その胡椒、私の家より高いわよ
「胡椒ですよね」
「今、この国で一番高い香辛料のうちの一つよ」
「え」
僅かな沈黙。そこにミリアが続ける。
「王都では粒で取引されるわ。南方航路が止まって、去年の干ばつで香草も色々駄目になって、胡椒は値段が跳ね上がったの。貴族は欲しがるし、商人は買い占める。当然、魔女は買えないわ」
「最後だけ個人的ですね」
「重要な市場情報よ」
ミリアは、悠麻の手の中のペッパーミルを見つめていた。
その目は、もう眼の前の異世界人を見ていない。
胡椒を見ていた。
いや、胡椒の向こうにある返済計画を見ていた。
「どれくらい入ってるか見せて」
「えっと、どうぞ。七割くらいです。スーパーで買ったやつなので、そんな高級品ではないですけど」
「スウパアが何かは知らないけど、その筒の中身、今なら下手をすると私の家より高いわね」
悠麻は黒曜樹の上のツリーハウスを見上げた。
傾いている。
窓が外れて壊れかけている。
「比較対象がちょっと不安です」
「不安なのは私の家計よ!」
ミリアは叫んだ。
そして、叫んだ直後に、はっとした顔をした。
彼女は咳払いをし、急に落ち着いた声を作った。
「異世界人ユーマ」
「佐野悠麻です」
「ユーマ」
「まあ、悠麻でいいです」
「あなたは不幸にも、この世界に迷い込んだ。右も左もわからず、言葉は通じるけれど常識は通じない。ここ危険な荒野で、頼れる者もいない」
「はい」
「そこで、親切な荒野の魔女があなたを保護するわ!」
「ありがたいです」
「その代わり」
ミリアは、ペッパーミルを指差した。
「その胡椒を、少しだけ私にちょうだい」
「少しだけ?」
「ほんの少し。具体的には、今月の返済に間に合うくらい」
「それは少しなんですか」
「私の人生に比べれば少しよ」
***
悠麻はペッパーミルを見た。
確かに、この世界で価値が高いなら、交渉材料にはなる。
だが、自分はまだこの世界のことを何も知らない。胡椒の相場も、魔女の信用度も、借金の額も、なぜ自分がここに来たのかも知らない。
悠麻は深く息を吐いた。
「まず、状況を整理させてください」
「いいわ。整理は大事よ。借金も、整理すると少しだけ絶望が増すから」
「増えるんですか」
荒野の風が、二人の間を抜けていった。
遠くで、骨みたいに痩せた砂蜥蜴が岩陰へ逃げていく。黒曜樹の上では、斜めにくくりつけられたツリーハウスが風に揺られて、ぎい、と不安な音を立てた。
「とりあえず、ここで話すのもなんだし、家に入りましょ」
「え」
悠麻は黒い大樹を見上げた。
家は、かなり高い位置にある。
そこへ続く階段はない。もちろんはしごもない。
「……あの、登れないんですが」
「当然よ。そんなものがあったら借金取りが登ってくるじゃない」
「防犯の方向性が極端ですね」
「借金取りへの対策は、やりすぎくらいでちょうどいいのよ」
「でも、その理屈だと俺も入れないんですけど」
「私が運ぶわ」
「運ぶ?」
ミリアは杖を軽く振った。
淡い光が二人の足元に広がる。悠麻の身体が、ふわりと浮いた。
浮いた、というより、体重を誰かに雑に預けられたような感覚だった。
「うわっ」
「暴れないで。落ちるわよ」
「これ落ちないですよね!?」
「大丈夫。たぶん」
「今、たぶんって言いました?」
「言ってないわ。しょうがないわね。ほら、しがみついて」
結局、悠麻はフライパンとペッパーミルとチーズを抱えたまま、ミリアの肩のあたりにしがみつくことになった。
「変なところ触らないでよね」
「触りませんよ。というか、そんな余裕ないです」
「あと、胡椒を落とさないで」
「俺より胡椒の心配ですか」
「今の市場価値だと迷うわ」
「迷わないでください」
浮遊魔法は、軽やかに空を舞うものではなかった。
少なくとも、二人分の体重と、フライパンと、ペッパーミルと、粉チーズの容器を抱えた今は違った。
二人は、ぎこちなく上昇した。
じわじわと。
過積載の荷物用昇降機みたいに。
「魔法ってもっと万能なものじゃないんですか」
「万能なら借金してないわよ!」
それは、非常に説得力のある返答だった。
近づくと、木の上の家は地上から見るより大きかった。
丸太と板を継ぎ足して作られた、いびつなログハウスのような建物である。床下には魔法文字の書かれた金属輪がいくつも打ち込まれ、黒曜樹の枝と家を無理やり繋ぎ止めている。
