第15話:主従の視線と、バグの余波
翌朝、アスラン公爵邸の食堂には、かつてないほどの重苦しい空気が漂っていた。
いつもなら軍服を完璧に着こなし、周囲が背筋を正すほどの威圧感を放っているアルベールが、今日はあからさまに覇気のない顔でスープを口に運んでいた。
そのアメジストの瞳は完全にハイライトが消え去り、まるで徹夜で難解な魔導書を解読したかのような、深い疲弊の色が滲んでいる。
「……ハンス」
アルベールはスプーンを置くと、背後に控える筆頭執事へ、掠れた声で問いかけた。
「はっ。いかがいたしましたか、閣下。」
「俺の胸の痛みは……やはり心の、バグ、なのだろうか。人間の防衛システムが、正常に機能し始めた証拠なのだろうか……。」
ハンスは一瞬だけ、天を仰ぎたい衝動に駆られた。
(ああ、閣下。昨夜、勇気を出して奥様の寝室へ向かわれたと思ったら、またしてもあの規格外の奥様に、専門用語でボコボコにされて帰ってこられたのですね……)
「閣下。心の機微というものは、私どものような無骨な者には少々難解にございます。……ですが、奥様がそう仰るのでしたら、きっとそうなのでしょう。」
「……お前までそう言うのか。やはり、これは陽性、てん、い……錯覚、なのか……。」
頭を抱えて机に突っ伏しそうな主君の姿に、食堂の壁際に並ぶメイドたちも、一斉に目元を覆いたくなるような切なさを覚えていた。
あの「戦場の死神」が、18歳の男爵令嬢に完全にハートをハックされ、言葉一つで一喜一憂している。
もはや屋敷の使用人全員が、「閣下、がんばれ……! 超がんばれ……!」と、親戚の子供を応援するかのような生暖かい視線を送るフェーズに突入していた。
そこへ、当の張本人が、朝の光を浴びながら優雅に登場した。
「皆様、おはようございます。あら、アルベール様、ずいぶんと顔色が優れませんね? 睡眠の質が低下していらっしゃるようですわ。」
アリアナは完璧な聖母の微笑みを浮かべ、アルベールの対面の席へとついた。
その瞳には、昨夜あれほど情熱的な告白を受けたというのに、恥じらいの色など1ミリも存在しない。
あるのは「今日も被験者のメンタルは順調にバグを起こしているわね」という、冷徹なまでの臨床心理士としての知的好奇心だけだった。
(よしよし、アルベール様。昨夜の激しい『陽性転移』による興奮状態から一転して、今度は抑うつ的な『心理的プラトー』に入ったのね。心が新しい回復段階に適応しようとしている証拠よ。ここで私がしっかりと寄り添って、彼の安全基地を盤石にしてあげなくちゃ!)
「ハンス、アルベール様にカモミールとミントをブレンドした特製のお茶を。自律神経のバランスを整える効果がありますの。」
「かしこまりました、アリアナ様。ただちに。」
ハンスの動きは迅速だった。
今やこの屋敷の真の支配者が誰であるか、使用人たちは本能で理解している。
「……アリアナ。」
アルベールが、すがるような、けれどどこか拗ねたような複雑な視線を私に向けた。
「俺は、お茶が飲みたいわけではない。お前に……その、昨夜の言葉を、もう一度よく考えてほしいのだ。俺のこの想いは、決して、錯覚などでは――」
「まぁ、アルベール様。そうやって自分の『認知の歪み』を認められずに、必死に合理的理由を探そうとする行動を、心理学では『抵抗』と呼びますのよ。心が変化を恐れている証拠ですわ。無理をせず、まずはそのお茶を飲んで、お心をリラックスさせてくださいね」
「ていこう……っ、れじすたんす……っ」
アリアナの容赦のない「全肯定・心理学カウンセリング」の追撃が、アルベールの繊細な男心を再び木っ端微塵に粉砕した。
アルベールはガタッと椅子を鳴らして立ち上がると、耳まで真っ赤にしたまま、片手で顔を覆って食堂を飛び出していった。
「……もういい! 俺は執務室にこもる!!」
バタン!と激しく扉が閉まる。
あとに残された食堂で、アリアナは「ふふ、回復プロセスは極めて順調ね」と満足げにハーブティーを啜った。
その横で、ハンスはそっとメイドたちに目配せを送っていた。
(全員、聞いたな。閣下を救うには、まず奥様に『男』として意識していただくしかない。これより公爵邸一丸となって、閣下の恋路を全力で(生暖かく)サポートするぞ)
(((はい、ハンス首席執事長!!)))
最強のカウンセラー花嫁アリアナの鉄壁の防衛線を前に、冷徹公爵アルベールと彼を応援する屋敷の使用人たちのあまりにも空回りな戦いの日々が幕を開けたのだった。




