第1話:氷の公爵と、不敵な花嫁
冷徹公爵、戦場の死神、血も涙もない覇王――。
ラングレイス皇国で、その名を知らぬ者のいない青年、アルベール・フォン・アスラン公爵。
それが、今日から私の夫となる男の、世間における悪名だった。
貧乏男爵家の娘に過ぎない私が、人質同然の政略結婚で送り込まれたのは、王都の喧騒から切り離された広大な公爵邸。
お披露目の晩餐を終え、重厚なマホガニーの扉の向こうにある主寝室で、私は一人、ベッドの端に腰掛けてその時を待っていた。
部屋の中は、静まり返っている。
豪奢なシャンデリアの明かりは落とされ、大きな暖炉の炎が、パチパチと爆ぜる音だけが鼓膜に届く。
窓の外は深い夜。微かに揺れる風の音が、この部屋の張り詰めた沈黙をいっそう際立たせていた。
すでに重いウェディングドレスは脱ぎ捨て、身に纏っているのはシルクの薄いナイトドレス一枚だけ。
重ねられたレースの隙間から、エルボーまでのぞく白い肌に夜の冷気が触れる。
けれど、前世でトップクラスの恋愛心理カウンセラーとして、何百人もの「こじらせた人間関係」を紐解いてきた私――アリアナにとって、この状況は恐怖ではなく、ある種の「見慣れた臨床現場」のようなものだった。
ガチャリ、と静寂を破って、鍵の開く音がした。
現れたのは、漆黒の夜をそのまま纏ったかのような軍服姿の男。アルベールだ。
無造作に払われた前髪の隙間から、冷徹なアメジストの瞳が私を射抜く。
すらりと背が高く、彫刻のように整った容姿。だが、その纏う空気はあまりにも鋭利で、夜着姿の無防備な私との対比が、部屋の緊張感をいっそう跳ね上げる。
普通の令嬢なら視線が合っただけで気絶しかねないほどの威圧感だった。
彼は部屋に入るなり、私に歩み寄ることもせず、扉の近くに立ち尽くした。
片手で軍服の第一ボタンを乱暴に外しながら、冷ややかな、低い声を響かせる。
「……待たせたな、アリアナ」
その声には、歓迎の響きなど微塵もなかった。
「あらかじめ言っておく。お前との結婚は、皇帝陛下から押し付けられた単なる形式に過ぎない。我が公爵家はお前に衣食住の不自由はさせないが、それだけだ。俺に愛される、などという都合のいい幻想は、今この瞬間に捨てることだな」
冷酷な、事務的な宣告。
彼は私を見下ろしている。
その目は、「寄ってくるな、どうせお前も俺の地位や力が目当てなのだろう」と、全身で防衛線を張っている人間のそれだった。
普通の18歳の令嬢なら、この冷たい洗礼に涙を流し、薄着の心細さも相まって絶望に身を震わせるところだろう。
だが、私の目は違った。
プロのカウンセラーとしての視線が、彼の言葉の裏にある「微細な拒絶のサイン」を瞬時に捉える。
(――なるほど。腕を組んで、身体をわずかに後ろに傾ける拒絶のポーズ。視線は私を捉えているようで、微妙に焦点が合っていない。これは『他人を視界に入れたくない』のではなく、『自分の内面を見透かされるのを恐れている』状態ね)
さらに、彼の長い指先が、外したボタンのあたりでわずかに、本当にわずかに震えているのを見逃さなかった。
(冷酷無比の死神が、初夜の寝室で、10歳も年下の貧乏令嬢相手に、ガチガチに緊張して威嚇している。……可愛いところあるじゃない)
アルベールは強いのではない。
「強く、冷酷でいなければ、また誰かに裏切られる」
という、凄まじい恐怖とトラウマの檻に、自ら閉じこもっているだけなのだ。
典型的な、愛着障害による過剰な自己防衛。
彼が欲しいのは、すり寄ってくる媚びでも、地位を恐れる怯えでもない。
私はベッドからゆっくりと立ち上がった。
薄いシルクの裾が床に擦れる、衣擦れの音が静かに響く。
怯える様子もなく、まっすぐに自分へ歩み寄ってくる私を見て、アルベールのアメジストの瞳がぴくりと細くなった。
警戒の色が強まる。
「……何だ。俺の言葉が聞こえなかったのか? 距離を弁えろと言って――」
「アルベール様」
彼の拒絶を遮るように、私は彼の目の前で足を止めた。
そして、大人の包容力をたっぷりとにじませた、この上なく柔らかく、温かい微笑みを浮かべる。
私は、彼の強固な鎧で固められた右手を、両手でそっと包み込んだ。
驚いたように、彼の大きな手がびくついたが、私は離さない。
触れた彼の肌は、驚くほど冷たかった。
「な……っ、何を、している……!」
引き剥がそうとする彼の手を、優しく、けれど拒めない確かさで包み込みながら、私は彼の美しい紫の瞳をじっと見つめた。
「今まで、ずっとお一人で戦ってこられたのですね。本当にお疲れ様でした」
「……は?」
「もう、私の前でそんなに無理をして、尖って見せなくて大丈夫ですよ、アルベール様」
アルベールの思考が、完全に停止したのが分かった。
部屋の空気が、一瞬で引き絞られたように静まり返る。
「お前……何を言って……」
「愛されない幻想を捨てろ、とおっしゃいましたね。それは、『先にそう言っておけば、後から愛されなかったときに傷つかずに済むから』でしょう? あなたは、とても優しい方なのですね。だからこそ、傷つくのが怖い」
「――ッ!!」
図星を突かれた男の顔が、驚愕に見開かれる。
誰一人として、彼のこの「冷徹な仮面」の裏側を見抜いた者はいなかった。周囲の大人たちは、彼を恐れるか、利用するか、どちらかだったからだ。
「私はあなたに、完璧な公爵であることも、無敵の軍人であることも求めません。ただのアルベール様でいてくだされば、それでいいのです。あなたがどれだけ私を突き放しても、私は明日も、明後日も、あなたの味方としてここにいます。――無条件で、あなたを全肯定いたしますから」
条件付きの強さしか認められず、成果を出さなければ見捨てられる世界で生きてきた男の胸に、人生で初めての「無条件の受容」が、容赦なく突き刺さった瞬間だった。
アルベールのアメジストの瞳が、生まれて初めて、激しい動揺の渦に揺れ動いた。
彼の手の震えが、私の手のひらを通じて、ドクドクと伝わってくる。
「お前、は……一体、何者なんだ……?」
掠れた声でそう呟いた彼の顔は、もはや冷酷な死神などではなく、迷子になった子供のように、あまりにも脆く、危うげだった。
(よし、第一段階(ラポール形成)、完了ね。ここからじっくり、あなたの認知の歪みを溶かしてあげるわ)
私――アリアナの、冷徹公爵マインドシフト計画が、静かに、けれど確実に幕を開けた。