ただ、雑だった。
明らかに雑だった。
「この家、乗った瞬間に壊れません?」
「失礼ね。魔法で固着させているから大丈夫よ」
「その言い方がもう不安なんですが」
ミリアは窓枠の外れた入口からではなく、ちゃんとした扉の前に悠麻を下ろした。
扉は斜めだった。
悠麻が促され扉を開こうとしたとき、扉の前の床に描かれた魔法陣が目に入った。
黒い線で描かれた円の中心に、赤い印がある。
「この魔法陣は何ですか?」
ミリアの動きが止まった。
「近いうちにわかるわ」
「すごく嫌な言い方ですね」
「知らない方が幸せなこともあるのよ」
「今それを言われると、知りたくなくても気になるんですが」
「いいから早く入りなさい」
扉を開くと、ぎぎ、とひどく不安な音がした。
「どうぞ。荒野の魔女ミリア・ノクトの家よ」
「お邪魔します」
悠麻は慎重に足を踏み入れた。
中は、外から見た印象を裏切らなかった。
「めちゃくちゃ散らかっている......」
ミリアを見るとすごく睨まれていた。
悠麻はミリアから目をそらす。玄関の正面から左右に部屋が分かれていた。
見える範囲だけでも、壁には乾燥した薬草の束が吊るされ、棚には色とりどりの瓶が並び、床には紙が散らばっている。右側の部屋では小さな机の上には魔術書らしき本と、欠けたカップと、半分になった硬そうなパン。部屋の隅では、青く光る湿った毛玉が小さく震えていた。
「今の、動きませんでした?」
「昨日の失敗作よ。噛まないから大丈夫」
「噛む可能性があるんですか」
「低いわ」
「低い」
「とりあえず、部屋に案内するわ。椅子は……あるから。たぶん」
たぶんが多い。
ミリアは悠麻をひっぱって、右の部屋へに促し、それから自分だけ先に奥の部屋へ入った。
悠麻はとりあえず持ち物をテーブルに置くと、そこで少しだけ立ち止まった。
ミリアの入った部屋には黒くて大きな釜があった。
「あ、魔女の釜だ」
思わず口に出た。
絵本やゲームで見たような、大きな釜ではない。だが、魔法銀らしき線が刻まれ、床の魔法陣と繋がった銅鍋は、確かに魔女の道具に見えた。
ただし、その釜は倒れていた。
支えの一部が外れ、口を開けたまま床板に横たわっている。中から何かがこぼれ出たらしく、床には金色に乾いた泥のような跡が残っていた。しかも、近づかなくても分かる程度に臭い。
悠麻は、釜と床とミリアを順番に見た。
「……何があったんですか」
ミリアは少しだけ視線をそらした。
「金をね、作ろうかなって」
「借金返済のために?」
「他に何があるのよ」
「作れたんですか?」
「錬金術とは、低きものを高きものへ至らせる神秘の技術よ。金の錬成は、古来より錬金術師たちが挑み続けている到達点の一つ。つまり私は、借金に追われていたのではなく、偉大なる学問の歴史に身を投じていたわけ」
言い訳が長い。
「借金返済どこ行ったんですか」
「まあ? 目的が両立することくらい一流にはよくあるわよ」
一流の魔女は少しだけ早口で答えた。
「できてないんですね」
ミリアは黙った。
それから、倒れた釜を起こしながら、小さく言った。
「……今のところはね」
「今のところ」
「途中までは悪くなかったのよ。煙が金色だったし、丸かったし、光っていたし」
「金そのものではなく?」
「中間生成物よ」
「臭いですけど」
「中間生成物だからよ」
悠麻はそれ以上、深く聞かないことにした。
ミリアは釜の横に落ちていた赤い羊皮紙を拾い上げていた。
そして、それを見るやいなやミリアの顔が凍ったのが分かった。
「……まずい」
「何ですか」
「返済期限が、今日だったみたい」
「みたい?」
「見なかったことにしていたから」
「でも借金取りはここには来れないんでしょう?」
「こいつだけは別なのよ!!」
ミリアはひどく焦ったまま大慌てで、玄関の扉まで飛び出した。
そこには先程の魔法陣。
悠麻がなにか言うより早く、魔法陣の中心に魔力が駆け巡り黒い電撃が奔った。
空間が裂ける、というほど派手ではない。突然、魔法陣の上に人形の影ができ、そこから、実体を持った人の形が現れた。最初に、表情のない白い仮面。続けて黒い靴、白い手袋。纏っているのは漆黒のスーツ。
男は、まるで約束の時間に訪ねてきただけの客のように、静かに家の前に現れた。




