第二章 護衛騎士 7
気怠さを感じながら目を開けたメイは、窓から見える暗い景色に溜め息を吐いた。少しだけ休むつもりだったのに、結構な時間眠ってしまったからだ。
ルカとの契約は不完全なものだ。そのため彼の――絆霊者の代償はメイが負担している。気合いでどうにか耐えているが、辛いものは辛い。眠っているときでさえ痛みを感じるのだ。
だがルカは、こんな状態でメイのことを守ってくれた。そう思えば苦痛に耐えることはできたし、エフィが霊光を回してくれている。ルカ、そしてゲラタム支部の騎士達に余計な心配をさせないためにも、メイは盈月狼教団導師として振る舞わなければならない。フォビドに来るなら正式な契約を、とフロースは言っていたが――
「メイさん?」
控え目なノックとルカの声。どうにか重たい体を起こしてメイは髪を整える。ペットボトルの水を一口飲んで深呼吸し、いつもの顔と声を思い出しながら「どうぞ」と声をかけた。遠慮するように入ってきたルカは黒い半袖シャツとズボン姿で、ベッド横の椅子に座った彼から柔らかな香りがする。風呂上がりのようだ。何の用かなと思いつつ、メイはルカを見つめた。
「……エフィさんが教えてくれました。僕が依存する形でメイさんと契約してるって」
痛みを堪えるような声だった。メイを見る紺碧の瞳は悲しげで、しかしどこか危うい覚悟も宿している。その姿にメイは心の奥底が疼くのを感じ、シーツを握ってどうにか耐えた。
不完全な契約のことは黙っていてほしい。エフィと鋼鉄の魔女にメイはそう頼んでいたが、エフィは自由奔放な精霊だ。メイの言いつけを破っても不思議ではない。正式な契約を結ぶ方法も伝えたのだろう。だからルカは、あんな目をしているのだ。
喉が、渇く。渇いて、痛いほどひりつく喉から、メイはどうにか声を絞り出した。
「……心配しないでください。わたしは大丈夫ですから」
「そんな状態でフォビドに行くなんて無理ですよ……!」
本気で心配してくれるルカの気持ちは嬉しいが、メイはゆっくりと首を横に振った。
「本当に大丈夫です。界蝕光を封印するまで耐えきってみせます。足手纏いにはならないって約束しますから」
信じられない言葉だったのだろう。ルカは顔を歪め、膝に置いた手を強く握った。
「……絆霊者の代償がどれほど辛いのか、僕はよく知っています。吐いたことも、倒れたことだってあるんです。一日動けなくなったことだって……。そんな辛い思い、もうこれ以上メイさんにしてほしくないんです」
必死に訴え、かと思うとルカは「僕の血」などと恐ろしい言葉を口にする。メイは口と喉が更に渇いていくのを感じ、咄嗟にペットボトルに手を伸ばした。だが倦怠感も痛みを伴う熱もメイの体にしつこく残っていて、掴んだはずのペットボトルが床に落下する。それを拾ってメイに持たせてくれたルカの腕――微かに見える血管に、メイは喉を鳴らしてしまった。
もし今噛みついても、優しいルカは許してくれる。そう考えたメイは猛烈な自己嫌悪を感じた。ルカに無許可で、彼の優しさにつけいって。そんなこと、絶対に許されないのに。
「メイさん」
小さな子供に接するような、優しく柔らかい声だった。メイは恐る恐るルカを見つめた。
「僕の血を、貴女に捧げます」
血を捧げる。正式な契約を結ぶ方法であり、より強固な繋がりを得るための行為だ。他にもいくつか方法はあるが、これが一番手っ取り早い。契約相手に血を飲んでもらう。それだけでいいのだから。
だが――血を捧げてくれても、ルカとの契約はいずれ解消される。しかも彼は、フォビドという危険極まりない魔力汚染地帯に同行してくれるのだ。それだけで十分嬉しい。たった数日のために血を受け取ることはできない。メイは幼子のように首を振った。
「だ、だめ……です。本当に、大丈夫です。眠れば、明日になれば元気になるから……!」
「そんなに辛そうな顔して大丈夫なわけないじゃないですか! お願いします、メイさん。僕の血を飲んでください」
絆霊者の血。世界中の精霊が垂涎する極上の血だ。それを、目の前にいる絆霊者は健気にも捧げたいと懇願している。正に僥倖だ。一刻も早くこの絆霊者の血を
「……ッ!」
半精霊であることを疎んだのはこれが初めてだった。ルカから離れたいのに体は言うことを聞かず、メイの意思とは関係なく喉の奥から血に飢えた唸り声が漏れる。ともすれば目の前にいるルカに手を伸ばしてしまいそうで、メイは枕を強く抱き締めて衝動に耐えた。
「……わたしとルカさんは一時的な契約関係なんです。血をもらうことは、できません」
「関係ありませんよ、そんなこと……!」
絞り出すような声は悲痛な響きを帯び、しかしメイを見つめる紺碧の瞳は怒っていた。
