46句 花雲
……あたたかい。優しい春の匂いがする。
……お兄様?
違う。お兄様は紙やインクの匂いがする。
……朔夜?
違う。朔夜は鉄のような少し冷たい匂いがする。
……漣様?
違う。漣様はもっと甘い香水の匂いがする。
じゃあ、誰だろう。
早く千歳さんのところへ行きたいのに。
「千歳さん……」
「……憩、起きたの?」
あ、千歳さんの優しい声が聞こえる。
「千歳さん……」
「……憩、どうしたの?」
あれ? 変なの。
すごく近くで聞こえる気がする。
これは……夢……?
「千歳さん……」
「……憩、僕はここにいるよ」
「うん……?」
頭が重い……。
私、また寝ちゃったんだ……。
上手に力を使えなかった……。
それどころか、みんなに迷惑かけちゃった……。
「もっと、役に立ちたいのに……」
「……憩は充分頑張ってたよ」
すぐ横で聞こえた声に、思わず顔を向ける。
「……起きた?
よかった、瞳も金色に戻ってるね」
「え、あ、ち……」
「……うん? どこか痛い?」
「だ、大丈夫です……!!」
目の前で優しく微笑む千歳を直視できず、憩はパッと顔を逸らした。
何がどうしてこうなっているの!?
私、千歳さんに抱っこされてる……!!
千歳さんに会えたのが嬉しくて、それからそれから……。
「……ははっ、敬語に戻っちゃった」
「あの、ごめんなさい。下りるから……」
「……下りなくていいよ。疲れてるでしょ?」
「でも、あの……」
「……どうしたの?」
「ち、千歳さんの顔が近いから、緊張するの!!」
憩の大声で、皆の1番後ろを歩いていた千歳に全員の視線が集まる。
憩は朔夜と目が合ったが、ふいっと逸らされてしまった。
「憩、起きたのかい?
寝起き早々、大声は出すものじゃないよ」
「お、お兄様!! 千歳さんがあの……」
「憩が眠ってしまったから、千歳が運んでくれていたんだよ?」
「あ、それは……ありがとう千歳さん……」
「……どういたしまして」
「千歳だと緊張するなら、僕が背負おうかい?」
そんな……。
恥ずかしいけど、今は千歳さんと離れたくない……。
ギュッと、首に回していた腕に思わず力が入る。
「……憩、旭さんに背負ってもらう?」
「嫌……、千歳さんがいい……」
「……わかった。そのまま掴まっててね」
「うん……」
「じゃあ千歳、任せたよ」
「……はい」
旭は2人から離れると、朔夜の隣へと並ぶ。
6人は、再び屋敷に向かって歩みを進めた。
「あー!! やっと着いたな!!
なんか久しぶりに帰ってきた気がしねえ?」
「しねぇよ。数時間しか経ってねぇだろ」
「あの、私も上がっていいんですか?」
「もちろん!! ゆりちゃんも仲間なんだ!
遠慮する必要なんてねえから、ゆっくりしてくれよな!」
「テメェの屋敷みたいに言うんじゃねぇ!!」
6人は相楽の屋敷の前へと到着していた。
中に入らず、玄関扉の前でギャイギャイと騒いでいる。
「ほら、扉は1つしかないんだ。
順番に入ってくれないと後ろが詰まっているよ」
「なら旭から入ってくれ!
お前がいるのに、先には入れねえよ」
「テメェが先陣切ってたんだろが!」
「はいはい、喧嘩しないでね」
ガチャ
扉を開けると和とぼたんが待ち構えていた。
「みなさん、任務お疲れ様でした」
「お兄様、おかえりなさい!
あらあら、いいわねぇ憩ちゃん。
千歳くんに抱っこしてもらったの?」
「お姉様!! あの、これは……!!」
「……憩に無理をさせてしまいました、申し訳ございません」
千歳は憩を抱えたまま、和に深々と頭を下げた。
どんな理由があるにせよ、憩に負担をかけてしまったのは事実だ。
もう2度と、こんな目には遭わせない。
「そんな……、千歳さんのせいじゃないでしょ?」
「憩ちゃんの言う通りね。
本人が望んで戦っているんだもの。
千歳くんが全てを背負う必要はないわ」
「そうだよ千歳。
それよりも、みんなで帰ってくることができてよかったよ」
旭さんも和さんも、僕なんかよりずっとずっと憩を大切に思っているはずなのに。
……やっぱり、相楽の人たちは温かい。
「千歳さん、家まで連れてきてくれてありがとう」
「……どういたしまして。
憩こそ、迎えにきてくれてありがとう」
千歳はそっと憩を下ろす。
帰り道、旭さんから憩の様子は聞いていた。
今は熱が下がったのか、汗も引いている。
苦しそうな様子もない。とりあえず一安心だ。
「そういえば、2人はここで何をしていたんだい?」
「ぼたんちゃんとね、お茶会をしていたのよ!
