借金と取り立て(1)
魔法陣から、突然男が現れた。
悠麻は思わず一歩下がった。腰が抜けかけた、と言ってもいい。
異世界に来てから、魔法らしい魔法はいくつか見た。
ミリアは飛ぶし、パスタは宙に浮いた。
だが、目の前で魔法陣から人間が現れるのは、さすがに別だった。
男は背が高かった。
黒い上下の服は、驚くほど直線的で、体に合いすぎていた。白い手袋。磨かれた革靴。顔の上半分を覆う、表情のない白い仮面。仮面は鼻筋から額までを滑らかに覆い、人の顔の凹凸だけを冷たくなぞっている。目の部分は黒く沈んでいて、その奥に本当に目があるのかどうかも分からなかった。
仮面の男は、手に分厚い本のようなものを携えている。
その佇まいは、荒野にはあまりにも場違いな上品さを持っていた。
悠麻は、浅く息を吸った。それから、男ではなく、まず扉の前の魔法陣を見た。
「……これ、何ですか」
「取り立て用の陣よ」
ミリアが、ものすごく嫌そうな顔で言った。
「我々は、お客様のもとへいつでも速やかに駆けつけられるよう、転移の起点となる魔法陣を置かせていただいております」
男がミリアの代わりに続けた。
声は低く、よく通った。
言葉は丁寧で、へりくだっているほどだったが、その言葉一つ一つには確かな圧があった。
男は礼儀正しく続けた。そのわざとらしいほど整った所作が、仮面とあいまって一層不気味だった。
「ミリア・ノクト様」
「ええ。久しぶりね」
「本日は定期返済日でございます。お忘れではないと信じております」
「もちろん覚えていたわ。今ちょうど、返済について極めて前向きな検討をしていたところよ」
「ふむ。帳簿に書くことのできる検討内容であることを祈ります」
男はそういうと手に持っていた本ーー帳簿を広げた。
ミリアは黙った。
その沈黙で、悠麻にも分かった。
これは、少し困っているとか、今月だけ苦しいとか、そういう話ではない。先ほどの様子を見る限り、ミリアが今日ここでまともに返済できる可能性はかなり低い。
そして、ミリアの状況がまずいということは、自分の状況もまずいということだった。
悠麻は、目の前の存在を見ながら、異世界に来て最初に直面する危機的状況が、魔王や竜はおろか盗賊でもなく、仮面にスーツの借金取りであることに納得がいかなかった。
男の仮面が、わずかに悠麻の方へ向く。
「そちらの方は?」
ミリアの肩が、びくりと跳ねた。
悠麻は、その反応だけで察した。
ここで異世界から来ました、などと言ってはいけない。たぶん、絶対に、言ってはいけない。
悠麻は、できるだけ平静に言った。
「ユーマです。荒野の魔女であるミリア様に助けていただいた者です」
ミリアが、すさまじい速度で悠麻を見た。
嘘ではない。現時点でこの世界における唯一の案内人はミリアだし、放置されれば死ぬ可能性が高い。
命の恩人と言えなくもない。少なくとも、借金取りの前ではそう言っておいた方がいい。
仮面の男は、悠麻を上から下まで見た。
見ている、というより、帳簿に記入できる項目を探しているような目だった。
服。靴。持ち物。姿勢。仮面で目が見えなくとも、視線だけはよく分かった。
「ミリア様のお知り合いでいらっしゃる」
「ええ。今は大きい荷物はありませんが、流浪の旅の行商人でもあります」
否、日本の大学生である。
とりあえず今の自分の格好や容姿がどう映るかはわからない。だが、馬鹿正直なことを名乗るよりは、根無し草の商人と名乗った方が、この世界ではまだ通りがよさそうだった。
仮面の男は、帳簿をぱたんと閉じ、悠麻を見据えた。
その仮面の眼窩に広がる漆黒に、思わず飲まれてしまいそうだった。
.......魔法で嘘が簡単に発見できるとしたらどうしよう。
異世界の常識も知らないのに、賭けに出すぎたかもしれない。しかし、ここで焦りを見せるわけにもいかなかった。悠麻は息を整え、仮面の奥を見返した。
幸い、男はそれ以上、追及しなかった。
ミリアが小声で囁く。
「ユーマ、何か考えがあるの?」
