第14話:安全基地のバグと、死神の告白
皇帝すらも言葉一つで敗走させた、あの衝撃の夜会から数日。
アスラン公爵邸は、かつての氷のような静寂が嘘のように、どこか暖かく、穏やかな空気に包まれていた。
……ただし、主君であるアルベールの「執着度」を除いては。
「アリアナ。……今日も、俺の隣で茶を飲め。」
「アリアナ。……そのドレスは、他の男に肌を見せすぎではないか。(※鎖骨が少し見えているだけ)」
「アリアナ。……今、ハンスと何を話していた。」
(なるほど。皇帝という最大の心理的脅威(ストレス源)が去ったことで、アルベール様の精神のベクトルが100%私へと向いている状態ね。心理学でいう『過剰適応』、あるいは一時的な『幼児返り(赤ちゃん返り)』に近いわ。私のことを、絶対に手放したくない唯一の『安全基地』だと脳が完全に認識している証拠ね。よしよし、順調、順調!)
自室のソファでハーブティーを飲みながら、私は脳内のカウンセリング・カルテにアルベールの状態を嬉々として書き連ねていた。
彼が時折見せる、私をハラハラと見つめる視線も、他の男(ハンス含む)と話している時に放つ鋭い殺気も、すべては「傷ついたインナーチャイルドが、愛着対象を独占しようとする防衛本能」として、極めて美しくロジカルに説明がつく。
そう、すべては心理学の臨床データ通り。
そこに、私自身の「個人的な感情」が挟まる余地など、プロとして1ミリもあるはずがなかった。
――その日の深夜。
突然、私の部屋の扉が静かに開いた。
驚いてベッドから身を起こすと、そこには薄い寝衣を纏い、銀髪をラフに下ろしたアルベールが立っていた。
アメジストの瞳が、月光に濡れて妖しく光っている。
「アルベール様……? どうかなさいましたか? こんな夜更けに。また悪夢でも……」
「……お前が足りない。」
アルベールは掠れた声でそう呟くと、大股でベッドへと近づき、私の返事も待たずにベッドの縁に腰掛けた。
そして、私の華奢な両肩を、大きな手で逃がさないようにガッシリと掴んだのだ。
彼の体温が、薄い寝間着越しにダイレクトに伝わってくる。
ドクドクと、彼の胸の奥で激しく脈打つ鼓動の音まで聞こえそうだった。
(おっと、夜間の突発的なパニックかしら? 夜会での過度な緊張の反動ね。
こういう時は、相手の身体に触れてグラウンディング(現実感の回復)を促すのが鉄則よ)
「大丈夫ですよ、アルベール様。私はここにいます。さあ、深く息を吸って――」
「違う!!」
アルベールが、私の言葉を遮るように、切羽詰まった声を張り上げた。
彼のアメジストの瞳が、潤み、そして狂おしいほどの情熱で燃え盛っている。
「俺は、不安で震えているわけではない! お前に慰めてほしいわけでもない! ……アリアナ、お前はなぜ、いつもそうやって、俺を『可哀想な観察対象』としてしか見ないんだ!」
「え……?」
「俺は、一人の男として、お前を愛していると言っているんだ! お前が他の男と話していれば嫉妬で狂いそうになるし、お前が俺に笑いかけるたびに、胸が張り裂けそうになる! お前をこの腕に抱きしめて、俺だけのものだと世界中に宣言したい……。これは、俺の、男としての、お前への欲望だ……っ!!」
ベッドの上に、アルベールの熱い告白が、激しい質量を持って叩きつけられた。
彼の顔は、恥ずかしさと、私へのどうしようもない愛おしさで、耳の裏まで真っ赤に染まっている。
その姿は、冷徹な死神などではなく、ただ一人の少女に命を懸けて求愛する、最高に情熱的な「男」のそれだった。
普通の18歳の令嬢なら、この極上の美貌を持つ公爵からの、心臓が止まるほど甘く重いプロポーズに、顔を真っ赤にして気絶しているところだろう。
しかし、現代のトップ心理カウンセラー・アリアナの脳内回路は、驚異のスピードで、全く別の方向へとフル回転を始めていた。
(――え? あ、待って。これって……カウンセリングの現場でたまに起きる、クライエントから治療者への『陽性転移(お世話をしてくれる人を恋愛対象だと錯覚する現象)』の、極端な誇大化形態……よね!?)
私は、ゴクリと息を呑んだ。
(そうよ、間違いないわ! 彼は生まれて初めて『無条件の愛(全肯定)』を私から与えられたから、その脳の快感を『恋愛感情』だと脳内で盛大に誤変換しちゃってるんだわ! なるほど、重度の愛着障害が回復するプロセスにおいて、この一時的な『疑似恋愛状態』の発生は、確かに教科書にも書いてあったわね……!)
「アリアナ……?」
私の沈黙を、恥じらいだと受け取ったのか、アルベールが期待に満ちた、どこか縋るような目で私の顔を覗き込んできた。
彼の長い指先が、私の頬にそっと触れる。
私は、彼の「勘違い」を優しく正してあげるのがプロの務めだと、邪気のない、この上なく澄んだ瞳でアルベールを見つめ返した。
「アルベール様、落ち着いて聞いてくださいね。それは、心理学でいう『陽性転移』という、とても自然な心の錯覚です。あなたが私を愛していると感じるのは、私自身ではなく、私が提供した『安全基地』という機能に恋をしているだけなんですよ。ですから、そんなに恥ずかしがらなくても大丈夫ですわ!」
「…………は?」
アルベールの指先が、ピキ、と完全に凍りついた。
彼の美しい顔が、今度は「絶望」と「困惑」で真っ白に染まっていく。
「よ、ようせいてんい……? さ、さっかく……? 俺のこの、胸が張り裂けそうな想いが、心の、バグ、だと……?」
「ええ! 脳の防衛システムが正常に働き始めた証拠です。とっても喜ばしいことですわ、アルベール様!」
アリアナは、満面の聖母の笑顔で、彼の「男としてのプライド」をロジカルに木っ端微塵に粉砕した。
「……お前、本気で言っているのか……?」
アルベールは片手で顔を覆い、ガタガタと肩を震わせながら、ベッドの上で頭を抱えて悶絶し始めた。
彼の心を完璧に支配した不敵な花嫁は、こと「自分に向けられた本物の恋心」に関してはこの世界で最も難攻不落な超・鈍感ポンコツ聖女だったのだ。
氷の死神公爵が、アリアナの「心理学の壁」を崩して本物の恋人になれる日は、果たして来るのだろうか――。