「一時的な契約関係だからなんだって言うんですか! 短い間でも僕はメイさんの護衛騎士です。メイさんを心配するのも、役に立ちたい、助けたいって思うのも当然じゃないですか……!」
「でも、」
「でも、じゃない!」
鋭い声にメイは肩を震わせた。こんな風に誰かに怒られたのは久しぶりで――不思議と、嬉しく感じた。それほど、ルカはメイに真剣に向き合ってくれているからだ。
「もう一度言います。僕の血を飲んでください、メイさん。貴女の辛そうな顔なんて見たくないんです。僕の痛みをこれ以上負担しないでください」
真摯な声で告げたルカをメイはじっと見つめた。彼の気持ちは痛いほど伝わっているし、抱き締めたい衝動まで感じている。本当に健気で優しくて――ルカに出会えてよかったと、心の底から思えたからだ。
そんなメイを、ルカは飼い主の帰りを何時間も待ち続ける子犬のような顔で見つめている。メイがずっと無言だから、先程の言葉すらも拒絶されたと思ったのかもしれない。
「メイさんを――大切な人を助けたいだけなんです」
沈んだ声で言うとルカは俯いてしまう。メイは枕から手を離して胸に触れた。今にも千切れそうなルカとの契約の繋がり、その奥がひどく痛む。ルカを傷つけてしまった罪悪感から来る痛みだ。この痛みを残したままフォビドに行くのは、確かに無理かもしれない。メイは覚悟を決めた。
「……わかりました。ルカさんがそこまで言うなら、貴方と正式な契約を結びます」
「本当ですか……!」
勢いよく顔を上げて身を乗り出すルカ。その顔は喜びに輝き、ないはずの尻尾が激しく動いているのが見えるようだったが、不意にルカはメイから顔を逸らした。先程までの喜びは消え、代わりに強い後悔が彼の瞳に宿っている。血を捧げるのが怖くなったのかもしれない。もしそうなら無理強いはしないが――
「……さっきは、怒鳴ってしまって本当にごめんなさい」
メイを真っ直ぐ見つめて謝るルカに、メイは緩く首を横に振った。ルカに声を荒げさせた原因はメイにある。彼が気にする必要は少しもないのだ。
「わたしの方こそ、ごめんなさい。ルカさんは、本気でわたしを心配してくれたのに」
見つめてくる紺碧色の瞳に微笑み、メイはベッドの上を軽く叩いた。
「ここ、座ってください」
「……っ、はい!」
戸惑ったのも一瞬、元気よく返事をすると、ルカはベッドの上に背筋を伸ばして座った。
◇
どうにかメイを説得できたことにルカは喜びを感じていたが、この状況は予想外だった。ベッドの縁にメイと並んで座るのならまだしも、こんな風に向かい合うことになるなんて。どぎまぎする気持ちをどうにか押し隠し、ルカは手首を見た。
メイのように手首に噛みつく。いや、指先をちょっとだけ切って……。メイに血を飲んでもらう方法をあれこれ考えるルカは、ふとメイがじっと一点を見つめていることに気づいた。
首。無意識に手をやり、ルカは寝間着代わりのシャツの襟を引っ張った。
メイがルカの首に顔を近づけてくる。甘い香りと、ほのかな汗の匂いを感じた。
躊躇うように犬歯が――牙が触れ、鋭い痛みと共に沈む。ルカは呻き声を上げた。
大丈夫。すぐに終わる。ルカはそう考えていたのだが……よほどルカの血が気に入ったのか、メイが離れる気配はない。気にしないようにしていたもの――触れ合う熱と柔らかな胸の感触を意識してしまい、じくじくとした痛みが別のものに代わるのをルカは感じた。
これ以上は、まずい。ルカはメイの肩を掴もうとしたが、メイがルカの背中に腕を回す方が早かった。ルカは先程以上にメイに密着することになり、彼女の牙が更に食い込む。痛みはなく、代わりに抗い難い快楽がルカの全身を走った。
甘美な感覚に身を委ねたい衝動に必死に抗う。違う、勘違いするなと何度も自分に言い聞かせる。だがそんな抵抗も虚しく、ルカは頭の芯がくらくらするのを感じた。そうこうしているうちにメイが体重をかけてきてルカの体は簡単に押し倒されてしまう。牙が引き抜かれ、舌が丁寧にルカの首筋を舐めると、ようやく満足したのかメイはゆっくりと上体を起こした。
ルカに跨がったままこちらを見下ろすメイの金瞳はとろんとしており、小さな唇の周りは口紅を乱暴に拭ったように赤く乱れている。漏れ出る吐息は艶めかしく、上気する頬に白銀の髪が張り付いていた。
扇情的なその姿にエフィが最初に言っていた方法を思い浮かべてしまい、ルカは慌ててその方法を頭から追い出す。メイは血を飲んで酔っているだけだ。ブラウスのボタンをいくつか外したのも暑くなったからに違いない。ルカはどうにか心を落ち着けようとしたが、柔らかく豊かな膨らみが作り上げる谷間、そこを伝う汗を見た瞬間今度こそ理性のタガが外れそうに
