借金と取り立て(2)
「これでは本日の返済額には到底足りません」
「……まあ、そうでしょうね」
悠麻は素直に認めた。
仮面の男は、白い手袋の中で黒胡椒の粒を転がした。
「品質は確かです。ですが、ミリア様の本日の返済額を満たすには、少なくともこの袋を満たす程度は必要でしょう」
男は、外套の内側から小さな革袋を取り出した。悠麻の手のひらに乗るくらいの袋だった。大きくはない。
悠麻は、自分の体の後ろに隠したペッパーミルを思い浮かべる。
あの中身をすべて出せば、ぎりぎり届くかもしれない。
だが、それは本当にぎりぎりだった。むしろ足りない可能性が高い。
男の反応を見る限り、胡椒はこの世界で間違いなく高級品だ。かつて元の世界でも、香辛料が黄金に近い価値を持った時代があったはずだが、今この場でも、それに近い扱いを受けている。
つまり、先ほどの仮面の男の言葉が意味するところは、胡椒の価値が足りないのではなく、ミリアの借金が笑えないほど重いということだった。
「……私にも商売がありますので、今ここで持っている全量をお渡しするつもりはありません」
悠麻は、できるだけ落ち着いた声で言った。
「ですが、私はこの品を提供できます。少なくとも、そう見ていただけるだけの価値はあるはずです」
口に出してから、悠麻は自分がずいぶん危うい橋を渡っていることに気づいた。取引の余地、と彼は言った。だが、その余地がどこにどれだけあるのか、彼自身にも分からなかった。
ペッパーミル一本分の黒胡椒と、フライパンと、粉チーズ。彼がこの世界に持ち込んだものは、それだけだった。
それでも、何も言わなければそこで終わる。
ならば、終わりではないように見える言葉を選ぶしかない。
仮面の男は、すぐには答えなかった。
その沈黙は、部屋の中にあるものを一つずつ重くしていった。床に散った紙。ミリアの息遣い。悠麻の背中に隠したペッパーミル。その全てが、男の帳簿の中でいくらになるのかを待っているようだった。
悠麻は続けた。
「つまり、これは返済ではなく、商談の入口です。ミリアさんは私の命の恩人です。彼女の信用を、今日ここで潰されるのは困る。あなたにとっても、今この場で彼女の家財を差し押さえるより、私との取引の可能性を残した方が得ではありませんか」
ミリアが小声で言った。
「ユーマ、私の家財、差し押さえる価値あると思う?」
「今それを言うと交渉が決裂してしまいます」
「そうね」
少なくとも、この部屋にあるものの多くは、悠麻には危険物か失敗作かゴミにしか見えなかった。失敗したもの。途中のもの。明日には成功するかもしれないもの。そういうものが、床の上に雑然と散らばっている。
それらが財産かどうかは知らない。
ただ、失うと彼女が困ることだけは分かった。
仮面の男は、小さな革袋の口を開いた。内側には薄い銀色の布が縫い込まれており、口元には細かな文字のような文様が輪のように刻まれていた。男は黒胡椒を、その中へ丁寧に収めた。
男は手にしていた黒胡椒を、その中へ丁寧に収めた。
「……ふむ。では、本日のところは、猶予といたします」
ミリアの肩から力が抜けた。
安心したようにも見えたし、七日後まで首の皮一枚で吊るされたことを理解したようにも見えた。彼女は笑いかけて、笑いきれず、そのまま息だけを吐いた。
「ただし、完済ではありません。利子も消えません。この胡椒は返済ではなく、取引能力を示す保証金として処理します。七日後、同等以上の実物、取引経路、あるいはそれに相当する支払い能力の提示を求めます。それが不可能であれば、ミリア・ノクト様の未払いは、悪質な虚偽交渉として扱われます」
「悪質な虚偽交渉になると、どうなるんですか」
悠麻が聞くと、仮面の男は丁寧に答えた。
「通常の差し押さえより、少し創造的な処置を施すことになります」
無機質だった男の声が少し笑ったのが分かった。
「聞かなければよかったです」
「賢明です」
男は帳簿を閉じた。
彼が革靴の先で魔法陣を一度叩くと、砂と床板の下に沈んでいた銀線が光り、赤い渦が宙に濃く浮かび上がった。
「ご存知かと思いますが、返済が終わるまで、この陣は残ります。消そうとしないことです。消そうとしても普通には消えませんし、消そうとした場合、その記録は残ります」
男はお辞儀をしながら続ける。
「もし、ミリア様がいない、もしくは陣が消えるようなことがあれば、あのお方に来ていただくことになりますので、ご了承願います」
「そういうところ、本当に嫌いよ」
「契約とは、好悪から独立した制度です」
去り際、仮面の男はミリアに向き直った。
「ミリア様。命の恩人になることで商機を運ばせるとは、なかなか面白い運勢をお持ちです」
「私も今、自分の運勢に驚いているところよ」
「では、七日後に。……あのお方に悪いご報告をすることにはならないと、私も期待しております」
ミリアの顔が、一段白くなった。
男は一礼した。
足元の魔法陣から、再び黒い電撃が奔った。
黒い外套の輪郭がほどけ、白い手袋が指先から影に沈む。白い仮面が影に溶け、磨かれた革靴だけが最後まで床を踏んでいたが、それも黒い染みのように沈み、男の姿は消えた。
後には、魔法陣と、乾いた風だけが残った。
黒曜樹の枝が、ぎしりと鳴る。
ミリアはその場に座り込んだ。
「助かった……」
