第3話:朝食の席と、冷ややかな視線
気高い小鳥のさえずりが、高く大きな窓から差し込む朝の光とともに聞こえてくる。
昨夜、夫であるアルベールが執務室へと逃げ去った後、私は驚くほど熟睡していた。
見知らぬ異世界の、しかも「死神」と恐れられる男のベッドだというのに、私の精神的タフネスは我ながら大したものだと思う。
プロのカウンセラーたるもの、クライエントの感情の嵐に巻き込まれて自分が寝不足になっていては仕事にならないのだ。
「――お目覚めですか、アリアナ様」
扉を開けて入ってきたのは、数人のメイドを引き連れた初老の家令だった。
名はハンス。
アスラン公爵家に長年仕えているという彼は、一切の感情を排した鉄の仮面のような顔で私を一瞥した。
その目は、明らかに冷ややかだった。
昨夜、公爵閣下が初夜の寝室を訪れてすぐに執務室へ戻り、そのまま朝まで出てこなかったことは、すでに屋敷中の使用人に知れ渡っているのだろう。
「初夜に夫に拒絶された、哀れで価値のない飾り物の花嫁」
ハンスやメイドたちの立ち振る舞いには、主君の妻に対する敬意ではなく、腫れ物に触れるような、あるいは見下すような淡々とした空気が流れていた。
「お召し替えを。閣下が食堂でお待ちです」
「ええ、ありがとう。ハンス」
私はあえて、彼らの冷淡な態度に気づかないフリをして、極上の微笑みを返した。
(なるほど。使用人たちのこの態度は、彼ら自身の『保身』ね。主君が愛していない花嫁にうっかり肩入れして、後で閣下の逆鱗に触れたら困る。だから、主君の態度を鏡のように真似て、私を突き放しているわけだわ)
人間は、集団の中で「強い者」の態度に同調しやすい。
これを心理学では「同調行動」と呼ぶけれど、これを逆手に取るのは簡単だ。トップであるアルベールさえマインドシフトしてしまえば、この屋敷の空気は一瞬でひっくり返る。
鏡の前で、落ち着いた仕立ての美しい日用ドレスに着替えさせてもらい、私はハンスの案内で広い食堂へと向かった。
長い長い大理石のテーブルの、その上座に、アルベールは座っていた。
昨夜の軍服姿とは違い、上質な黒い上着を気だるげに纏っている。
朝の光の中で見る彼は、人間離れした美貌がいっそう際立っていたが、その目の下には、ほんのりと薄い隈が浮かんでいた。
(あら。やっぱり一睡もできなかったみたいね。可愛いこと)
私が食堂に入っても、アルベールは視線をこちらに向けようとせず、手元の書類に目を落としたまま、冷淡に言い放った。
「座れ。……昨夜言った通り、朝食の席を共にするくらいはしてやる。それ以上の会話を期待するな」
食堂に控えるハンスやメイドたちの間に、ほら見ろ、と言わんばかりの緊張感が走る。
主君のあからさまな冷遇。
しかし、私は優雅に一礼して席につくと、運ばれてきたスープの香りを 胸いっぱいに吸い込み、アルベールに向けて、昨日と変わらない温かい視線を送った。
「おはようございます、アルベール様。お顔を拝見できて嬉しいです。……でも、あまり眠れなかったご様子ですね? 目元がお疲れですわ」
ピク、とアルベールの手が止まった。
書類から視線が跳ね上がり、アメジストの瞳が私を強く睨みつける。
「……誰のせいで眠れなかったと――」
言いかけて、アルベールはハッと口を噤んだ。
「お前のせいで一晩中悩んでいた」と、使用人たちの前で自白するようなものだと気づいたのだろう。
彼の耳たぶが、微かに屈辱と動揺で赤くなる。
「私、アルベール様が夜遅くまでお仕事を頑張っていらっしゃると思うと、胸が締め付けられる思いでした。公爵としての責任感が、それほどまでに強いのですね。本当に尊敬いたします」
「お前……っ、嫌味のつもりか?」
アルベールが声を低くする。彼は、私が自分の弱み(寝不足)を突いて、周囲の前でマウンティングを仕掛けてきていると疑っているのだ。
防衛本能が、私の言葉を「攻撃」へと変換しようとしている。
しかし、私は一切の邪気のない、澄んだ瞳で彼を見つめ返した。
「滅相もございません。ただ、世間はあなたを『冷徹な死神』と呼びますが、私はそうは思いません。これほど広大な領地と人々を守るために、ご自身の睡眠を削ってまで義務を果たそうとされている。あなたは誰よりも責任感が強く、身を粉にして戦う『不器用で、優しい守護者』です」
食堂の空気が、凍りついた。
ハンスやメイドたちが、驚愕に目を見開いて私とアルベールを交互に見つめている。
死神と恐れられる公爵に向かって、これほど真っ直ぐに、その内面の「美徳」を肯定した人間など、かつて一人もいなかったからだ。
心理学における「ゴーレム効果とピグマリオ効果」。
人は、他人から「お前は冷酷な悪魔だ」と言われ続けると、本当に冷酷な悪魔のように振る舞うようになってしまう(ゴーレム効果)。アルベールはまさに、周囲の恐怖の視線によって「死神」という役割を押し付けられてきた。
だからこそ、私は彼に別のラベルを貼る。あなたの本質は「優しい守護者」なのだと、言葉で呪縛を解いていく。
「……チッ」
アルベールは耐えかねたようにスプーンを置くと、乱暴に椅子を引いて立ち上がった。
「食欲が失せた。ハンス、書類を執務室へ運べ」
「は、はい! 閣下!」
アルベールは私から逃げるように、大股で食堂を出ていこうとする。
しかし、その去り際、彼はほんの一瞬だけ、縋るような、切ない視線を私に投げかけた。
私の言葉が、彼のガチガチに凝り固まったインナーチャイルド(傷ついた内なる子供)に、甘く、激しく突き刺さっている証拠だった。
(これで、周囲の使用人たちへの『仕込み』も完了ね)
私は、慌ててアルベールを追いかけようとするハンスを呼び止めた。
「ハンス」
「……何でしょうか、アリアナ様」
ハンスの態度から、先ほどまでの「明らかな軽視」が消え、戸惑いと、微かな恐れが混ざり合っている。
夫を怒らせて逃げられた花嫁ではなく、あの冷徹な主君を言葉だけで翻弄した「底知れない女」に見え始めたのだ。
私はハンスに、優しく微笑みかけた。
「アルベール様は、昔からああやって、ご自身の体調よりもお仕事を優先されてしまう方なの?」
「……左様、でございます。閣下は、滅多に弱音を吐かれません」
「それでは、私たちが彼を支えて差し上げなくてはね。ハンス、後で厨房へ行って、アルベール様の睡眠を助けるハーブティーの調合を指示します。私、貧乏男爵家の育ちですから、民間療法には少し詳しいのです。手伝ってくださる?」
ハンスは一瞬、言葉を失ったように私を見つめ、それから、今度は深く、静かに頭を下げた。
「――御意にございます、アリアナ様。厨房の者たちに、そのようにお伝えいたします」
よし!
使用人たちの心の掌握(ラポール形成)も、まずは第一歩ね。




