第4話:執務室の牙城と、一杯のハーブティー
アスラン公爵邸の最奥に位置する執務室。
そこはアルベールが外界を拒絶し、ひたすら孤独に「完璧な公爵」を演じ続けるための牙城だった。
午前中の仕事を終えた頃を見計らい、私は厨房で淹れたてのハーブティーをトレイに載せ、その重厚な扉の前に立っていた。
付き添ってきたハンスが、緊張した面持ちで扉をノックする。
「閣下、アリアナ様がお茶をお持ちになりました」
室内から返ってきたのは、予想通りの、低く冷徹な拒絶の声だった。
「……必要ない。下がらせろ。俺は今、手が離せない」
ハンスが困ったように私を振り返る。普通の令嬢なら、この時点で「お邪魔をしてしまって申し訳ありません」と泣きながら退散するところだろう。
けれど、カウンセラーとしての私は、彼の「来るな」という拒絶を、『これ以上、俺の心に踏み込んでかき乱すな』という強い警戒の裏返しだと解釈する。
「大丈夫よ、ハンス。トレイを貸して」
私はハンスからトレイを受け取ると、彼を下がらせ、自ら扉のノブに手をかけた。そして、鍵がかかっていないのを確認すると、すんなりと部屋の中へ足を踏み入れた。
「――っ、言ったはずだ。下がれと!」
書類にペンを走らせていたアルベールが、鋭く顔を跳ね上げる。
そのアメジストの瞳には、自分の聖域を侵されたことへの明らかな怒りと、それ以上の「動揺」が走っていた。
「申し訳ありません、アルベール様。ですが、どうしてもこの温かいうちに召し上がっていただきたくて。安眠と疲労回復に効く、カモミールとレモンバームのハーブティーです」
私は彼の怒気など意に介さず、優雅な足取りで机に近づき、うずたかく積まれた書類のわずかな隙間に、そっと白磁のカップを置いた。
立ち上る湯気とともに、ふんわりと甘く爽やかな香りが、緊張感で満ちていた執務室の空気を優しく塗り替えていく。
「……俺を毒殺でもする気か? 貧乏男爵家の令嬢が淹れた素性の知れない茶など、飲めるわけがないだろう」
アルベールはカップを一瞥し、忌々しげに吐き捨てた。
「毒殺」という極端な言葉が出るのは、彼がこれまで周囲からどれほど命を狙われ、人間不信の中で生きてきたかの証明だ。
心理学でいう「投影」――自分の心にある恐怖を、周囲の環境に映し出している状態である。
私はフッと微笑むと、迷わずそのカップを手に取り、自ら唇を潤した。
「――お味見です。これで安心していただけましたか?」
「お前……っ、何を……!」
「私はあなたの味方です、アルベール様。あなたを害する人間は、この私が絶対に許しません。だから、私の前でまで、そんなに五感を尖らせて警戒しなくても大丈夫ですよ」
カップを机に戻し、私は彼の前に屈み込むようにして、机に両手をついた。
座っているアルベールと、視線の高さを合わせる。
心理学における「アイレベル(視線の同調)」。上から見下ろすのではなく、同じ高さで向き合うことで、相手の無意識の警戒心を解くテクニックだ。
「昨夜からずっと、誰のことも信じられない暗闇の中で、一人で戦っていらしたのでしょう? でも、もう一人ではありません。私があなたの『安全基地』になります」
「安全基地……?」
アルベールが、呆然としたようにその言葉を繰り返す。
「ええ。どれだけ外で戦って傷ついても、ここに戻ってくれば絶対に否定されず、無条件で受け入れられる場所。それが私です。あなたがどれだけ冷たくしても、私はあなたを嫌いになりません」
アルベールのアメジストの瞳が、激しく揺れ動いた。
彼はペンを握ったまま、まるで息をすることすら忘れたかのように、私を見つめている。
彼の本能が、私の言葉を求めているのが分かった。
『お前は完璧でなくてもいい』
『弱くても見捨てない』
という、彼が生まれてから一度も与えられなかった「無条件の愛」という光に、彼の凍りついた心が、じわじわと、けれど確実に溶かされ始めている。
「……狂っている」
長い沈黙のあと、アルベールは掠れた声でそう呟いた。
彼は、私を睨みつけることもできず、ただ視線を落とし、机の上のハーブティーから立ち上る湯気をじっと見つめる。
「お前は、狂っている。俺を……アスラン公爵を、そんな言葉で揺さぶれると思うな」
口では拒絶しながらも、彼の長い指先が、そっとハーブティーのカップの持ち手に触れた。
引き剥がすためではない。その温もりを確かめるように、愛おしそうに、指先を這わせている。
(ふふ、ツンデレの『ツン』が、少しずつ崩れてきたわね)
「それでは、私はこれで失礼しますね。お仕事の邪魔をしてしまいましたから。ハーブティー、冷めないうちにどうぞ」
私は満足して立ち上がり、一礼して部屋を出ようとした。
その時――。
「……待て」
背後から、アルベールの低く、どこか切羽詰まったような声が私を引き止めた。