「七日だけですけど」
「七日もあれば、金を作る魔法を完成させられるわ!」
「その発想から一度離れましょう」
「じゃあどうするのよ!」
悠麻は、手の中のペッパーミルを見た。
中にはまだ胡椒がある。
だが、無限ではない。
それに、ここで全部を売るのは悠麻には怖かった。悠麻にとって胡椒は、今月の返済を埋めるためのものではなく、今やこの世界で自分が持っている数少ない切り札だった。
「まず、胡椒を全部売るのはやめましょう」
「なんでよ」
「これを出しても次の返済があります。それよりは、まずはなんとか返済のアテを作らないと」
言いながら、悠麻は自分でも少し無理があると思った。
「言ってることは分かるけど、借金取りに七日後って言われたのよ」
「だからこそです。胡椒では猶予を手に入れるくらいが限界です。それに、ミリアさん」
悠麻は少しだけ言葉を選んだ。
「何をしたら、あの革袋いっぱいの胡椒が必要になるんですか」
「いやあ、あははは」
ミリアは目を逸らした。
「ちょっとね」
「ちょっと」
「魔法にはお金がかかるのよ」
今すぐ答えが出る話ではなかった。
悠麻は異世界に来たばかりで、貨幣も相場も流通も分からない。ミリアは七日の猶予を得たばかりで、床に座り込んでいる。
とりあえず、仮面の男は帰った。
その事実だけで、今は十分だった。
「……まあ、今日はここまでね」
先にそう言ったのは、ミリアだった。
彼女は床に座ったまま息を吐く。それから、妙に明るい顔を作って悠麻を見上げた。
「そういえば、ちゃんとした自己紹介もまだだったじゃない」
「そうですね」
「もう無関係って顔はできないし、その辺りはきちんとしておかないと」
ミリアは屈託なく笑った。
その笑顔は明るかった。明るかったが、目の奥で七日後の返済額と悠麻の胡椒の残量を同時に数えている気配があった。
「佐野悠麻です。佐野が名字で、悠麻が名前です」
「サノが家名で、ユーマが個人名?」
「だいたいそんな感じです」
ミリアはそこで、悠麻を上から下まで見た。
「サノは出身地じゃないのね」
ミリアは小さく呟いてから、悠麻を上から下まで見た。
黒いスラックス。紺のシャツ。細いベルト。料理中に少し袖をまくったままの腕。
「ふうん。どおりで、整った身なりに胡椒なんて持ってると思ったわ。」
ミリアはなにかを納得したように頷いた。
「それで、さっき言ってたダイガクセイっていうのは何?」
「学校に通ってる人間です。専門の勉強をして、みたいな」
「魔法学院生みたいなもの?」
「多分近いと思います。ただ、俺の世界には魔法はないので、魔法学院ではないです」
「魔法がない世界で、何を学ぶの?」
「一応コンピュータサイエンスを」
ミリアは、鳩が豆鉄砲を食ったような、何を言われたのか分からない顔をした。
悠麻は説明を試みた。数字や文字を処理する機械があって、そもそも機械という電気を用いて命令を書くシステムが……。魔法陣ではない。精霊でもない。魔力でもない。説明すればするほど、ミリアの顔から理解が遠ざかっていった。
「魔力がないのに、世界が回るの?」
「そっちから見るとそうなるのか……」
悠麻は言葉に詰まった。
こちらに来てからずっと、彼はこの世界の異様さに驚いていた。だが、ミリアにとっては、魔法のない世界の方がよほど奇妙なのだ。
一通り悠麻の話が終わると、ミリアが口を開いた。
「私の方もまだだったわね。改めて、私はミリア・ノクト。荒野の魔女。見ての通り、いろいろあって少しだけ資金繰りが悪い天才魔女よ」
「天才魔女?」
「何よ。これでも学院で史上最年少、十五歳で“杖”を授与された偉大な魔女なのよ」
それがどれほど凄いことなのか、悠麻には分からなかった。
ただ、ミリアがあまりにも得意そうに胸を張ったので、たぶん本当に凄いことなのだろう。
「最年少って、ミリアさん、年は?」
「十八よ」
「じゃあ二つも年下じゃないですか」
「魔女に年齢で偉そうにしないこと。でも、敬語もいらないわ。なんかむずむずする」
悠麻は少し迷った。
初対面の相手で、異世界の魔女で、命の恩人で、借金まみれで、空から突っ込んできた相手である。どういう距離感で話せばいいのか、まだ分からない。
「じゃあ……ミリア」
「なに?」
「今夜は、ここにいさせてもらっていいのか」
「もちろん」
ミリアは、そこだけはまったく迷わずに答えた。
「この荒野で、魔力もない人間を外に出したら殺すのと同じだもの」
言われて、悠麻は窓の外を見た。
黒曜樹の下には、暮れかけた荒野が広がっている。道はなく、灯りもなく、人家らしい影もない。否定する材料は、どこにもなかった。
「……じゃあ、よろしく」
「ええ、よろしくね。明日以降は明日考えましょう」
ミリアはそう言って立ち上がった。
「あとで寝る場所も考えないとね。余った毛布はあるわ。燃えてなければ」
悠麻は動きを止めた。
「燃えてなければ?」
「寝床は、そのへんの床かしら」
悠麻は足元を見た。
床、と呼ぶには、そこにはあまりにもいろいろなものがあった。魔法陣を描いた紙。欠けた瓶。乾いた薬草の束。用途不明の粉が入った小袋。丸まった羊皮紙。釘。紐。小さな骨。
少なくとも、寝る場所ではない。
「……床?」
「……なによ。あとはもう、私の寝床ぐらいしかないわよ」




