第四章 救世の英雄 1
界蝕光が見下ろすフォビド山頂は魔力に侵されていなかった。森林限界を無視して力強く根付く木々は鮮やかな赤い葉を茂らせ、湖を囲むように咲く色とりどりの花々からは甘い香りが漂う。湖面からはきらきらと光る霊光結晶がいくつも顔を覗かせていた。
聖域。そう呼ぶに相応しい景色にルカとメイは圧倒されたが、いつまでも魅入っているわけにはいかない。互いに頷き合い、メイとルカは手を繋いだまま緩やかな斜面を降りた。
小石に混じって霊光結晶があちこちに転がっており、霊光結晶に覆われた木も少なくない。メイとエフィの加護がなければ、今頃ルカは霊光酔いを起こして気絶していたことだろう。あるいは発狂していたか。どちらにせよ、この場所が恐れ敬うべき聖域であることは確かだ。気を引き締めながら歩を進めると、数分と経たずに湖の畔に辿り着いた。
メイが金杖を掲げる。凪いだ湖面が微かに揺らぎ、膨大な霊光が発生した。
霊光結晶を押し退け、飛沫を燦めかせながら純白の巨塔が姿を現す。浮き沈みを繰り返す結晶達が虹色の霊光粒子に姿を変えて湖面を奔り、塔と畔を繋ぐ橋を作り上げた。
橋の中程には不安定な飛び方をする一羽の蝶。黄金にも白銀にも虹色にも見えるその蝶は、メイとルカが橋を渡るのを待っているようだ。
金杖の石突で橋の強度を確かめるようにつつくと、メイは率先して橋に乗った。そしてさも当然といった様子でルカに手を差し伸べてくる。こういうのは普通逆なんじゃ……と思いつつルカはメイの手を取り、彼女と手を繋いだまま霊光の軌跡を刻む蝶の後ろを歩いた。
橋を渡り終えると同時に荘厳な扉が音もなく開き、蝶が溶けるように消える。すると虹色の輝きがメイとルカを包み込んだ。
塔の防衛機能でも作動したのかとルカは身構えたが、視界を焼く輝き――霊光から害意は感じられない。それどころか魔獣との戦いを労るかのように霊光はルカに絡みつき、疲れと体の汚れを消し去っていく。驚いたことに、霊光を使用した代償までもが消えていた。あれは、治癒の精霊術でも癒やせないはずなのに。
聖域の恩恵……なのだろうか。ルカが不思議に感じつつメイを見ると、彼女もこの恩恵を受けていた。血と土で汚れていた正装が元の美しさを取り戻し、髪はたった今セットされたかのように綺麗に整っている。冠と金杖に至っては、霊光に負けず劣らずの輝きを放っていた。
金瞳がルカを見上げる。メイはルカをまじまじと見つめると、「聖域の恩恵……でしょうか?」と小首を傾げた。同じことを考えていたことに気恥ずかしさのようなものを感じながらルカは相槌を打つ。同時に、メイにもわからないのかとルカは意外に思った。
絡みついていた霊光が少しずつルカから離れていく。途端、ルカはこの霊光から僅かにだが意思を感じた。拒絶だ。さりげなく、そっと遠ざけるような――
「っ、メイさん!」
ルカは咄嗟にメイを抱き寄せた。直後、体を圧縮するかのような衝撃がルカを襲い、一瞬の浮遊感と共に消える。恐る恐る目を開けると、霊光結晶に覆われた扉が目の前にあった。狭い足場も霊光結晶に侵蝕されており、ルカはひやりとして扉の方に寄る。足場の下に何もないからだ。加えて地上は数十メートル下にある。メイとエフィの加護があるから落ちても大丈夫かもしれないが、この場所に戻れる保証はない。こんな状況でメイと離れるわけには――
「あの……ルカさん……?」
遠慮がちにかけられたメイの声に、ルカは慌てて彼女を離して無礼を詫びた。メイは突然抱き締めたことを咎めるでもなく、むしろ心配する目でルカを見つめている。怖がっていると思われているのかもしれない。ルカは弁明するべく口を開いた。
「さっきの霊光に、ここから追い出されそうになったんです。僕をメイさんから離そうとしてるみたいで、それで、その……」
「ちょっとびっくりしたけど、ルカさんの行動は正しかったと思いますよ。聖域の中には、人間を追い出そうとする場所もありますから。この塔もそうなのかもしれません」
