あとはもう、私の寝床ぐらいしかないわよ
「……なによ。あとはもう、私の寝床ぐらいしかないわよ」
「え……」
悠麻は思わず言葉に詰まり、ミリアの顔を見た。
綺麗な銀髪。紫水晶色の目。整った顔立ち。控えめに言っても、美人だった。
言葉の意図を測りかねているうちに、自分の頬が熱くなっていくのが分かった。床で寝るのは危ない。だから彼女の寝床。理屈としては、つながらないこともない。けれど、つながってしまうからこそ困る。
いくらなんでも今日会ったばかりの相手である。
「い、いや、さすがにそれは。俺も男だし、なんかよくないと思う……!」
最終的に、倫理観が勝った。
ミリアは数秒だけ悠麻を見つめた。
それから、ふうん、と鼻先で笑うように息を漏らした。
「そうね。冗談よ、冗談」
ミリアはくるっと背を向け、後ろで手を組んだ。ローブの裾がスカートのようにふわりと浮いて、すぐに落ちる。
悠麻は、胸の内で息を吐いた。
ほらみろ冗談だ。危なかった。いや、よく考えれば相手は得体の知れない魔女である。寝ている間に変な魔法を試される可能性だって、ないとは言い切れない。
そう考えることで、自分が一瞬でも別の方向に想像した事実を、悠麻は頭の隅へ押し込んだ。
ミリアは何もなかったような顔で床を見下ろした。
「じゃあ、この床を片付けるしかないわね」
悠麻も足元を見る。
魔法陣を描いた紙。欠けた瓶。乾いた薬草の束。用途不明の粉が入った小袋。丸まった羊皮紙。釘。紐。小さな骨。さらに、倒れた釜の近くには金色の泥が薄く乾いている。
研究の残骸が平面状に広がっているような、勝手を知らない人間が下手に触ってはいけないような空気がある。
「これは時間がかかりそうだ……」
「大丈夫よ。危ないものはだいたい分かるから」
「だいたい、なんだ」
ミリアはまず、床に散らばった魔法陣の紙を拾い始めた。悠麻は空き瓶や木箱を端へ寄せる。薬草の束は、ミリアに確認しながら紐でまとめた。小さな骨については、何の骨なのか聞きかけたが、聞かない方が今夜は眠れそうだったのでやめた。
割れた瓶の破片は、ミリアが杖を軽く振ると、ふわりと浮いた。
破片は宙でひとところに集まり、木の空き箱の中へ、音もなく落ちていく。
「便利だな、魔法」
「……便利よ。便利だから、あとで片付ければいいと思ってしまうの」
「なるほど」
悠麻は深く納得した。
魔法がなくても、似たようなことは元の世界にいくらでもあった。あとで整理すればいいと思って増えていくファイル。あとで洗えばいいと思って積まれていく皿。あとで読むつもりで机に置かれたままの本。
世界が違っても、先延ばしの構造はあまり変わらないらしい。
「今、私のことをだらしないと思ったでしょ」
「少し思ったけど、俺の世界にも似たようなもんだよ」
「それ、慰めになってる?」
ミリアは不満そうに言いながらも、怒ってはいなかった。
二人で床を空け、瓶を端に寄せ、魔法陣の紙を踏まない位置へ積んだ。完全に片付いたわけではない。けれど、少なくとも人ひとりが横になれるだけの場所はできた。
ミリアは焦げ跡のある毛布を広げ、その上に薄い布を一枚重ねた。
「これで寝床として成立したわね!」
「最初の状態を見ていなければ、もう少し疑っていたと思う」
一通り片付けが終わると、悠麻の腹が鳴った。
自分でも少し驚くくらい、はっきりした音だった。そういえば、昼に一人前のカルボナーラを半分こしたきりだった。
「夕飯、どうする?」
ミリアはしばらく黙った。
それから、ものすごく自然な顔で言った。
「ユーマが作ってくれるなら、私は食べるわ」
「じゃあ決まりで」
