスの裾を掴んで走り去ってしまった。
静まり返る大広間。
周囲の貴族たちは、あの傲慢な侯爵令嬢を言葉だけで完全自滅させた「不敵な公爵夫人」の姿に、もはや侮蔑ではなく、本物の畏怖の視線を送っていた。
「……アリアナ」
背後から、アルベールの低く、ひどく掠れた声が聞こえた。
振り返ると、彼はアメジストの瞳をこれまでにないほど激しく揺らし、まるでおのれの命のすべてを私に捧げてしまいそうな、狂おしいほどの熱い視線を私に注いでいた。
(ふふ、王都の皆さんも、アルベール様も、まとめてハック完了ね)
社交界の夜は、まだ始まったばかりだった。