微笑みながら言うとメイは扉に向き直る。ルカも気持ちを切り替えてメイの隣に立った。
扉は本来の姿がわからないほど霊光結晶に覆われているが、辛うじて取っ手が覗いていた。メイが左右の取っ手を掴むと霊光結晶は淡く輝いて消えていき、それが完全に消える前にメイは扉を押し開く。開けた空間は、やはり霊光結晶に侵蝕されていた。少し進んだ先には月明かりに淡く照らされた螺旋階段があり、この先が頂上に違いない。メイと顔を見合わせて頷き、ルカは階段を上っていく。数段ごとに霊光濃度が増していき、上り切った先に見えたものにルカは息を呑んだ。傍らのメイも金瞳を瞠り、小さな唇が「綺麗……」と言葉を紡ぐ。ルカはメイの言葉に頷きたかったが、それができないほど目の前の光景に圧倒された。
月明かりと界蝕光が照らす塔の頂上には輝く霊光結晶が無数に咲き乱れていた。大きさは小石ほどのものから人の背丈を優に超えるものと大小様々で、音もなく崩れていくものもある。蝶のように揺蕩う霊光粒子が新たな霊光結晶を作り出し、柱に似た霊光結晶が連続して崩壊していく中、メイとルカを捕らえて放さないものがあった。
最奥に鎮座する、棺に似た霊光結晶だ。花の形をした霊光結晶がいくつも咲き、頂部には冠を彷彿とさせる精緻な意匠が施されている。棺を支え、あるいは周囲に並び立つ霊光結晶は棺を守っているようにも、寂しくないように寄り添っているようにもルカには見えた。
そして、その棺の前には薄紅色の髪の精霊。黒いスーツではなく儀式衣装風のローブを纏い、微動だにせず棺の霊光結晶を見上げるその姿は敬虔な信徒そのもので、声をかけるどころかこの場にいるのを躊躇うほどだ。メイとルカはフロースの背中を見つめることしかできず、何本目かの霊光結晶が砕けてようやくフロースの瞳が二人を捉えた。
「来てしまったのですね」
溜め息混じりのフロースの声は聞き分けの悪い子供に接する大人のそれだが、メイを見つめる表情は柔らかい。メイが塔の頂上まで無事に辿り着いたことへの安堵、そしてメイとルカが正式な契約を結んだことに気づいたからだろう。メイは絆霊者の代償を負担する必要がなくなったのだ。穏やかにメイを見つめるフロースの気持ちがルカにはよく理解できた。
「当たり前でしょ。界蝕光を封印するのは、導師であるわたしの役目なんだから」
一歩進み出て毅然と言い放つメイ。フロースは困ったようにメイを見つめた。
「先日も申し上げたように、その役目は私が担います。グリント、メイ様とここを離れろ」
「嫌です」
ルカの即答にフロースは微苦笑を浮かべる。その様子に説得の余地があると見たのか、メイは更に一歩進み出た。金杖をぎゅっと握り、彼女は縋るような目をフロースに向ける。
「フロース。貴女は、貴女を導師だと認識させて界蝕光を封印するって言っていたけど……。いくらわたしの霊光を取り込んでも、フロースはフロースだよ。そんなこと、できるはずがないの。だから――」
フロースの瞳にはメイと同じ金色が宿っているが、それだけだ。彼女が発する霊光はフロース本人のものであり、メイの霊光はほんの僅かに感じる程度。フロースを導師だと認識させるという方法が上手くいくとはルカにも到底思えなかった。
必死に訴えるメイをじっと見つめるフロースは、やはり首を横に振った。
「確かに、あのバレッタを構成していたメイ様の霊光だけでは無理です」
身を乗り出しかけたメイの前にルカは立つ。何か、嫌な予感がした。
「ここには救世の英雄――シリウス・シュテルクローネの霊光が、有り余るほどあるのです」
一つの霊光結晶が砕け、その崩壊は連鎖していく。虹色に輝く霊光粒子の奔流がフロースを呑み込むと、荒れ狂う霊光の内側から色鮮やかな花が無数に咲き続け、次々に枯れ落ちた。
「フロース……!」
悲鳴に似た声を上げて近づこうとするメイをルカは抱き留めた。必死の形相で離してと訴えるメイの姿にルカの心はひどく痛んだが、彼女から手を離すわけにはいかない。迂闊に近づけばメイまで巻き込まれてしまうかもしれないからだ。
