第2話:触れられた氷
「お前、は……一体、何者なんだ……?」
アルベールの掠れた声が、静まり返った寝室に虚しく響く。
私に両手を握られたまま、彼は立ち尽くしていた。
いつもなら、不躾に自分に触れる人間など、一瞥して冷酷に撥ね退けているはずだ。
現に、彼の背後にある漆黒の軍服の袖口には、数々の戦場をくぐり抜けてきた男特有の、硬く容赦のない筋肉が張り詰めている。
本気で振り払われれば、18歳の華奢な令嬢の身体など、容易くベッドへ吹き飛ばされてしまうだろう。
だが、アルベールは動かなかった。
動けなかったのだ。
(完全にフリーズしてる。防衛機制(自分を守るための心のバリア)が強すぎる人ほど、そのバリアを『想定外の角度』から突破されると、どう反応していいか分からなくなるのよね)
私は逃げようとしない彼の手を、さらに優しく、体温を分けるように少しだけ力を込めて握り直した。
「私は、アリアナです。今日からあなたの妻になる、ただの人間ですよ、アルベール様」
「ただの、人間……? 嘘を言うな。お前は、ブラウ男爵家が送り込んできたスパイか? あるいは皇帝の手先か……?」
アルベールのアメジストの瞳に、再びギラリとした鋭い光が戻る。
彼は、私が放った「無条件の受容」という甘い蜜を、本能的に「罠」だと疑おうとしているのだ。そうやって生きてこなければ、このドロドロの宮廷闘争を生き残れなかったのだろう。
「でなければ、なぜそんな目で俺を見る。なぜ、俺の心を……っ」
「誰も、あなたのその『痛みのサイン』に気づいてくれなかったのですね」
私は彼の言葉を否定せず、ただその怯えを受け止める。
そう、彼は怒っているのではなく、怯えているのだ。
自分を無条件に肯定してくれる存在が目の前に現れたことに、心が恐怖している。
「アルベール様。心理学――いえ、私の故郷の古い知恵に、こういう言葉があります。『人は、自分が扱われたようにしか、他人を扱うことができない』と」
「……何?」
「あなたは今まで、成果を出す優秀な駒として、あるいは恐ろしい死神としてしか扱われてこなかった。だから、私に対しても『形式だけの冷酷な関係』しか提示できなかった。それはあなたの本心が冷たいからではなく、それ以外の人間関係の結び方を、誰もあなたに教えなかったからです」
私の言葉が紡がれるたびに、アルベールの喉がくくりと動く。
彼の呼吸が、目に見えて浅くなっていく。
「あなたは私を『愛さない』と言ったけれど、それは私を傷つけないための、あなたなりの不器用な誠実さです。本当に冷酷な人間なら、そんな警告すら売らず、ただ都合よく私を利用して捨てるでしょう?」
「っ……、黙れ……!」
アルベールが、ついに耐えかねたように私の手を強く振り払った。
完全に拒絶された――わけではない。
彼は私から逃げるように、一歩、二歩と大きく後ずさり、暖炉の炎の影へと身を隠したのだ。
大きく肩を上下させ、乱れた前髪の間から私を睨みつける彼の顔は、酷く傷ついた獣のようだった。
軍服の胸元が、激しい動動を物語るように大きく波打っている。
「……お前を、妻として扱うつもりはないと言ったはずだ。今宵は、もう休め。俺は執務室に戻る」
彼はそれだけを吐き捨てると、私に背を向け、逃げるように重厚なマホガニーの扉へと歩き出した。
(ふふ、逃げたわね。でも、これでいい。今日のところは、彼の胸の奥に消えない『楔』を打ち込むのが目的だったから)
「アルベール様」
扉の手前で、私は彼の背中に向かって、もう一度、鈴を転がすような穏やかな声をかけた。
「お仕事、あまり根を詰めすぎないでくださいね。私はここで、あなたがお戻りになるのをいつでも待っていますから」
アルベールの背中が、ビクリと固まった。
彼は振り返ることもせず、ただ大扉を乱暴に開け、夜の廊下へと消えていった。バタン、と大きな音がして、再び寝室に静寂が戻る。
一人残された私は、ふぅ、と小さく息を吐いて、再びふかふかのベッドに腰掛けた。
「さて……。初夜から夫を執務室に逃亡させちゃったわけだけど」
普通なら『初夜の拒絶』として大問題になり、翌朝には使用人たちから冷ややかな目で見られるかもしれないシチュエーションだ。
けれど、私の唇は、不敵な弧を描いていた。
(アルベール様。あなたの心、今夜はもう一睡もできないくらい、私の言葉で満たされているはずよ)
心理学における「ツァイガルニク効果」――人は、完了した事柄よりも、途中で中断された未完了の事柄のほうを、より強く記憶に留めてしまうのだ。
アルベールは今頃、執務室の机で、私の言葉の意味を反芻し、混乱し、私の笑顔を思い浮かべて頭を抱えているに違いない。
こうして、私たちの奇妙な結婚生活の、最初の夜が更けていった。




