第三章 深紅の巡礼 1
フォビドから二十キロほど離れた場所には、かつて観光地として賑わっていた街、ユーフォリアがある。観光客の多くが目当てにしていたのは麓からフォビドの中腹までを繋ぐ登山鉄道で、平日休日問わず一時間以上待つことも珍しくなかったそうだ。
だが今は車両も線路も錆び付き、どこもかしこも赤い霧に覆われている。魔獣の巣窟と化したこの街に住む者は当然、訪れる者もいない。大規模な魔獣殲滅作戦が行われたこともあるが、いたちごっこになっているのが現状だ。
その街に、地響きを立てながら近づく巨影が一つ。猛禽の嘴を彷彿とさせる鋭いフォルムをしており、全長二百五十メートル、全幅三十メートル、全高は四十メートル。黒鉄色の巨躯を支え前進する複数の履帯は堅い装甲に隠され、刻む轍は轢き潰した魔獣の死骸で赤黒い。〈鳥〉が広い甲板に降り立とうとすると、肉を焼く音を立てて魔獣の体は落下した。
履帯式走行魔具弩級型。ゲラタム支部が有する巨大な魔具だ。
普段はゲラタム郊外に位置する魔具製造工場の地下格納庫で眠っているこの魔具は移動を目的として造られたもので、起動させるのは年に一度の点検のときだけ。外に出すのは二十年ぶり――ユーフォリアの住人達を避難させたとき以来だと鋼鉄の魔女は話していた。
弩級型は全身を魔力障壁で守られており、〈鳥〉が焼け落ちたのもそのためだ。仮に魔力障壁が破られたとしても、霊光の加護を与えられた分厚く頑丈な装甲を魔獣が破壊することはできない。正に動く要塞だ。
突撃銃のストラップを肩にかけ直し、ルカは昼の空を照らす界蝕光を見上げる。界蝕光が顕現して今日で六日だ。太陽よりも眩い界蝕光はその色を濃くしており、降り注ぐ霊光粒子の量も増えている。霊光濃度はそれほど上昇していないが、メイと共に聞いて回ったところ、軽い頭痛を訴える騎士は何人かいた。
「日付が変わったら完全な形になる、か……」
朝食後、ルカにそう告げたメイの声は微かに震え、霊光も乱れていた。界蝕光が完全な形になってすぐに災厄が起きるわけではないとわかっていても、最悪の結末を想像してしまったのだろう。それを隠して騎士達にいつも通り振る舞うメイの姿がルカには痛ましかった。
メイの報告を受けた鋼鉄の魔女の行動は早かった。弩級型を起動させ、メイとエフィに加護の精霊術をかけてもらい、副支部長を通して必要な人員に移動を告げる。ゲラタムを留守にするわけにはいかないので、フォビドに向かうのは鋼鉄の魔女を隊長とする五十人編成の特務部隊だ。そこにメイとルカが加わり、鋼鉄の魔女曰く「門外不出の秘密兵器」の魔具も弩級型に積み込まれている。当然、各種弾薬も潤沢だ。
止まらずに進んでいた弩級型が緩やかに減速する。ルカは界蝕光から視線を外し、小脇に抱えるフルフェイスヘルメットを被った。
弩級型ならば旧市街地を突っ切ることは容易だが、廃墟と化していてもユーフォリアはゲラタムの一部。必要以上に壊すことはできない。『聖域の街、ユーフォリアへようこそ!』と書かれた錆び付いた看板の百メートルほど手前で横向きになると、鋼の巨獣は足を止めた。
不躾に巣に踏み込んできた存在に魔獣が咆える。群れを形成する魔獣の多くは〈兎〉と〈鳥〉で、人間と同じ背丈の〈猿〉まで見えた。微かに聞こえる喘鳴のような音は〈人形〉のもの。レギルナスの個体より人間に似ており、それが却って不気味だ。
赤い霧を纏い、殺意と殺戮への悦びを放ちながら魔獣の大群が弩級型に近づいてくる。左耳のイヤリングに一瞬だけ意識を向け、ルカは他の騎士達と同じように甲板から飛び降りた。
メイとエフィの加護のおかげで着地の衝撃はない。重いはずの装備も軽く、騎士達は迅速に行動に移った。引き金を引き、剣を振り、盾を薙ぎ、次々と魔獣を屠っていく。僅かに狙いが逸れた弾丸を、風の霊光が魔獣の心臓へと導いた。