そしたら漣様の大きな声が聞こえたから、きっと帰ってきたんだわって、待っていたの」
「お茶会? 仕事は?」
「今日はお休みよ。
何? もっと働けって言うの?」
「そんなことは言っていないだろう?
ぼたんを巻き込むなって言っているんだ」
旭は大きなため息を吐く。
ぼたんには、書類の整理や判押しをお願いしていた。
この様子だと、和に邪魔をされてあまり進んではいないだろう。
「いえ、とても楽しかったです」
「本当かい? 和に合わせる必要ないからね」
「まぁ、ひどいわお兄様。
ぼたんちゃんを独り占めするつもりなのね!」
「独り占めも何も、ぼたんには仕事をお願いしていたんだ。
和の相手をしていたら、仕事にならないだろう?」
全く、困った妹だ。
最近は憩も外に出ているから、尚更寂しいのだろう。
だからといって、溜まりに溜まった業務の妨害をされるのは御免だ。
「問題ありません。
仰せつかっていた業務は全て終わっています。
後ほど、ご確認していただけますと幸いです」
「え? 全部終わったのかい?」
「はい。全て終わりました」
「ね? だからいいじゃない」
「全く……。あまりぼたんに迷惑をかけないようにね」
「大丈夫よ、そんなに心配しなくても。
私たち、とっても仲良しなんだから!」
それは和がそう思いたいだけだろうに……。
ぼたんに同意を求める和の姿を見て、旭は再びため息を吐いた。
「そうだ、和。服を貸してほしいんだけれど」
「何? 次はお兄様が着るの?」
「そんなわけないだろう……。
ぼたん、時間がかかってしまってすまなかったね」
漣に背中を押され、ゆりが中へと入ってくる。
「ぼたんちゃん、心配かけてごめんね」
「ゆり!! 無事だったのね!! よかった……」
「ゆり、キミの部屋は明日には用意する。
とりあえず今日は、ぼたんの部屋を使ってくれるかい?」
旭の言葉に、ゆりの表情がパッと明るくなる。
カフェーに戻れ。なんて、旭はそもそも言う気がなかった。
「私、ここにいていいんですか……?」
「当たり前だろ! ゆりちゃんは仲間だ!」
「ありがとう、漣さん!」
「だからここは旭たちの屋敷なんだよ」
「じゃあ、もう夜も遅いから今日は解散。
詳しい話は明日にしよう。みんなお疲れ様!」
白銀の面々は、ようやく緊張から解放された。
翌朝、皆は書斎へと集まっていた。
「……憩、体調大丈夫?」
「うん! 大丈夫だよ、ありがとう!」
隣でニコニコと笑っている。
顔色も悪くないし、朝食もいつも通り食べていた。
……とりあえずは大丈夫かな。
「和も会議に参加するのかい?」
「ダメなの? いいわよね、朔夜くん」
「いや、俺が決めることじゃねぇし」
「じゃあ、いいわね」
「なんでそうなんだよ……」
2人の言葉など気にも留めず、和は朔夜の隣へと腰掛ける。
「ゆりちゃんは俺の隣どうぞ!」
「ありがとう、漣さん!」
「すみません、お待たせいたしました」
「ごめんねぼたん、ありがとう」
皆にお茶を配り終えると、ぼたんも席に着く。
全く、個性が豊かすぎる……。
不在の間にこんなことになっているだなんて、お祖父様も驚くだろう。
「みんな、おはよう。昨日は本当にお疲れ様。
無事、ゆりを助けられた。任務は大成功だね」
「でも、吸血鬼には逃げられました。
せっかく、屋敷までは辿り着けたのに……!!」
「逃げられたというより遊ばれていた、の方が正しいよ。
奴の方が上手だった。それだけのことさ」
「チッ……次は絶対、上手くやります」
「そうだな! 次は絶対倒そうぜ!」
「そのためにも、この紙に書いてある【木の上、柱の陰、光の隙間】の意味も考えないとね」
朔夜の苛立つ気持ちもわからなくはない。
正直、今回逃してしまったのはかなりの痛手だ。
どこかで必ず犠牲者が出る。
なるべく早く見つけるに越したことはない。
まずは、これの意味を解くところからか……。
そして、憩の変化についても調べておきたいところだ。
「あ、そうだ!!