やがて棺とそれを支える霊光結晶以外が砕け、一際眩い光が発生する。その光を裂いて、花を冠していた精霊が静かに姿を現した。
白銀に侵蝕された薄紅色の髪、新緑色を溶かす金の左目。過剰摂取した霊光がローブを突き破って燦めく花を咲かせていき、唯一フロースの色を残していた右目をも内側から貫いた。
あの精霊をフロースだと認識できない。歪な精霊にルカは恐怖を感じた。抵抗を止めてフロースを見つめるメイも怯えており、誰よりも親しいであろう精霊の名を呼ぶ声は震えて掠れている。その声が聞こえたのかフロースは歪な瞳をメイに――彼女が持つ金色の杖に向けた。
「それを、渡してください」
差し出されたフロースの手の平には鏃のような霊光結晶が生えている。痛々しいその姿にルカの腕の中にいるメイは震え、金瞳から涙が溢れた。その隙を突いてフロースの足元から伸びた蔓がメイの手から金杖を奪おうとし、ルカは彼女を抱えて後ろに跳ぶ。標的を失った蔓は蛇のように蠢きながら消えたが、即座に新たな蔓が生まれた。虹色に輝く蔓の群れは鋭い棘を生やし、花弁のように開いた先端部分にも牙と見紛う鋭い棘が居並んでいる。棘の代わりに花を咲かせたものもあるが、あれがただの花であるわけがない。メイを下ろし、ルカは警戒しながら抜剣した。ほぼ同時に迫る無数の蔓達はいずれもメイが持つ金杖を――
「――ッ!」
剣身に込めた霊光を放つ。直撃を受けた蔓達が崩壊して燦めく幕を作り上げ、その向こうにいるフロースの姿をぼんやりとしたものにさせたが、ルカは彼女の目を真っ直ぐ睨んだ。
「……今、メイさんを傷つけようとしましたね」
最初に伸びてきた蔓はメイが握る杖だけを握っていたが、たった今ルカが破壊した蔓達は違う。メイの手、あるいは腕。腹を狙っているものまでいた。そうまでしてメイから金杖を奪おうとするフロースにルカは強い怒りを覚えずにはいられなかった。メイを大切に思う気持ちは、ルカと同じはずなのに。
「メイ様のためだ。多少の痛みは我慢してもらうしかない」
話にならない。気づいたときにはルカは剣に霊光を込めており、それをフロースに向けて放っていた。幾重にも重なる蔓がフロースを守り、そのことごとくを光の霊光が呑み込む。浄化された蔓は再構成されず、フロースは微かに眉を動かした。
「少しは技量を身につけたようだな。だが、その程度で私を止められるとでも?」
「止めてみせますよ。そのあとで、メイさんに誠心誠意謝ってもらいますから」
そう言ってルカは、涙に濡れた金瞳で見上げてくるメイに先に謝ることにした。
「ごめんなさい、メイさん」
「ルカさん……?」
「フロースさんに怪我をさせてしまうかもしれません」
精霊は人間が敵うことのない上位種であり、加えてフロースは守護精霊の名を冠している。生半可な気持ちで挑める相手ではない。それこそ殺す気で挑まなければ返り討ちに遭うのは必至だ。ルカの言葉にメイはどう反応していいのかわからないのだろう。困惑気味にルカとフロースを交互に見ている。それもそうかとルカは苦笑し、呼吸を整えて剣を構え直した。
「お優しいことだな」
嘲笑混じりに吐き捨てると、フロースは夜空を――界蝕光を見上げた。
「界蝕光が完全な形になるまで、少し時間がある」
言いながらルカへと視線を転じるフロース。牙を持つ棘が吠えるように大口を開けた。
「その間に私を止めてみろ、グリント」
空間を裂く勢いで牙の蔓がルカに迫る。あらかじめ剣に込めていた霊光を放ち、ルカは浄化される蔓の中を駆けた。フロースは恐ろしい精霊だが、彼女の攻撃は決して対処できないものではない。蔓が発生する直前、そして攻撃に転じる際に霊光の揺らぎを感じ取れるからだ。僅かな猶予でルカは蔓の軌道を予測し、左右から迫る蔓を屈んで躱す。棘が頬を掠めてしまったが、これくらい気にする必要はないだろう。流れる血もそのままにルカは行く手を阻む花の壁を走る勢いを乗せた突きで破壊した。鮮やかな花弁は散らばると同時に鋭い刃に変わり、それが降り注ぐ直前、ルカは霊光を込め直した剣を下段から振り上げた。