魔力測定器はとっくに危険値を示しており、しかし息苦しさや頭痛、吐き気は感じない。ルカが絆霊者だからではなく、これも加護による恩恵だ。導師と守護精霊の加護を得た騎士達は赤い霧に臆することなく前進していき、その姿が互いを鼓舞し、部隊の士気を高めていた。
牙を剥いて飛び掛かってきた〈猿〉の額を撃ち抜き、嘴を向けて急降下してくる〈鳥〉を横跳びで躱す。そのまま引き金を引いたルカの無防備な背中に〈兎〉達が迫ったが、彼等の爪も牙もルカには届かない。〈兎〉の群れは機銃を取り付けたドローン達に蹂躙され、辛うじて逃げ出した〈兎〉を騎士が撃ち殺す。鋼鉄の魔女が発動させた火焔魔法で全身を焼け爛れさせた個体もいた。自棄を起こしたのか一匹の〈兎〉が後ろ足を蹴り上げてルカに飛び掛かり、その口をルカの銃剣が貫いた。
そんな中、突如悲鳴が響き渡った。騎士ではなく〈人形〉のものだ。ユーフォリア全域に届きそうなほどうるさく、おぞましく、恐怖に満ち満ちた悲痛な声。伝播する恐怖が騎士達の動きを鈍らせ、魔獣を討つという意思を削いでいくようだった。
不要な罪悪感がずるずるとルカの心を這い回る。上から叩き潰されたような顔を左右に振る〈人形〉と目が合うと全身が総毛立ち、しかし紺碧の瞳は決して逸らさない。他の騎士達も心を奮い立たせて戦っているのだ。怖いから下がるなんてことはできない。ルカは腰の後ろに下げた飾り気のない剣を抜き放ち、霊光を込めて下段から振り上げた。
白光色の霊光が剣身から放たれる。魔獣と地面を抉りながら突き進む霊光が〈人形〉に接触して爆ぜると、散り散りになった白い閃光が赤い霧を切り裂いて浄化した。
その、直後。赤黒い魔力の杭が無数に降り注いで魔獣達を地面に縫いつけた。身動きの取れなくなった彼等に騎士達は容赦なく銃弾を浴びせ、あるいは心臓を刺し貫いていく。拘束魔法から逃れた魔獣をドローンが追い、弩級型の甲板に展開する狙撃班が的確に魔獣を撃ち抜いた。彼等の援護を受けながら地上部隊はユーフォリアを進んでいき、隠れて機会を窺う魔獣を討ち、生まれつつある〈人形〉達を破壊していく。すると不意に風が吹いた。
ユーフォリアを覆う血と硝煙、腐肉の臭いが消えていく。新しく作られた赤い霧をも消し飛ばした風の正体はエフィの精霊術だ。近くにいるのかとルカがエフィを探すと、彼は土産屋らしき建物の屋根に佇んでいる。その顔はどこか不機嫌だ。ルカが声をかけようとすると、インカムから鋼鉄の魔女の声が流れた。
『ご苦労だった、諸君。私は駅に向かう。君達は弩級型に戻って休みたまえ』
フォビドに向かうまで弩級型はユーフォリアで待機することになる。魔力障壁と霊光の加護があるとはいえ、その間に魔獣が寄ってきたら面倒だ。なのでこの街を一時的に鋼鉄の魔女の支配下に置く必要があり、彼女が駅に向かうのはそのため。駅はユーフォリアで魔力が一番強い場所で、そこを起点にしないとユーフォリアを支配することはできないらしい。
加護があるため同行は可能だが、手伝えることは何もない。命令を受けた騎士達は警戒態勢のまま静かに後退していく。彼等に加わる前にルカはエフィを見上げた。鋼鉄の魔女と一緒に戻るのかもしれないが、あんな顔をしているエフィを放っておくことはできない。
「エフィさん」
名前を呼んでみる。するとエフィは優雅に腰羽を羽ばたかせてルカの隣に降り立った。
「さっきの風、エフィさんですよね。ありがとうございました」
エフィは顕現していない。そのため傍目にはルカが誰もいない空間に声をかけ、頭を下げているように見えるのだ。ルカが絆霊者だとわかっていてもその光景は不思議に見えるのだろう。ヘルメット越しでも奇異な目で見られているのがひしひしと伝わってくる。
「ああ、うん」
