『UNREAD SIDE』第4章 ――起源――
その夜、世界は静かすぎた。
車の音も、人の声も、いつも通り存在している。
それなのに、どこかだけが欠けている。
“意味のある音”だけが、抜け落ちていた。
俺は気づいていた。もう普通の状態には戻れないところまで来ている。
スマホの画面は消えなかった。
そこにはずっと同じ表示があった。
UNREAD SIDE
「侵食率:31%」
数字が増えているのに、何が進んでいるのかは分からない。
ただ、世界が少しずつ“薄くなっている”感覚だけがあった。
そのとき、画面が勝手に切り替わった。
通知ではない。メッセージでもない。
それは“招かれている”ような感覚だった。
「起源領域へ行きますか?」
拒否しようとした指は動かなかった。
最初から選択肢ではないように、意志が吸い込まれていく。
タップしてしまう。
その瞬間、視界が裏返った。
気がつくと、そこは“場所”ではなかった。
上下も左右もない。白でも黒でもない。
ただ、何かを“認識する前の空白”のような空間。
そこに、何かが立っていた。
人の形に見える。
だが、見ているうちにその印象が崩れる。
顔がないのではない。
そもそも“顔という概念”が成立していない。
視線を向けると、形が定まらない。
見れば見るほど、分からなくなる。
その存在が、ゆっくりとこちらに語りかけてきた。
声は耳ではなく、頭の奥に直接響いた。
「やっと来たね」
懐かしい声だった。
知らないはずなのに、なぜか心の奥がざわつく。
その存在は続ける。
「君はもう気づいているはずだ」
空間がわずかに揺れる。
そのたびに、見えかけていた“何か”が消えそうになる。
「ここは“場所”じゃない」
一拍置いて、声は続いた。
「人が見なかったものの集まりだ」
意味がすぐには入ってこない。
だが、次の言葉で理解してしまう。
「無視された瞬間、存在は少しだけ欠ける」
「気づかれなかった会話」
「読まれなかったメッセージ」
「見て見ぬふりをされた人間」
それらが積み重なっていくうちに——
「ここができた」
背筋が冷たくなる。
未読側。
それはただの現象ではない。
“見なかったことにされたものが集まる場所”だった。
声は淡々と続く。
「未読側は幽霊じゃない」
「死者でもない」
「ただ、“存在を最後まで認識されなかった人間”だ」
その言葉で、思い出してしまう。
電車で見た、あの“人の形をした何か”。
顔を見ようとすると記憶が逃げる存在。
あれは幻なんかじゃない。
「君は今、それを見ている」
声が静かに言う。
「見たものは、そこに固定される」
空間の奥で、何かが揺れた。
見えているのに、認識できない影が、ゆっくりと増えている。
「逆に言えば」
声が低くなる。
「見なければ、存在は薄れていく」
つまり——
見ても危険。
見なくても危険。
逃げ道がない。
そのとき、はっきりと分かった。
未読側とは怪物ではない。
霊でも呪いでもない。
もっと単純で、もっと嫌なものだ。
“誰にも気づかれなかったまま残ってしまったもの”だ。
そしてそれは、完全には消えていない。
ずっとこの世界の隙間にいる。
声が一段だけ低くなる。
「そして君は今、それに“触れている”」
その瞬間、空間がわずかに近づく。
“それ”がこちらを見ている。
顔はないはずなのに、確かに視線がある。
見られているという感覚だけが、強く残る。
スマホが鳴る。
UNREAD SIDE
「侵食率:52%」
その下に一行。
「起源接触完了」
画面が少しだけ歪む。
まるで世界そのものがスマホの中に沈んでいくように。
最後に、声が残る。
「君が見た未読は、まだ“優しい方”だ」
その言葉と同時に、空間がゆっくりと暗くなる。
スマホの通知が増える。
「未読側、増殖開始」




