第9話 知らないことを、聞きに行く
目が覚めて、最初に見えたのは天井の隙間だった。
昨日と同じだ。
しばらく、それを見ていた。
自分の部屋ではない。
知っている天井でもない。
それでも、一度眠って起きたことで、見覚えのあるものにはなっていた。
身体を起こす。
「……痛い」
脚が、昨日のことを忘れていなかった。
肩も。
背中も。
寝れば全部なかったことになるほど、この身体は都合よくできていないらしい。
壁際には、二本の剣がある。
やっぱり、夢ではなかった。
昨日は、とにかく寝たかった。
腹が満たされて、寝床があって、それだけで十分だと思った。
今は、その先を考えられる。
考えられるようになると、怖いことも増えた。
あの赤いスライムは、どのくらい珍しかったのか。
草地には、もっと危ないものも出るのか。
そもそも、俺は何を知らずに外へ出ていたのか。
最後の問いが、いちばん嫌だった。
知らないことは、気をつけようがない。
寝台の端に座って、靴を履いた。
今日は、まず話を聞こう。
*
食堂では、マルタがパンを切っていた。
「起きられたね」
「何とか」
「脚は?」
「階段で、相談されました」
「降りるかどうか?」
「はい。途中で帰りたそうでした」
マルタは笑って、卓の上を顎で示した。
「座りな。今日は自分で運ばなくていいよ」
温かい汁物と、パン。
卵も一つあった。
向かいでは、トマが靴の紐と格闘していた。
片方だけ、妙に長い。
「今日もスライム?」
「今日は先生のところ」
「強いの教わる?」
「まず、危ないのを教わる」
トマは顔を上げた。
「強いのじゃなくて?」
「昨日、それを逆にした気がするから」
パンをちぎる。
昨日の俺は、剣を持って、魔法を覚えて、それで少し安心していた。
何ができるかは、確かめた。
何をしてはいけないかは、足りなかった。
マルタが、空いた皿を重ねながら言った。
「リナなら、そういう話も聞いてくれるよ。知ったふりして出ていくより、ずっといい」
「この辺のことも、聞こうと思ってます」
「この辺?」
「町の外とか。ほかの町とか。あと、魔法のことも」
「それは、あたしより先生だね」
マルタは厨房へ目を向けた。
「火がついて、鍋が煮えてくれれば、あたしは十分だから」
ちょうど、厨房の奥から誰かが呼んだ。
マルタは返事をして、そちらへ戻っていった。
俺は汁物を口へ運んだ。
昨日までなら、俺もそれで十分だったかもしれない。
今日は、その火がどうやってつくのかまで、気になっていた。
*
リナは、俺の顔を見るなり言った。
「昨日、何かあったね」
まだ、挨拶しかしていなかった。
「顔に出てます?」
「歩き方にも」
俺は、赤いスライムの話をした。
三匹いたこと。
合体したこと。
火を吹いたこと。
話が進むにつれて、リナの表情から、朝の軽さが消えていった。
「怪我は」
「手当てしてもらいました」
「火は、直接受けてない?」
「たぶん。少し熱かったですけど」
「息をすると痛むとか、咳が出るとかは?」
「それは、ないです」
リナは短く息を吐いた。
「帰ってこられてよかった」
昨日、受付でも言われた。
今朝、もう一度聞くと、その言葉が少し重かった。
「見たことのない魔物なら、引き返す。覚えてる?」
「はい」
「なのに、近づいた?」
「最初は、普通のスライムだと思って……色が違うのは分かってたんですけど」
言いながら、苦しい説明だと思った。
リナも、そこは見逃さなかった。
「次は、その違いで止まって」
「はい」
返事をしてから、俺は続けた。
「今日は、それを聞きに来ました」
「それ?」
「俺が、何を知らないのかです」
リナは少し黙った。
それから、近くの椅子を引いた。
「じゃあ、今日は座って話そうか」
*
最初に教わったのは、町の外のことだった。
道があるからといって、安全とは限らない。
人がよく通る場所でも、時間や季節で事情が変わる。
魔物の姿を覚えるだけでは足りない。
足跡や、荒れた草、急に鳥の声がしなくなったこと。
そういうものに先に気づけると、戦わずに済むことがある。
「昨日の場所は、協会に伝えました」
「それはよかった。ほかの人が近づく前に、調べてもらえる」
リナは卓の上に指を置き、町から草地までの道をなぞるように動かした。
「今のジャズなら、遠くへ行くことより、帰ってこられる範囲を覚えるほうが先だね」
俺は頷いた。
昨日は、行く場所しか考えていなかった。
帰る道も、同じ道だから大丈夫だと思っていた。
脚が動かなくなることまでは、考えていない。
「あと、魔法も聞きたいんですけど」
「うん」
「アマテラスとか、ヤマトタケルって、名前には何か意味があるんですか」
リナの指が止まった。
「意味?」
「どうして、その名前なのかなって」
「古くから、そう呼ばれてるから」
彼女は答えてから、少し考えた。
「……というのが、私の知っている答えかな」
俺は、続きを待った。
けれど、続きはなかった。
「先生でも、知らないんですか」