上の空な返事だった。エフィらしくないと心配になり、ルカが「体調、悪いんですか?」と訊ねると、彼は白緑色の髪を指に巻きつけた。
「……ここはフォビドに近いからさ。落ち着かないっていうか……なんていうか……」
俯きがちにぼそぼそと喋るエフィ。ルカは魔力汚染地帯フォビドを――三千メートル級の山々が連なり形成される雄大な山脈の威容を見上げた。ユーフォリアから二十キロという距離は遠いようで近く、ずっとフォビドを見ていると呑み込まれてしまいそうになる。自然と動いた足に自分でも驚き、ルカはかぶりを振って聖域から目を背けた。
「……僕は弩級型に戻ります。エフィさんは?」
「鋼鉄の魔女を待つよ。可愛いぼくに待ってもらえるなんて、あいつは幸せ者だね」
いつもの調子を取り戻してきたらしく、エフィは可愛らしく微笑んだ。この様子なら、鋼鉄の魔女が戻るまで一人でも平気だろう。ルカは軽く会釈をしてから踵を返した。
◇
無骨な見た目と異なり、弩級型の中は豪華客船のような作りになっている。乗員の緊張を解すためという口実で、エフィの要望を叶えたからだそうだ。吹き抜けのエントランスを照らす豪奢なシャンデリアは、いかにもエフィが好みそうなデザインをしている。
広々としたエントランスでは騎士達が三々五々に散っており、負傷者の元に医療班が駆けつけていく。その中に白銀の髪を見つけ、ルカは階段にかけた足を止めた。
幸いなことに大怪我をした者はいないが、怪我は怪我。痛いし、何より魔獣による傷は放置していいものではない。魔力を浄化し、治癒の精霊術を使うメイの顔は真剣そのものだ。騎士達に大丈夫ですよと優しい声をかけるのも彼女は忘れない。白いブラウスが汚れることなんて少しも気にしていないだろう。本当に、優しい少女だ。
メイに話しかけたい気持ちはあるが、ルカはどこにも怪我をしていない。それに、メイの邪魔をするなんてもってのほかだ。ルカは船員室に向かおうと、
「ルカさん!」
美しく澄んだ声がルカを呼ぶ。軽やかな靴音が徐々に近づいてきた。
ルカはフルフェイスヘルメットを被ったままで、同じような騎士はあちこちにいる。だのにメイには、誰が自分と契約している者なのかはっきりとわかるらしい。浮かびそうになる笑みを必死に抑えつけ、ルカはメイを振り向いた。
「おかえりなさい、ルカさん。怪我はしていませんか?」
眉尻を下げてルカを見つめるメイ。強く握った手を胸に当てるメイはルカを――いや、ルカ達のことをずっと案じていたのだろう。顔はルカに向けたままだが、周囲に気を配っているのが窺えた。
霊光を使った代償として軽い頭痛は感じているが、これくらい大したことではない。ヘルメットを外し、ルカは頷いた。
「メイさんとエフィさんの加護がありますからね。どこにも怪我はしていませんよ」
「よかった……。けど、加護は万能じゃないから危ないって思ったら」
不自然に言葉を切り、メイは天井を仰ぎ見る。彼女の視線の先には豪奢なシャンデリアがあり、そこから霊光粒子が降っていた。弩級型にはメイとエフィの加護がかけられているため、あちこちに霊光粒子が漂っている。なのでシャンデリアから霊光が降るのも別段おかしなことではないのだが――
「光の霊光……? 弩級型に乗り込んだ光の精霊がいるんでしょうか?」
ルカが呟くと、それを合図にしたかのように霊光粒子が一箇所に集まり始めた。霊光は徐々に形を整えていき、やがて一人の精霊が姿を見せる。
見た目は七歳くらいの女の子だ。リボンが結ぶ金髪のツインテール、前髪にはきらきら光る髪飾り。着ているのは白いワンピースで、肩にぶかぶかの黒革のジャケットを羽織っている。そして感じる、ルカが慣れ親しんだ霊光。
「え……リュールさん……?」
ルカの声に、リュールは泣き出しそうな顔で頷いた。