「あります。一応」
「あの人の取り立てに立ち向かうの、かなり冒険よ」
「そんなに危ない人なんですか」
「私は危なくなんてありませんよ」
会話の隙間に、男の声が静かに差し込まれた。
悠麻がとっさに男の方を見ると、白い仮面の奥にあるはずの目が、確かに笑ったような気がした。
「ただし、あのお方は少し怖いかもしれませんね」
「あのお方」
「詳しく聞かないで。嫌な気持ちになるから」
悠麻は、詳しく聞くのをやめた。
詳しく聞くべきではない単語というものは、どの世界にもあるらしい。
そしてどこの世界でも、金貸しの背後には恐ろしいものが控えているようだ。
彼はペッパーミルを握った。
ここでプラスチックのミルそのものを見せるのは危険だ。
ミリアの反応を見る限り、この世界で胡椒は本当に高い。
詳しく尋ねられても、自分は何も説明できない。
だが、何も出さなければミリアは詰む。そうなれば自分も詰む。
「返済そのものではありませんが、信用の材料になるものならあります」
仮面の男は沈黙した。
悠麻は、男に見えないよう、体の後ろでペッパーミルの蓋を外した。
中から、手で包めるくらいの文量の黒い粒を掌に広げる。
今持っている全ではなく、まず匂いと実物を少しだけ見せる。
料理で言えば、味見である。
横目に見るミリアが、喉の奥で変な音を立てた。
悠麻は掌を閉じ、男の前へ一歩進んだ。
その時点で、空気が変わった。
男はまだ何も言っていない。ミリアも動いていない。
それでも、ほんの少しだけ場が張り詰めた。
仮面の奥から、見えない視線が悠麻の拳に注がれているのが分かった。
悠麻は手を開いた。
「......黒胡椒です。ちょうど命を救っていただいたお礼として、こちらをミリア様にお渡ししようとしておりました」
仮面の男の返答を待たずに悠麻は続ける。
「...…南方の航路の問題や、干ばつで値段が跳ね上がっており、今や粒で取引されることもある。そんな品です」
すべてミリアの言ったことそのままだ。
ちょっと抜けているこの魔女が、今の市場について正しく把握できていたことを祈るばかりだった。
悠麻は、最後にもう一つだけ言い添えた。
「ご存知かと思いますが、今、この国で最も高い香辛料のうちの一つです。」
仮面の男は、白い手袋の指を伸ばした。
黒胡椒の粒を一つ摘まみ、仮面の口元へ近づける。仮面の下部がわずかに動き、鼻先にあたる部分で香りを確かめるような仕草をした。
「混ぜ物なし。乾燥も良好。香気、極めて強い。保存状態、異常なほど良好。……産地は不明」
仮面の奥の声が、さっきより少しだけ低くなった。
「ユーマ様」
「な、何か?」
「あなたは、いったいどのような経路で、この品を?」
「……仕入れ筋は商人の命です。これほど立派な帳簿を扱う方にそこまで明かしてしまえば、私の商売は成り立ちません」
ふむ、と頷くと、仮面の男はミリアの方に向き直した。
「そうですか。では、ミリア様とユーマ様は一体どのようにお知り合いに?」
ミリアは悠麻を見た。
悠麻はミリアを見た。
二人の間に、言ってはいけない真実が横たわっていた。
先に動いたのは、ミリアだった。
彼女は胸を張った。
「荒野の魔女には、荒野の魔女なりの付き合いがあるのよ!」
悠麻は、内心で感心した。
中身が何もないのに、言い切ると少しだけ意味があるように聞こえる。
仮面の男は、しばらく沈黙した。
それから帳簿を開き、ペンで紙面をなぞる。
「黒胡椒。香気、品質ともに上等。保存状態は異常。通常の流通品ではない。商談の入口として記録する価値はございます」
ミリアの顔が、ぱっと明るくなった。
悠麻も、ほんの少しだけ息を吐いた。
いけるかもしれない。
この世界に来てから初めて、手元にあるものがただの夕食の残りではなく、交渉材料として機能した気がした。
仮面の男は、帳簿を閉じた。
「しかし」
その一言で、ミリアの表情が止まった。
「これでは本日の返済額には到底足りません」