ゆりちゃんて、ゆりちゃんじゃないんだよな!?」
「本名は、浦風 夕梨です!
でも、ゆりの方が呼びやすければそちらでも全然!」
「えー、どうしようかなー!!
どっちで呼ばれたいとかあるか?」
「漣さんならどちらでも……」
「おいおい、マジかよ!!
じゃあ夕梨って呼んじゃおうかなー!!」
「うん! よろしくね!」
なんというか、お似合いの2人だ……。
たった今重い話をしたばかりだというのに、呼び方1つで盛り上がっている。
「あの、お兄様。よろしいでしょうか?」
「どうしたんだい?
何か気になることでもあったかな」
「カフェーはどうなるのですか?」
「店主が罪を認めてね、これからは真面目に働くそうだよ。
もちろん、定期的に調査は入るようだけれどね」
今更悔いたところで、犠牲になった人たちは戻ってこない。
どれだけ腹立たしくても、憎らしく思っていても、特務部隊には人を裁く権限はない。
裁けるのは吸血鬼だけだ。
「では、働いている方々はお仕事が続けられるのですね!」
「うん。
今後は1階だけの営業にして、2階は彼女たちの住まいにするそうだよ。安心したかい?」
「はい! よかったです。住むところもお仕事も失わなくて」
「……憩は優しいね」
女の子たちの今後を知り、安心したのだろう。
嬉しそうにニコニコと微笑んでいる。
見ず知らずの人間に対してそこまで思えるなんて。
本当に、思いやりのあるあたたかい子だ。
「夕梨は、あのカフェーで仕事続けるの?」
「うん。
私は働かないと女学校へも通えないし、ここでずっとお世話になるわけにもいかないでしょ?
2階に住まわせてもらえるなら、住むところにも困らないから安心!
ぼたんちゃんは? 今、どうしてるの?」
「私は旭さんの書記をさせてもらいながら、ここでお世話になってるの。
父さんの入院先も、旭さんたちが見つけてくれたんだ」
「そっか! 本当によかったね!
それに夢まで叶えるなんて、ぼたんちゃんはすごい!」
「ねぇ、夕梨ちゃんは女学校に通いたいのかしら?
それとも、学ぶことを諦めたくはないのかしら?」
2人の会話に、和が唐突に乱入する。
「学ぶことを諦めたくないんです。
1人でも生きていける力が欲しいんです。
私には、帰るところも頼る人もいないから……」
「そんなこと言うなよ! 俺を頼れよ夕梨!!」
「人の屋敷に住んでる奴に、何を頼んだよ……」
漣の発言に、朔夜が呆れたように言葉を返す。
そんな2人の発言に興味を示すこともなく、和は夕梨をじっと見つめた。
「今、夕梨ちゃんはいくつなの?」
「18です!」
「そう。なら文検を目指しましょうか。
空き時間は勉強に使ってもらって構わないから、私の専属になってくれないかしら?」
「和さんの専属……」
「えぇ。あ、私は吉原で芸花魁をしているの!
夕梨ちゃんにお願いしたい主な仕事は揮毫すること。
あとは、私のお部屋のお片付けとか、お話し相手とかかしら」
突然の提案に驚いている夕梨に、和はパチンとウィンクをした。
「和、本気で言っているのかい?」
「もちろん。私が個人的に雇うんだからいいでしょう?」
「でもよー、そしたら俺はいつ夕梨といられるんだ?」
「そこだよな、テメェみたいな奴はよ」
「基本は屋敷にいてもらう予定よ?
もちろん、吉原にも連れていったりしないわ」
「そうか! じゃあ大丈夫だな!」
和さんの専属……。
吉原のトップに立つような人の専属が、私に務まるかな……。
でも、こんな私なんかでも役に立てるかもしれない……!!
夕梨はグッと手のひらを握りしめる。
「和さん、よろしくお願いします!」
「よかった、嬉しいわぁ。こちらこそよろしくね!
あ、私お勉強はとっても苦手なの。
そういう難しい質問は、お兄様か憩ちゃんにしてくれると助かるわ」
こうして、夕梨の今後に関わる問題が、同時に全て解決した。