「い――ッ!?」
苦悩するルカに気づくことなくメイが覆い被さり、再び首に牙を突き立ててくる。先程と違うのは噛まれたのが首の左側で、恐ろしく痛いということだ。このまま噛み千切られるんじゃないか。そう恐怖してしまうほどの痛みだ。
そして先程のような快楽は少しも感じない。それを心のどこかで残念に思う自分がいて、ルカは猛烈な自己嫌悪を感じた。あれは、今すぐにでも忘れるべきなのに。
「メイ、さん……ッ。痛い、痛いです! 離れてください……!」
必死に呼びかけるとメイが顔を上げた。金瞳は絆霊者の血に酔い、しかしその顔はどことなく不機嫌だ。吸血行為を邪魔されたと思っているのだろう。気後れしたのも一瞬、ルカはもう一度痛いですと告げた。
「――? ……、…………!? ご、ごめんなさいッ!」
両目を見開き、メイは大慌てでルカから下りる。彼女は可哀想になるくらい怯えていた。
「本当にごめんなさい! わたし、そんなつもりじゃ……!」
「……大丈夫。大丈夫ですから。落ち着いてください……」
自分にも言い聞かせるつもりでゆっくりと声に出し、ルカは仰向けのまま顔だけをメイに向ける。顔を真っ赤にしたメイは涙目になっていた。ブラウスのボタンが外れたままなことに気づく様子はない。ルカが顔を天井に向けてそのことを指摘すると、メイはわたわたしながらボタンを留めた。
「ごめ……ごめんなさい……。わたし、ルカさんにあんなひどいこと……っ」
どれのことだろう。心の中で首を傾げつつ、ルカはなるべく明るい声を出した。
「血を捧げるって言ったのは僕です。だから、そんなに自分を責めないでください」
でも、とメイは俯いてしまう。ルカは重たい体をどうにか起こした。正式な契約を結んだことによって、絆霊者の代償がルカに戻ってきたようだ。
「メイさんの役に立てて嬉しいです。あ、口を拭かないと……」
眩暈がする。座っているだけなのにルカの体は傾いていき、そんなルカをメイはそっと抱き止めてくれた。
「……ありがとう、ルカさん」
「メイさん……?」
泣き出しそうな声に思わず名前を呼ぶと、メイの指がルカの首の傷をそっと撫でた。彼女の霊光が傷口を優しく塞ぎ、微かに残る痛みも消し去る。ルカはお礼を言ってメイから離れようとしたが、彼女はルカを離そうとしない。不安を感じた子供が、ぬいぐるみを抱き締めるようだった。
血を飲んで気持ち悪くなったのかもしれない。あるいは、正式な契約を結んだ反動で苦しいのか。どちらにせよ、ルカをぬいぐるみ代わりにしてメイが落ち着くのならそうさせるべきだ。幸い、眩暈と倦怠感のおかげでメイの香りも柔らかさもあまり感じない。だが彼女の温かさは心地よく、少しでも気を抜けば眠ってしまいそうだ。
「……メイさん。もし僕が寝ちゃったら、起こしてくれますか……?」
返事代わりに軽く背中を叩かれる。ルカは安心して体の力を抜いた。
少し休むだけ。眠るわけではない。ルカは目を閉じ――結局、そのまま眠ってしまった。
◇
ルカの血を飲んで数分が経った。するとメイの体を苛むあらゆる痛みが完全に消え、今にも千切れそうだったルカとの繋がりが強固なものに変わる。正式な契約が結ばれた証だ。こうなれば正しい手順で契約破棄をしない限り、二人の繋がりを断つことは決してできない。
(……あったかい)
腕の中で眠るルカの体温、そして彼との繋がりがメイの心を温かく満たしていく。このまま一緒に眠ってしまいたい誘惑をどうにか断ち切り、メイはそっとルカをベッドに寝かせた。
ルカの寝顔を見つめる。穏やかで無防備な、あどけない子犬みたいな寝顔だ。寝たら起こしてほしいと言われていたが、こんなにぐっすり眠っているのに起こすなんてできない。メイはルカの頭を撫で、鳶色の髪に指を通した。柔らかく、指通りのいい髪だった。
右手でルカの髪を撫で梳きながら、メイは左手で自身の唇に触れる。ルカの血の香りは、まだ口の中に残っている。血を美味しいと思う日が来るなんてメイは想像したこともなかった。あの味を思い出しただけで喉が鳴り、同時に罪悪感も込み上げてくる。メイがルカの首に噛みついたとき、彼は呻き声を上げていたのだ。メイが血を吸っている最中も痛みに耐えていたに違いない。なのにメイは二回もルカに噛みついてしまった。メイは自らの行いを猛省した。
「ごめんなさい……」
眠っているルカに聞こえるはずがない。彼が起きたら、ちゃんと謝るべきだ。それに、血を捧げてくれたお礼もしなければならない。メイはベッドから下りて浴室に向かった。汗をかいているし、ルカの血の香りが残ったままで、なんだか落ち着かないからだ。
熱いシャワーを浴びながら、メイはルカへのお礼を考えた。




