第12話:皇帝の招きと、死神の過保護
セシリア令嬢が泣きながら逃げ出した後、大広間の空気は一変していた。
私を「泥娘」と見下していた貴族たちは、蜘蛛の子を散らすように距離を取り遠巻きに恐る恐るこちらを伺っている。
そんな中、私の夜会服の袖を、アルベールが強い力で引いた。
「アリアナ、帰るぞ。……今すぐだ。」
彼のアメジストの瞳は、激しい動揺と剥き出しの「危機感」で満ちていた。
周囲の貴族に怒っているのではない。
マリア叔母上に続き、社交界の毒蛇であるセシリアまでをも一瞬で精神的に解体してしまった私という存在がこれ以上目立つことを、彼は本能的に恐れているのだ。
「アルベール様? まだ晩餐会は始まったばかりですが……。」
「お前は自分の仕出かしたことが分かっていない。お前のその『人の心を暴く力』は、あまりにも異質で、あまりにも魅力的すぎる。……ここに長居すれば、王都の悍ましい権力者どもが、お前を俺から奪おうと、どんな罠を仕掛けてくるか分からない。お前は、俺の……っ。」
(あら。『俺の側にいろ』から、ついに『俺の後ろに隠れていろ』に進化しちゃった。この過保護、心理学的に見ても、完全に独占欲が限界突破してる証拠ね)
人間不信だった彼が、人生で初めて得た「無条件の味方」。
それを他人に汚されたくない、奪われたくないという防衛本能が、彼を狂おしいほどの過保護へと突き動かしている。かつて冷酷に私を突き放した面影は、もうどこにもない。
しかし、彼が私を連れて出口へ向かおうとしたその時、私たちの前に立ち塞がる影があった。
「――お出掛けですか、アスラン公爵。せっかく、面白い花嫁を連れてきてくれたというのに、挨拶もなしに退散とは冷たいではないか。」
現れたのは、金糸の刺繍がこれでもかと施された純白の法衣を纏った男。
その周囲を、何十人もの近衛兵が冷徹な威圧感で固めている。
ラングレイス皇国の最高権力者であり、アルベールに数々の過酷な戦場を押し付け、この政略結婚を仕組んだ張本人――皇帝、フリードリヒだった。
「……陛下。」
アルベールが私の前に一歩踏み出し、完全に私を背中に隠すようにして、低く地を這うような声で応じる。その背中には、いつでも剣を抜くかのような凄まじい殺気が張り詰めていた。
皇帝フリードリヒは、アルベールの威嚇など気にも留めず、細められた冷興な瞳で、彼の背後にいる私をじっと見つめた。
「ブラウ男爵家の娘アリアナ。先ほどの一部始終、上階の特等席から見させてもらったよ。冷徹な死神の心をハックし、侯爵家の令嬢を言葉だけで狂わせる。……恐ろしい娘だ。お前のような『人心掌握の怪物』を、一地方の貧乏男爵家に眠らせておいたとは、我が皇国の大いなる損失だな。」
皇帝の言葉には、明確な「支配欲」が混ざり合っていた。
彼は、私をアルベールを縛るための『人質』として送り込んだはずが、予想外に強力な『兵器』であると気づき、今度は自分自身の手元で飼い慣らそうと、その冷徹な計算を働かせているのだ。
心理学における「マキャベリズム」。
他者を人間としてではなく、自分の利益のための「道具」や「駒」としてしか見ない、極めて自己中心的で冷酷な支配者の心理構造。
皇帝はまさに、その病理の体現者だった。
アルベールがこれまで、この男の下でどれほど心を削られ、道具として扱われて傷ついてきたかが、皇帝のその一瞥だけで痛いほど理解できた。
アルベールが、私の前で拳を血がにじむほど強く握りしめる。
「陛下……アリアナに手を出すことは、この俺が――」
彼が皇帝への反逆すら口にしそうになった、その時。
私は、アルベールの大きな背中に、後ろからそっと両手を添えた。
「大丈夫ですよ、アルベール様」と、彼の背中に体温を伝えるように優しく囁く。
それだけで、ガチガチに緊張していた彼の背中の筋肉が、嘘のようにフッと緩んだ。
私はアルベールの横から一歩前に出ると、最高権力者である皇帝に向かって、少しの気後れもない、堂々とした淑女の礼を捧げた。
その顔には先ほどセシリアに見せたのと同じ、すべてを包み込むような底知れない微笑みが湛えられていた。
「お初にお目に掛かります、皇帝陛下。……お可哀想に。陛下は、誰も信じられない、孤独な玉座の上で、ずっと凍えていらっしゃるのですね」
大広間の空気が、今度こそ完全に、呼吸を忘れたかのように停止した。