「使い方なら教えられるよ。でも、誰が最初にその名前で呼んだのかまでは、習わなかった」
リナは、気を悪くした様子もなく言った。
「気になる?」
「かなり」
「私は最初、どうすればちゃんと使えるかのほうが気になったね」
彼女は片手を開いた。
何も出ていない。
ただ、その指先に視線が向いた。
「同じ魔法でも、途中で崩れることがある。力を入れればいいわけでもない。昨日できたことが、疲れてるとできなかったりする」
昨日の、自分の手を思い出した。
何かを出そうとして、うまくいかなかった感覚。
残りの魔力を気にしながら、剣を握り直したこと。
「だから、できなかったら考える。人に聞く。もう一度試す。外で使う人間は、それを放っておけないから」
「町の人は、違うんですか」
「人によるけどね。必要なことができていれば、それ以上は気にしない人も多いよ。私だって、パンが焼けるまでのことを、全部知ってるわけじゃない」
それは、そうだった。
俺も、毎日使っていた道具の仕組みを、全部説明できるわけではない。
ただ、この世界では、分からないものが近すぎた。
自分の身体の中にまである。
「俺は、その先も知りたいです」
「名前の由来?」
「それもです。魔法がどういうものなのかとか。場所が変わっても同じなのかとか」
一つ口にすると、次が出てきた。
「あと、自分のステータスも。何かしたら上がるときがあって、でも、同じことをしても上がらなくて」
リナは俺を見た。
俺は少し、口を閉じた。
聞きすぎただろうか。
「……すみません。一度に」
「いや。私の知ってることだけじゃ、足りなさそうだと思って」
そう言って、彼女は笑った。
*
「三つほど町をたどった先に、国営の図書館があるよ」
図書館。
その言葉だけ、ひどく馴染みがあった。
「本があるんですか」
「図書館だからね」
「ですよね」
間の抜けた聞き方になった。
でも、少し嬉しかった。
知らない世界にも、本を集めて、調べられる場所がある。
「魔法の記録も?」
「あるはず。歴史や、土地ごとの話も。私が昔教わった先生は、調べ物があると、そこへ行ってた」
「ここから、歩いて?」
「その話の前に、脚」
「……はい」
昨日までの俺なら、距離を聞いていた。
今は、途中に何があるかを聞いたほうがいい。
「一人で行ける道ですか」
「今のジャズには勧めない。馬車を探すか、そちらへ向かう人に同行できるか、協会で相談したほうがいいね」
リナは、道中で泊まる場所も必要だと言った。
天気によっては、予定どおり進めないこともある、と。
俺は一つずつ聞いた。
すぐに出発できる話ではなかった。
それでも、図書館のある町は、さっきより少し近く感じた。
場所がある。
行き方も、調べられる。
分からないことを、そのまま抱えているだけではなくなった。
「……あれ」
視界の端に、文字が見えた。
話に集中していたせいで、いつからあったのか分からない。
意識を向ける。
見慣れた表示の中に、一行だけ、見覚えのないものがあった。
【精神 2】
俺は、そこを見直した。
筋力。
耐久。
敏捷。
器用。
魔力。
その下に、精神。
昨日、こんな項目はあっただろうか。
少なくとも、読んだ覚えはない。
「どうした?」
「いえ。表示が、少し」
増えた、と言いかけて止まった。
数値が上がったのか。
項目が増えたのか。
それとも、今まで見えていなかったのか。
どれなのか、自分でも分からなかった。
「具合が悪い?」
「それは、大丈夫です」
表示を閉じる。
もう一度だけ開いてみたが、その一行は残っていた。
精神、二。
それだけでは、何も説明してくれない。
聞きたいことが、一つ増えた。
*
話を終えて立ち上がると、脚は相変わらず痛かった。
長く座っていたぶん、最初の一歩はむしろつらい。
「今日は剣を振らなくていいですか」
「その歩き方で振るつもりだった?」
「一応、聞いておこうかと」
「今日は休む。食べて、寝る。傷も見てもらう」
「分かりました」
扉のところで、振り返った。
「また、聞きに来てもいいですか」
「答えられることならね」
「答えられないことは?」
「一緒に、聞く相手を考えよう」
俺は礼を言って、外へ出た。
町は、昨日と同じように動いていた。
荷物を運ぶ人がいる。
店先で値段を聞く声がする。
道の端では、石壁の欠けたところを職人が埋めていた。
通り過ぎかけて、その手元に目が止まった。
どんな材料を使っているのだろう。
石は、どこから運んでくるのだろう。
聞きかけて、やめた。
職人は今、両手がふさがっている。
俺には、休めと言われた脚がある。
何でも、今日中に知る必要はない。
まずは宿へ戻ろう。
午後になったら、協会で図書館の町へ向かう馬車のことを聞けばいい。
行くかどうかを決めるのは、そのあとだ。
角を曲がると、マルタの宿の看板が見えた。
昼には、まだ少し早い。
でも、厨房からはもう匂いがしていた。
朝、あれだけ食べたのに、腹が空いている。
俺は歩く速さを少しだけ上げて、すぐに後悔した。
脚は、まだ相談の途中だった。




