第5話:不器用な引き止めと、最初の甘やかし
「……待て」
背後から突き刺さったアルベールの声は、いつもの冷徹な命令というよりは、どこか切羽詰まった、掠れた響きを孕んでいた。
私は扉のノブに手をかけたまま、ゆっくりと振り返る。
アルベールは椅子から立ち上がりかけていた。
しかし、私と視線が合うと、自分が無意識に引き止めてしまったことに気づいたのだろう、ひどくバツの悪そうな、戸惑った表情を浮かべて動きを止めた。
「……何でしょうか、アルベール様?」
私はあえて、何も気づいていないような無垢な微笑みを湛えて問いかける。
アルベールは泳ぐ視線をなんとか机の上の書類へと戻し、形の良い唇を苦々しげに歪めながら、ぶっきらぼうに言った。
「……その、茶だ。お前が毒見と称して先に口をつけたのだろう。……ならば、残りを捨てるのは、アスラン公爵家の名に懸けて、無駄を嫌う俺の主義に反する」
(まぁ。なんて古典的で可愛い言い訳なのかしら)
心理学でいう「合理的理由づけ(合理化)」。
人は、自分の本当の欲求(=本当はアリアナに行ってほしくない、お茶を飲んでみたい)を素直に認められないとき、それを正当化するための理屈を無理やり作り出す。
最強の軍人が、貧乏令嬢の前で必死に頭を回転させてそんな言い訳を考えているかと思うと、愛おしさすら込み上げてくる。
「ええ、ぜひ召し上がってください。あなたが口をつけてくださるなら、ハーブたちも本望ですわ」
私は扉から離れ、再び彼の机へと歩み寄った。
アルベールは小さく息を吐くと、諦めたように白磁のカップを端正な指先で持ち上げ、ゆっくりと唇を浸した。
静まり返った執務室に、彼が小さく喉を鳴らす音が響く。
カモミールとレモンバームの温かい液体が彼の身体に染み渡っていくのを見守る。張り詰めていた彼の肩のラインが、温かさと香りの効果で、ほんのわずかに緩んだのを私は見逃さなかった。
「……悪くない」
カップをソーサーに戻し、アルベールは短くそう呟いた。
それが、彼が人生で初めて他人に示した、最大級の「甘え」であり「妥協」なのだと私には分かった。
「それは良かったです。アルベール様、少しだけ、そこでお目を閉じませんか?」
「何……? 職務中に何を言う」
「ほんの3分、いえ、1分で構いません。椅子にもたれかかって、深く息を吐いてみてください。張り詰めた神経を少しだけ緩めるのです。誰にも見られません、この部屋には今、あなたを全肯定する私しかいないのですから」
アルベールは眉をひそめ、私の突拍子もない提案を拒絶しようとした。
しかし、私の真っ直ぐな、そして全てを包み込むような瞳に見つめられると、抗うだけの気力が湧かなかったらしい。彼は深く重いおのれ(・ ・ ・)の身体を、豪奢な革張りの椅子の背もたれへと預けた。
そして、ゆっくりと長い睫毛を伏せ、瞳を閉じた。
「……馬鹿げている。このようなことで、俺の疲労が――」
「深く吸って、ゆっくり吐いてください……そう、上手です」
耳元で囁くように、カウンセリング特有の、脳をリラックスさせる低く穏やかなトーンで声をかける。
アルベールの呼吸が、少しずつ、深く規則正しいものへと変わっていく。
窓から差し込む柔らかな光が、彼の美しい銀髪と、少しだけ険しさの取れた寝顔のような横顔を照らしていた。
(よしよし。これで『アリアナの前では、張り詰めなくても生きていられる』という快感を、彼の脳と身体に強烈に記憶させることができたわね)
これが、彼がこれから私なしでは生きられなくなる、「溺愛モンスター」へと至る最初の依存の種だ。
静寂の中、しばらく彼の穏やかな呼吸音が響いていたが、やがてカチリ、と部屋の時計が1分を告げる音を鳴らした。
アルベールが、ハッと夢から覚めたようにアメジストの瞳を開ける。その瞳は、先ほどまでの刺々しさが嘘のように、驚くほど澄んでいた。
「……お前、俺に何を……」
自分の身体が驚くほど軽くなっていることに、アルベールは驚愕の色を隠せない。
「ほんの少し、私に心を委ねてくださったのです。ありがとうございました、アルベール様。これで午前中のお仕事も、きっと捗りますわね」
私はトレイを胸に抱え、最高に愛らしいお辞儀をした。
「では、私はこれで。今夜の夕食の席で、またお会いできるのを楽しみにしております」
今度こそ、私は振り返らずに執務室の扉を開け、足早に退室した。
扉が閉まる直前、背後から「あ、……」という、アルベールが何かを言いかけて飲み込んだ、掠れた声が聞こえた気がした。
部屋の外に出ると、廊下でハラハラしながら待っていたハンスが、私の顔を見るなり目を見開いた。
「アリアナ様……閣下は、お怒りになられませんでしたか?」
「いいえ。お茶も綺麗に召し上がってくださったわ。ハンス、アルベール様は少しお疲れが取れたご様子よ。これからのお仕事、静かに集中できるよう配慮して差し上げてね」
「お茶を、閣下が……!? ……あ、お、畏まりました。そのように手配いたします!」
ハンスの目が、もはや尊敬を通り越して、伝説の猛獣使いを見るかのような畏怖の念に変わっている。
(ふふ、完璧だわ。でも、公爵領のトップをハックしたからって、物語はそう簡単には終わらないのよね。……長編小説なら、そろそろスパイスが必要かしら?)
屋敷の廊下を歩きながら、私は次なる展開を予想して、不敵に微笑むのだった。




