第8話:死神の揺らぎと、手向けられた畏怖
「……何が起きている」
開かれた扉の境界に、アルベールは立ち尽くしていた。
夕前の光が彼の美しい銀髪を斜めに切り取り、アメジストの瞳には、かつて戦場で強敵と対峙した時ですら浮かべたことのないような剥き出しの「驚愕」が宿っている。
ハンスが慌てて一礼し、これまでの経緯を手短に主君へと報告した。
アルベールはそれを聞きながらも、視線を私から一切外さない。
彼の視線は、ただの貧乏令嬢を見るものではなく、得体の知れない超越者を凝視するような畏怖の念が混ざり合ったものに変わっていた。
「マリア叔母上が……一言も言い返せずに、逃げ帰った、だと……?」
アルベールは呟き、ゆっくりと私に歩み寄ってくる。
その足取りは、いつもの威風堂々としたものというより私の「正体」を測りかねて警戒する野生動物のようだった。
「お前は……一体何をした? 叔母上は、俺の弱みや公爵家の醜聞を突いては、執拗に身内の心を削りに来る執念深い女だ。それを、ただの言葉だけで、あそこまで怯えさせるとは……」
彼の言葉には、マリアに対する積年の嫌悪と、それを一瞬で払いのけた私への困惑が満ちていた。
彼自身もまた、あの叔母からの陰湿な精神的攻撃に、人知れず心を痛めてきた被害者の一人なのだ。
私は、彼の前にそっと立ち上がると、昨日までと何も変わらない春の陽だまりのような微笑みを浮かべた。
「何も特別なことはしていませんよ、アルベール様。ただ、叔母様が抱えていらっしゃる『心の痛み』をお伺いしただけです。」
「痛みを、だと……? あんな悪辣な女の、どこにそんなものがある。」
「人間は誰しも、自分が傷ついている分だけ、他人のことを傷つけたくなる生き物なのです。アルベール様が『冷徹な仮面』で周囲を遠ざけたように、叔母様は『傲慢な言葉』で周囲を威嚇していた。表現の方法が違うだけで、根っこにあるのは同じ――『私はここにいていいのだろうか』という、強い不安ですわ」
私の言葉が紡がれるのを、アルベールは息を詰めて聞いていた。
彼の美しい顔が、かすかに歪む。
「……お前は、いつもそうだ。まるで、すべてを見通しているかのように語る」
アルベールが一歩、私との距離を詰めた。
彼から漂う上質な香木の香りが、私の鼻腔をくすぐる。
彼は私の両肩を掴みかねない勢いで手を伸ばしかけた。
――けれど、その指先は虚空で躊躇うように止まった。
「俺の心を見透かし、今度は叔母上の心まで暴いた。お前は……そうやって、人の心を玩具のように弄び、俺の公爵家を裏から操るつもりなのか? 答えろ、アリアナ!」
彼の声は低く震えていた。
これは怒りではない。自分の『世界の前提(=人は誰も信じられない、誰もが自分を利用しようとしている)』が、アリアナという存在によって根底から覆されようとしていることへの必死の抵抗だ。
心理学において、これを「認知の不協和」と呼ぶ。
「この女はスパイだ、信じてはいけない」という自分の認知と、「この女は自分を無条件で肯定し、守ってくれる」という現実の体験が衝突し、彼の脳内は大混乱に陥っているのだ。
私は、空中で止まったままの彼の大きな、けれど温かい右手を、そっと自分の両手で迎えにいった。
昨夜の初夜と同じように、優しく、包み込むように。
「アルベール様。操るだなんて、そんな面倒なことはいたしません。」
「っ……、お前……」
「私はただ、あなたの味方でありたいだけです。世間の全てがあなたを恐れ、利用しようとしても、私だけはあなたの味方です。先ほど叔母様を追い返したのも、私の『安全基地』であるあなたを、これ以上誰にも傷つけさせたくなかったから。……それだけですよ?」
真っ直ぐに彼を見つめ、100%の純度で「あなたのために動いた」と告げる。
アルベールのアメジストの瞳が、限界まで大きく見開かれた。
私に握られた彼の手が、ドク、と大きく脈打つ。
彼の強固な鎧の奥で、何かが完全に決壊する音が聞こえた気がした。
「……意味が、わからない。」
彼は消え入りそうな声でそう呟くと、私の手を今度は振り払うこともせず、ただ視線を床へと落とした。
彼の耳の裏が、夕日よりも赤く染まっているのを、私は見逃さなかった。
(よし。これで『外敵からの防衛』と『絶対的な味方の提示』が同時に完了ね。アルベール様、もうあなた、私のいない世界には戻れませんよ?)
冷徹公爵の心をハックするマインドシフト計画は、周囲の人間を巻き込みながら、さらに深い段階へと進み始めていた。