剣身から放たれた霊光が迫る花弁の刃を破壊し、頭蓋を穿とうとする蔓と足を折ろうとする蔓をも消し去る。だが一息つく間もなく新たな蔓達がルカに迫っていた。動きは先程のものより速い。それでもルカは集中して霊光の動きに意識を向けて噛みつこうとしてくる蔓を弾き、足元を掬うように蠢いた蔓を前に跳んで躱した。そのほんの一瞬、無防備になる隙を狙ったかのように蔓の束がルカの腹を激しく打つ。鉈を振り下ろされたと錯覚する激痛に顔を歪めながらもルカは体勢を立て直し、そんなルカを蔓の連撃が容赦なく襲った。霊光の動きを読む暇などなく、躱し損ねた蔓がルカの肩を裂いて花を根付かせようとする。引き千切ると肉を引き剥がすような激痛が走ったが、この花を根付かせるわけにはいかない。リュリアガでリュールはこの花に苦しめられていたのだ。守護精霊を苦しめるものが人に根付こうものなら
「どうした、グリント」
声は、耳元で聞こえた。
「所詮貴様は、その程度なのか?」
嘲笑が消える。咄嗟にルカは横に跳んだが、棘だらけの蔓が足に巻きついた。スラックスを裂き、足に深く突き刺さる棘の痛みに呻く間もない。ルカの体は加減を知らない子供に捕まった人形のように振り回され、無遠慮に地面に叩きつけられた。
「ルカさん……ッ!」
悲鳴混じりの声を上げたメイがルカに近づこうとするが、即座に形成された蔓の檻が彼女を捕らえる。檻の中には白い花が無数に咲いており、メイは何かに抗うように顔を歪めた。
「諦めろグリント。これ以上は時間の無駄だ」
霞む視界にフロースが映る。彼女の言葉を無視してルカは体を起こそうとしたが、足に巻きついたままの蔓がそれを許さなかった。強く引っ張られて宙に浮いたかと思うと、ルカは再度地面に――今度は先程より強く叩きつけられた。
メイの叫び声が遠く聞こえる中、宝石が割れるような音だけがはっきりと聞こえる。メイとエフィの加護が失われたのだ。加護に軽減されていた疲労と痛みが一気にルカに押し寄せて胃の中身がせり上がってくる。どうにか下を向いて苦いそれを吐き出し、ルカはこちらを睥睨するフロースを睨み上げた。
「メイさん、に……何を、したんですか……!」
「貴様が知る必要はない」
淡々と答えたフロースの背後で牙の蔓達が蠢く。ルカは必死に体を起こそうとしたが、少しも力が入らない。それどころか、意識を保つのも辛くなってきた。
ここでルカが気絶すれば、フロースはどんな手を使ってでも――メイを多少痛めつけてでも金杖を奪い取るはずだ。ただでさえメイは蔓の檻の中で苦しんでいるのに、そんな非道を許すわけにはいかない。フロースへの怒り、そして不甲斐ない自分自身に苛立ちながらルカは全身を巡る霊光に意識を向けて剣の柄を強く握った。倒れたままでも、不格好でも、剣を振ることはできる。メイを守るという誓いは、何が何でも果たさなければならない。高ぶる情動と感情が全身を滾らせ、メイとの契約の繋がりが――魂の奥底がこれ以上ないくらい熱くなる。左耳のイヤリングが、軽やかな音を奏でた。
「終わりだ、グリント」
淡々とした声と共に牙を剥き出しにした蔓達がルカに襲いかかり――何かが砕ける音が、聞こえた。
「――ッ!?」
その音が聞こえると同時にルカは霊光を根こそぎ奪われるような感覚に襲われていた。だが奪われたと錯覚した霊光はルカの体と剣を激流のように循環しており、柄を握る手だけではなく全身も痛いくらい痺れている。それが気付け薬のような役割を果たしたのかルカの意識は極限まで研ぎ澄まされ、痛みが引くにつれて活力が湧くのを感じた。
「グリント、貴様……!」
驚愕、あるいは恐れに揺れた声。フロースがそんな声を出した理由に、ルカはようやく気づくことができた。
何の変哲もない、支給品の騎士剣。それが清浄な霊光をまとっている。いや、砕けた騎士剣を霊光が取り込み、剣の形を取ったというべきか。剣身だけではなく剣全体が霊光で形成されており、それはどこか、リュールが振るった不浄祓いの剣に似ていた。
