20句 春音
ボーン……ボーン……
振り子時計が時間を知らせる。
千歳が時計を確認すると、21時を指していた。
食事を終えてからも、何か得られる情報があるかもしれないと潜入を続けていたが、そろそろタイムリミットだ。
「……今日は帰ろうか」
「そうですね。時間も時間ですし」
千歳の言葉に憩も同意する。
隊服を着ていれば、年齢関係なく仕事だと言えるが、今日は私服だ。
何より潜入している手前、補導なんてされては元も子もない。
「……疲れてない?」
「はい! とても楽しかったです!」
「……そう。それはよかった」
千歳は立ち上がると、伝票を手にする。
「いえ、お支払いは私が……」
憩は伝票を受け取ろうとしたが、その手は千歳によって難なく躱される。
「……いい。僕が払う」
「でも、ほとんど私が食べていますし……」
「……大丈夫。それにこの方が自然だから」
そう言われてしまっては、憩には返す言葉がない。
「……わかりました。ご馳走様です」
「……うん。その言葉だけで充分だよ」
千歳が会計をしている間、憩は上の階にいる朔夜のことを考えていた。
自然と、髪に結んであるリボンに手が伸びる。
「……大丈夫。朔夜だもん」
憩は小さく小さくつぶやく。
「……どうしたの?」
「いえ! ご馳走様でした!」
「……うん、じゃあ帰ろうか」
「ありがとうございました!
どうぞ、またお待ちしております!」
カフェー組の潜入は無事、完了した。
帰り道、憩と千歳は並んで歩く。
「そういえば、千歳さんと漣様はどこにお帰りになっているのですか?」
「……僕たちは宿舎に泊まってるよ。
杣さんは、本部に泊まってるんだよね?」
「はい。朔夜は元々相楽の家にいたので、部屋があるんです」
憩の家である相楽の屋敷は、
1階が書斎や稽古場などがある特務部隊の本部
2階が客間や客室などがある応接スペース
3階が憩たち兄妹の私室などがある居住スペース
と、なっている。
「そうだ!
千歳さんも宿舎ではなく、家で生活しませんか?」
「……急に、何言い始めるの」
「だって、宿舎から来るの大変ですよね?」
「……別に、平気だよ。
宿舎と本部くらいしか行き来しないし」
千歳が元々いた北領は、宿舎と司令部がだいぶ離れていた。
それに比べれば、徒歩15分の距離である今は、近すぎるくらいだ。
「でも、毎日本部に来るのなら、住んだら早いじゃないですか!」
「……何、訳のわからないことを言ってるの」
「部屋も空いてますし、そうしましょう!」
「……ねぇ、お願いだから話を聞いて」
「では早速、宿舎に荷物を取りに行きましょう!」
「……ちょっとストップ」
張り切ってズンズン進む憩の腕を、千歳がパッと掴む。
「あ、すみません……。
そうですよね、みんなで住むの嫌ですよね……」
「……いや、そうじゃなくて。
総司令や旭さんの許可を取らないのは、まずいんじゃない?」
「たしかにそうですね。
では1度、家に寄ってからにしましょう!」
「……いや、そういうことじゃないんだけど。
まぁ、いいやそれで」
憩があんまりにも嬉しそうにするので、千歳も悪い気はせず、合わせることにした。
「ただいま戻りましたー!」
憩が元気に挨拶すると、パタパタと足音が聞こえる。
「憩様、おかえりなさいませ」
「矢桐さん、ただいま戻りました!
お祖父様はお戻りになっていますか?」
「いえ、黄山様はまだお帰りになっておりません」
「そうですか……」
憩は残念そうにつぶやく。
「……じゃあ、あの話は保留だ」
「いえ! お祖父様が不在、お兄様が不在。
そして、お姉様も不在です!」
「……うん。だから保留だね」
「つまり、今この家のトップは私です!」
憩はドヤっと胸を張る。
「……いや、違うでしょ」
「矢桐さん、客室空いていますよね?」
「えぇ。もうずっと、使われていませんから」
「では、千歳さんと漣様のお部屋にしますので、
とりあえず寝床の用意をお願いできますか?」
「……いやいや、勝手にはまずいでしょ」
「大丈夫です!
お祖父様もお兄様も私に甘いので!」
憩はにんまりと笑う。
「かしこまりました。すぐにご用意いたします」
「はい、お願いいたします!
