『UNREAD SIDE』第5章 ――最初の未読――
その夜から、世界の“ズレ”ははっきりとした形になっていった。
人の顔がわずかに噛み合わない。
声が一瞬だけ遅れて届く。
目が合ったはずなのに、次の瞬間には記憶から抜け落ちている。
日常は続いているように見える。
だがその精度だけが、少しずつ壊れていく。
まるで世界そのものが“思い出し方”を失っているようだった。
スマホはずっと鳴っていた。
UNREAD SIDE
「侵食率:67%」
数字は増え続けているが、その意味はもう分からない。
進行なのか、停止なのかすら曖昧だ。
ただ一つ確かなのは、何かが近づいているという感覚だけだった。
その夜、通知は変質した。
メッセージではない。
アプリでもない。
画面が勝手に切り替わり、表示された。
「閲覧制限解除」
その瞬間、視界が裏返る。
そこは電車でも街でもない、名前のない場所だった。
白でも黒でもない。
上下も距離も曖昧で、“空間として成立する直前の世界”のようだった。
そこに、人の形をしたものがいくつも立っていた。
だがそれらは人間ではない。
顔を見ようとすると、認識が崩れる。
知っているようで、まったく知らない。
思い出そうとすると、記憶の方が逃げていく。
その中心に、ひとつだけ“明確な存在”があった。
それは確かに人間の形をしていた。
だが、そこにいるだけで周囲の認識が乱れる。
見れば見るほど、存在が揺らぐ。
その存在が、ゆっくりとこちらを見た。
そして静かに言った。
「やっと見えたか」
その声を聞いた瞬間、胸の奥がざわつく。
知っている。
でも思い出せない。
思い出そうとした瞬間、記憶の輪郭だけが崩れていく。
その存在は続けた。
「俺は最初の未読だ」
空気が止まる。
意味は理解できるのに、理解したくない言葉だった。
「最初に見なかったことにされた人間」
「最初に名前を呼ばれなかった人間」
言葉がゆっくりと沈んでいく。
「最初に“読まれなかったメッセージ”」
その瞬間、すべてが繋がってしまう。
未読側は現象ではない。
怪異でもない。
“最初の一人”から始まった連鎖だった。
その存在は淡々と続ける。
「お前は覚えていないだろう」
「俺がそこにいたことを」
頭の奥で何かが引っかかる。
確かにあったはずの記憶。
送らなかった返信。
読まなかったメッセージ。
気づいていたのに無視した誰か。
その存在は言う。
「お前は選んだんだよ」
「見ないことを」
空気が重くなる。
「だから俺は未読側に落ちた」
その言葉は怒りではない。
恨みでもない。
ただ事実としてそこにある。
その瞬間、理解してしまう。
未読側は罰ではない。
怪物でもない。
“見なかったものが、消えずに残った結果”だった。
その存在が一歩近づくと、世界がわずかに崩れ始める。
駅の記憶。街の音。人の顔。
それらがすべて曖昧になっていく。
「俺はまだ終わっていない」
その声だけが異様に鮮明だった。
スマホが鳴る。
UNREAD SIDE
「侵食率:89%」
その下に一行。
「最初の未読、顕現完了」
周囲の“何か”が一斉にこちらを向く。
電車で見た影。
路地裏の気配。
思い出せない人影。
それらすべてが、ゆっくりとこちらへ意識を向ける。
そして気づく。
最初の未読は、どこか遠くにいる存在ではない。
すでにこちら側に“出てきている”。
その存在が最後に言う。
「もうすぐだ」
「お前も、読まれなくなる」
その瞬間、スマホの画面が完全に黒くなる。
そして白い文字が一行だけ浮かぶ。
「UNREAD SIDE 完全同期開始」