剣を支えに立ち上がる。ルカに襲いかかっていた蔓と足に巻きついていた蔓は、剣が構成される際に破壊されたらしい。その余波はフロースにも及んでおり、距離を取って警戒する彼女の体から霊光結晶がいくつか消えていた。
剣を下段に構える。今まで何度も繰り返してきたその動作は、今のルカには高い集中力を必要とした。少しでも気を抜くと、霊光の剣がルカの意思を無視して暴れ出すのを感じたからだ。初めて剣に霊光を宿らせたときもこうだったな。頭の隅でそんなことを思い出しつつ、ルカは剣を振り上げた。
閃光が爆ぜる。霊光を放ったルカですら目を開けられず、連続して鳴り響く爆発音が頭蓋をも揺らす。崩れた平衡感覚はしかし、循環し続ける霊光のおかげなのかすぐに回復した。腕で庇いながら薄目を開けると閃光が少しずつ収束していくのが見え、やがて肩で息をするフロースの姿が現れる。破れたローブの隙間から覗く肌、そして額からは血が流れ、体のあちこちに生える霊光結晶の数は減っている。まだ残っているものも、輝きが少しだけ弱まっていた。
あと少し。フロースの反撃を警戒しながらルカは剣を構え――
「ルカさん!」
名を呼ばれ、ルカは背後を振り向いた。蔓の檻の中でメイは相変わらず苦しげだ。ルカは咄嗟に駆け寄ろうとしたが、それを遮るようにメイが声を張り上げる。
「その剣でフロースの心臓を刺してください! 霊光を浄化できるはずです!」
フロースの力を増幅させているのも苦しめているのも、取り込んだ導師の霊光の影響だ。浄化すればフロースは普通の守護精霊――それでも十分恐ろしい存在だが――に戻り、少しは止めやすくなるだろう。ルカは未だ呼吸を乱すフロースと、右手に握る剣を交互に見た。
今なら、比較的安全にフロースに近づける。導師の――メイの霊光を不浄として祓うのは少し抵抗があるが……。
(本当に、この方法でいいのかな……)
ルカはフロースを止めたいのであって、消滅させたいわけではない。剣を刺して、もしもフロースを消滅させてしまったら。そう考えると怖気がして、ルカは行動を躊躇った。
「大丈夫ですよ」
耳元で囁かれたと錯覚するその声は、とても優しいものだった。顔を上げれば、檻の中の少女が金瞳でルカを真っ直ぐ見つめている。フロースはメイにとって大切な存在だ。フロースを消滅させるような方法をメイがルカに教えるはずがない。一瞬でもメイを疑ってしまったことを恥じ、ルカはメイに強く頷いた。
フロースとの距離を詰めるべく地面を蹴る。襲いかかる無数の蔓と刃と化した花弁をルカは最小限の動きで避け、束になって振るわれた蔓を剣身で受け止めた。すると彼等は剣を這い、ルカの手首や腕に巻きついて棘を刺してくる。じわりとした痛みは即座に激痛に変わり――その痛みを、ルカは霊光を使用する代償で上書きした。渾身の力で振り下ろした剣はルカの拘束を破壊し、周囲の蔓達も崩壊する。だがフロースの猛攻は止まない。棘も刺さったままだ。痺れる腕で剣を構え直したルカに蔓の群れが牙を剥き
「貴方は……」
呆然とルカは呟き、自身を脅威から守ってくれた存在を見上げた。ちらりとこちらを振り向くと、鋼鉄の騎士は盾を振るう。たったそれだけの動作で蔓が――霊光で形成された蔓の群れがぼろぼろと崩れ、それと対照的に窪んだ盾が修復されていく。どれもあり得ない現象だ。いくら魔鎧型が優れた魔具であっても精霊の攻撃を防ぐことはできないし、霊光による損傷は直せない。特に、霊光で形成されたものを破壊するなんてことは不可能だ。不可能だが――
「この霊光……リュールか……!」
精霊の助力があれば可能だ。フロースが苛立たしげに吐き捨てた通り、魔鎧型からはリュールの霊光を感じる。彼女が弩級型を訪れたとき、その霊光は不安定に乱れていた。あのときリュールの霊光は照明だけではなく、倉庫で眠っていた魔鎧型達にも影響を与えたのだろう。
『少年、聞こえるか?』
インカムから鋼鉄の魔女の声が流れる。蔓を弾きながらルカが「聞こえます」と答える間に、魔鎧型は大盾を構えてフロースに突進した。直後響き渡った金属を砕くような激しい音は鋼鉄の魔女にも聞こえたのだろう。インカムの向こうで彼女が息を呑んだ。