千歳さん、今の間に荷物を取りに行きますか?」
「……ねぇ、さすがにまずいんじゃないの?」
憩の気持ちはもちろん嬉しかったが、
自分のせいで叱られる姿なんて見たくはない。
「大丈夫ですよ!
どうせ空いてる部屋なら、有効に活用するべきだと思いませんか?」
「……それは許可が下りてからするべきことだよ」
千歳がどれだけ正論を並べても、もう憩の耳には入らないのであった。
「荷物、取りに行かなくてよろしいのですか?」
「……うん。
もう時間も遅いし、取りに行くなら明日でいいよ」
「必要な物とか、大丈夫ですか?」
「……うん、特にないし」
結局憩の圧に負けて、
千歳は客間で部屋の用意が整うのを待っていた。
この間に、どちらかが戻ってきてはくれないか、とさえ思っていた。
「今日は、千歳さんのおかげで無事任務を終えられました。
本当にありがとうございました!」
「……ううん、憩のおかげだよ。こちらこそありがとう」
これはお世辞でもなんでもない、紛れもない事実だ。
憩がいたから店主の機嫌がよくなったし、下衆な男たちが常連であることもわかった。
「明日も、潜入するのでしょうか?」
「……どうだろうね。旭さんたちの結果にもよるかな」
正直、向こうの潜入結果は期待できない。
そもそもまだ2回目だ。顔馴染みでさえない。
「そうですか……。任務って大変なんですね」
「……そうだね。地味なことの方が多いよ」
「もっと派手に、日々吸血鬼と戦うものだと思ってました」
憩がつまらなそうにつぶやく。
事実、戦闘なんかよりは情報収集がメインの仕事だ。
「……そんなたくさん出てこられたら、特務部隊だけじゃ処理しきれないよ」
「そうですよね、不謹慎なことを言いました……」
「……憩ってさ、変だよね」
「どのあたりが変でしょう?」
千歳の言葉に憩は首を傾げる。
普通、変だ、なんて言われたら怒るだろう。
もう、既にそこが変なのだ。
「……そういうところ」
「憩様、お部屋の用意が終わりました」
矢桐が部屋の用意を終え、客間へと入ってくる。
「ありがとうございます!
では、千歳さんのお部屋に移動しましょうか」
千歳は憩に連れられ、部屋へと向かうのだった。
「こちらが今日から千歳さんのお部屋です!」
憩に案内された部屋は、とても客室とは思えないほど豪華な作りだった。
広さも十二分にあるし、必要な家具も全て備え付けられている。
「一通りの物は揃っていると思いますが、他に必要な物があれば仰ってください!」
「……いや、十分すぎるくらいだよ」
「そうですか?
過ごしていて不便がありましたら、遠慮せずに仰ってくださいね!」
これで不便なんて言おうもんなら、宿舎の隊士たちに殺されるだろうと千歳は思った。
「模様替えなんかも自由にしてください!
不要な物は処分していただいて構いません」
「……いや、それはまずいでしょ。
ここにあるの、全部高級品だよ?」
「そうなのですか?
私のお部屋にはない物なので……」
それは全て特注品だからでは?
と思ったが、もはや聞くだけ野暮である。
「……とりあえず、部屋ありがとう。
明日以降はどうなるかわからないけど、今日はここを使わせてもらうね」
「明日以降も使ってください!
お祖父様やお兄様は私が説得しますので」
正直千歳には、憩がなぜここまで世話を焼いてくれるのかわからなかった。
ただ、同じチームなだけだ。
それ以上でも以下でもない。
「……どうしてそこまでしてくれるの?」
「私、ずっと憧れていたんです。
誰かと自由に出歩いて、お話して、笑い合って、そんな普通のことがしたいって。
だから白銀のみんなが、私を仲間として迎えてくれて、本当に嬉しいんです。
本当は足手まといだってこと、自分でもわかっています。
そんな私ができるお返しなんて、これくらいですから」
憩はにっこりと微笑みながら伝える。
その言葉の裏に、どれだけ孤独を抱えてきたのだろうか。
旭さんや杣さんの態度を見る限り、並大抵のものではないことは察せる。
「……憩は大切な仲間だよ。
だから、そんなこと言わないで。
これからもよろしくね」
「はい! よろしくお願いします!」
千歳の心の氷が、また少しだけ溶けたような気がした。