ミリアに案内された棚には、食材と言えるものはほとんどなかった。
硬くて太いパン。何かの鳥っぽい卵が二つ。細くてまだ青い葉、丸くてしわの寄った葉、やや黄味がかった縮れた葉。ミリアが荒野の外、大樹海の端で採ってきたという草もあった。名前を聞いたが、悠麻にはまったく分からなかった。
あとは、悠麻が持ってきた粉チーズ。
悠麻は硬いパンをできるだけ薄く切った。刃を入れるたびに、乾いた木を削るような音がした。卵は小さな器に割り、匂いを確かめてから軽く溶く。塩はなかった。代わりに、ミリアが「保存用の紫塩」と呼んだものを、指先にほんの少しだけ借りて卵に混ぜた。
台所らしき場所には、ちょうど据え置き型のガスコンロが入るくらいのくぼみがあった。
くぼみには金属製の底板が敷かれており、銀色の紋様が表面に刻まれている。元の世界の感覚で言えば、魔法陣の模様が描かれたIHコンロに見えなくもない。ただし、ミリアはそのうえに乾いた木切れを置き並べた。
「火、つけるわね」
ミリアの指先が紋様の入った金属板に触れる。
一瞬だけ銀色の線が光り、その上に小さな炎が走る。だが木切れには燃え移らず、火はすぐに消えた。
「あれ?」
もう一度。
今度はさっきよりも強く火が上がったが、木切れの端を焦がしただけで途切れた。
「あれれ?」
「大丈夫なのか」
「大丈夫よ。ちょっと機嫌が悪いだけ」
三度目で、紋様の上を流れた炎がようやく木切れへ移った。火はゆっくりと燃え広がり、やがて金属板のくぼみの中で一定の熱を保ち始める。
ミリアは細い金属を組んだ台座を燃える木切れの上に置いた。鍋やフライパンを火にかけるためのものなのだろう。見た目は簡素だったが、炎はその下で安定していた。
悠麻は自分のフライパンを火にかけた。
油らしいものは、埃を被った瓶の底にわずかに残っていた。香りは少し青く、少し苦い。フライパンが温まると、悠麻はそれを薄く伸ばし、そこへ卵を流した。
火の通りは思ったより早かった。
卵の縁がゆっくり固まり、中心がまだ柔らかいうちに、粉チーズを少量だけ振る。チーズが熱で溶けて、卵の上に薄い膜を作った。
半熟で卵がまだとろりとしているうちに、悠麻はへらでそれを分け、それぞれのパンに均等に載せた。
乾燥葉は匂いの強いものを避け、青臭さの少ない葉だけを刻んだ。どれもミリアは「大丈夫、食べたことある」と言っていた。が、念のため、悠麻は軽く火を通すことにした。
「本当に大丈夫なの?」
「食べて生きてるから大丈夫よ」
「その精神力は見習いたいね」
焼いた卵と葉をパンに挟み、もう一度フライパンで軽く押さえた。表面が少しだけ香ばしくなり、硬かったパンの内側に熱が入る。
夕食を作っている間、ミリアはずっとフライパンを見ていた。
食べ物を待っている目というよりは、魔女として何かを観察しているような目だった。
「胡椒は使うの?」
ミリアが言った。
「もったいないか」
「正しい判断ね」
ミリアは真剣に頷いた。
しかし、名残惜しさは顔に出ていた。
悠麻は少し迷ってから、ペッパーミルを手に取った。
「ほんのちょっとだけ使う?」
ぱあっとミリアの顔が明るくなった。
できあがったのは、パンと卵と葉物を挟んだだけの簡単なホットサンドだった。
それでも、温かい卵とチーズの匂い、わずかな胡椒の香りがすると、部屋の空気が少し変わった。
ミリアは両手でそれを持ち、しばらく見つめてから、小さくかじった。
「……おいしい」
「それはよかった」
「すごくおいしい」
思ったより真剣な声だった。
悠麻は少しだけ返事に困った。