『壱號が――む? 待て弐號。君もか……!?』
風を切る音と、鈍い衝撃音。すぐ傍に弐號が着地したのは疑いようもなく、彼もまたフロースへと向かっていく。壱號と弐號の得物を受け止めた蔓との間で激しい火花と霊光粒子が散り、衝撃で他の蔓達が崩壊した。そうして発生した光の霊光はルカの剣に吸い寄せられていき、熱を伴って循環していく。頑張れと、リュールに励まされているようにルカは感じた。
一つ息を吐き、ルカはフロース達に目を向け直す。霊光の加護を得たとはいえ、魔具は魔具。激しい攻防の末壱號と弐號は片腕を失い、背部アームに取り付けられた機銃がひしゃげている。そして魔力核を守る胸部装甲には深い傷があった。幸い魔力核は無事だが、あと一度でも攻撃を受けたら壊れてしまう危険な状態だ。
メイとルカのために尽力してくれた鋼鉄の魔女を悲しませるわけにはいかない。それに、魔鎧型を動かしたのはリュールの霊光だ。鋼鉄の魔女とリュールの間に軋轢が生まれるのは避けたい。ルカは剣を振り上げて霊光を放ち、鋭い蔓の先端が魔鎧型達の心臓を抉るのを防いだ。
「グリント……!」
怒気を含んだ声と共に花弁の刃がルカに殺到する。避けるのも剣で弾き落とすのにも限界があり、ルカは剣身の霊光を再度放った。消滅しきれなかったものが頬や腕を擦過するが、花が根付く不気味な予兆はない。あらゆる痛みを無視してルカはフロースに肉薄した。
「――ッ!」
新緑色を溶かす金の瞳が見開かれる。そこには、怯えの感情があった。
「……ごめんなさい、フロースさん」
霊光の剣がフロースの心臓を貫く。嫌な感触はなく、代わりに剣を通しておびただしい量の霊光がルカに流れ込んできた。それは剣を再構成したときとは比べものにならない、全身を焼き尽くすかのような激烈な痛みを伴っていた。あまりの激痛にルカは剣から手を離しそうになったが、フロースの体にはメイの――導師の霊光がまだ残っている。感覚が消えたと錯覚する両手を強く握り、歯を食いしばって痛みに耐えながらルカはフロースを蝕む霊光が浄化されるのをただひたすらに待った。
「はな、せ……ッ!」
悲鳴どころか呻き声一つ上げなかったフロースが声を絞り出す。まずいと思ったときには遅く、ルカの体に無数の蔓が巻きついてフロースから強引に引き離した。剣が抜けるとフロースは糸が切れたように頽れる。咳き込みながら血塊を吐き出し、刺された箇所をゆっくりと修復するフロースから導師の霊光はほとんど感じられない。止めたとは言い難いが、界蝕光を封印するなら今だ。ルカはメイを振り返ろうとし、しかし未だ全身を蝕む激痛がそれを許さなかった。光の霊光が導師の霊光を追い出そうと暴走しているのか、後者が体に馴染もうとしているのか。ルカには判別がつかないが剣を支えにするだけで精一杯だ。
そんなルカの傍を、半精霊の少女が駆けていく。ルカとフロース、壱號と弐號に金瞳を向けることなく、案じる言葉をかけることもなく、ただ己の使命を全うするべく駆けていく導師を、ルカは見送ることしかできなかった。
棺に金杖が突き立てられる。それは即座に霊光に姿を変え、棺に描かれた精緻な模様を這い進みながら結晶化していく。やがて冠部分に霊光が到達すると、棺に無数の亀裂が走った。
棺が燦めく粒子となって崩壊していく。剣で体を支えたままルカは目映い空へと立ち上っていく彼等を見つめ――ふと、棺の霊光結晶に見覚えのあるものを見つけた。決して見間違いなどではない。ルカは半ば無意識に一歩踏み出した。
メイとの距離はほんの数メートル。すぐに辿り着ける場所にメイはいる。だが今のルカにその距離は恐ろしく遠い。一歩進む。たったそれだけで意識が飛びそうになる激痛に全身を苛まれているのだ。それでもルカは前に歩み続け――崩れゆく棺に、美しく靡く白銀を見た。
「メイ――!」
伸ばした手は少女に届かない。ルカの叫び声は鳴動に埋もれ、鮮やかな閃光がすべてを呑み込んだ。