彼にとっては、ありあわせで作った簡単な食事でしかない。だが、ミリアは二口目を食べるまで、とても大事そうにそれを見ていた。
その日は、二人とも早めに寝ることになった。
悠麻は片付けた床の毛布、ミリアは奥の部屋のベッドへ向かった。
寝床としては十分とは言い難いが、紙と瓶と小さな骨の上で眠るよりは、はるかにましだった。
やがて、部屋の明かりが一つずつ落ちていった。
魔法の灯りは、消えるときに音を立てない。ただ青白く薄まり、瓶の底に残った光みたいに小さくなり、最後には見えなくなる。棚の影が深くなり、床に積まれた紙の白さだけが、窓から入る月明かりにぼんやり浮かんだ。
ツリーハウスは、夜になると昼とは違う家になった。
風が枝を揺らし、どこかで木材が小さく鳴る。黒曜樹の幹の奥から、ときどき低い軋みが伝わってくる。外れた窓枠の向こうには、見たことのない夜空が広がっていた。
悠麻は眠れなかった。
当然といえば当然である。
彼は毛布から抜け出し、外れた窓の近くまで歩いた。
荒野は夜になると、昼よりもずっと広く見えた。月のような白い影が二つ、空に浮かんでいる。大きい方は薄青く、小さい方は古い紙のように黄色い。二つの光が重なり、荒野の砂に淡い影を二重に落としていた。
星の数は多すぎるほどだった。
現代の街明かりの下では見えない細かな光まで、黒い空に散っている。そのどれもが、悠麻の知っている星座を作らない。どれだけ目を凝らしても、見慣れた形は見つからなかった。
遠くには、大樹海の影が見えた。
昼間は緑と黒が混じった巨大な壁のように見えていたが、夜にはただ、闇の濃い場所として沈んでいる。荒野の果てに、もう一つ別の夜が横たわっているようだった。
風が吹く。
乾いた砂の匂いと、古い木の匂いがした。どこか遠くで、夜行性の何かが短く鳴いた。しかしそれもすぐに聞こえなくなり、あたりは静かになった。
悠麻は、しばらくその夜を見ていた。
恐ろしいほど知らない場所だった。
けれど、ただ怖いだけではなかった。
見たことのない二つの月と、名前の分からない星と、黒い大樹海の影が、今だけは静かにそこにあった。
……さて。
異世界に来たのだから、まずやることは決まっている。
***
ミリアは、夜中に目を覚ました。
ベッドの上で身を起こすと、奥の部屋で床に敷いた毛布が空になっている。
ユーマがいない。
一瞬、心臓が冷えた。
外へ出たのか。逃げたのか。それとも−−。
ミリアは音を立てないように起き上がった。玄関の方に進み、窓の方を見ると、外れた窓枠の外側に、ユーマの背中があった。
彼は夜空を見ていた。
ミリアは声をかけようか迷った。
彼には借金のことで助けられた。自分のことを恩人だと言った。あの場でユーマがいなければ、借金取りは猶予などくれなかっただろう。
それなのに、そもそも巻き込んだのは自分だった。
変な魔法を発動させて、黒曜樹を起こしてしまった。
そのせいで、彼はここにいる。
そう思うと、胸の奥がきゅっと痛んだ。
いつか、元の世界に返さなければならない。
ミリアがそう思った、その時だった。
外で、ユーマが何かを言った。
「ステータスオープン」
ミリアは瞬きをした。
「ステータスオープン」
もう一度。
彼の声は真剣だった。
ユーマは夜空に向かって、やや控えめに、しかし確かな期待感を込めて言っていた。
「……ステータスオープン!」
何も起きていなかった。
しばらく沈黙があった。
次の瞬間、ユーマは小さく頭を抱えた。
「うおお、出ない……!」
ミリアは、窓の陰で固まった。
何かの宗教的儀式だろうか。
「……声をかけるのはやめておこうかしら」




