第8話 『銀貨の重さと、長い一日』
協会の扉が、行きより重く感じた。
押せば開く。
それは分かっている。
でも、押すための腕が、もう働きたがらなかった。
何とか中へ入ると、掲示板の前から声が聞こえた。
「明日の採集、あと一人」
「朝は無理だ。昼からなら」
出るときと、あまり変わっていない。
俺だけが、ずいぶん遠くへ行ってきた気がした。
受付の女性が顔を上げた。
「お帰りなさい。……大丈夫ですか?」
たぶん、最初に聞くべきことが顔に出ていたのだろう。
「帰っては、来ました」
「お怪我は?」
「ひどいのは、ないと思います。ちょっと、脚が」
立っているだけで、膝が頼りない。
彼女はすぐに椅子を勧めてくれた。
「どうぞ、こちらへ」
座る。
それだけで、かなり助かった。
腰の袋を外し、台の上に置いた。
口を開けて、中身を出す。
最初に拾った青いコア。
それから、赤いものが三つ固まったような、不格好な塊。
戦いのあと、赤いコアは互いに癒着したまま残っていた。
一部が欠けていたが、割らずに持ち帰った。
受付の女性が、赤いほうを見た。
手が止まった。
「……これ、どちらで?」
「南の草地です。畑の脇から、そんなに離れてないところで」
彼女は小さな布を敷き、その上へ赤いコアを移した。
「少々お待ちください」
奥から別の職員が来た。
二人で、コアを見る。
光に透かす。
何かを確かめる。
俺は椅子の上で、背筋を伸ばした。
持ち込んではいけないものだっただろうか。
やがて、女性が戻ってきた。
「融合した希少個体ですね。こちらを討伐されたんですか?」
「倒したというか……倒すしかなくなったというか」
「お一人で?」
「はい。小さいのが三匹、合体して。火を吹いてきて」
思い出すと、背中が熱くなった気がした。
「やばすぎませんか、この世界」
口に出してから、説明になっていないと思った。
彼女は、笑わなかった。
「通常の小型スライムとは、危険度が違います。ご無事で何よりでした」
それを先に聞きたかった。
ただ、リナは言っていた。
見たことのない魔物がいたら引き返せ、と。
色が違うことには、俺も気づいていた。
「……次から、違うのを見たら戻ります」
「そうしてください。出現場所は、こちらでも確認します」
女性は俺に草地の場所を聞き、紙に書き込んだ。
それが終わると、今度は別の紙を差し出した。
「買い取りですが、青いコアが銅貨二枚。赤い融合核は、欠けた部分を差し引いて銀貨二十枚になります」
「……二十?」
聞き返した。
「はい。希少な素材ですので」
「銀貨、ですよね」
「銀貨です」
普通の食事が、銅貨二枚。
銅貨十枚で、銀貨一枚。
銀貨二十枚。
頭の中で計算して、途中でやめた。
今は、算数より先に驚きたい。
「大きいですね」
「ええ。ただ、同じ報酬を目当てに、もう一度探しに行くのはお勧めしません」
「行かないです」
返事だけは、今日いちばん速かった。
*
硬貨は、思っていたより重かった。
袋の中で、銀貨が触れ合う音がする。
道を歩きながら、何度か袋の口を確かめた。
さっきまで空だったものが、急に気になる荷物になっている。
剣を二本も下げた男が、小銭袋を何度も触っている。
あまり、堂々とした冒険者ではない。
それでも、マルタの宿の看板が見えたときは、心底ほっとした。
食堂から、匂いがした。
煮込みだろうか。
焼いた肉の匂いもする。
腹が鳴った。
生きて帰った途端に、身体が次の要求を始めていた。
扉を開けると、トマが皿を運んでいた。
「あ、お帰り」
その声で、厨房からマルタが顔を出した。
俺を見る。
腰の剣。
革の防具。
土と煤のついた靴。
そして、顔。
「何してきたんだい」
責める声ではなかった。
ただ、言い訳を長くする気にはなれなかった。
「スライムを、倒しに」
「スライムで、そんな顔になるのかい」
「俺も、ならないと思ってました」
マルタは近くの椅子を引いた。
「座りな」
協会でも、同じように勧められた。
今日は、椅子に助けられてばかりだ。
俺は袋を取り出し、銀貨を一枚、台の上に置いた。
「ごはんと、泊まりをお願いしたいんですけど」
マルタが硬貨を見た。
「今日の泊まり賃は、働いた分でもらってるよ」
「あ、はい。そうでした。ありがとうございます」
今朝の鍋と、皿洗いを思い出した。
ずいぶん前のことに感じる。
でも、同じ一日だった。
「じゃあ、明日からの分で。しばらく、ここに置いてもらえませんか」
袋から、もう何枚か出す。
マルタの眉が動いた。
「待ちな。いくら払うつもりだい」
「まだ、値段を聞いてなかったです」
「金が入った日に、それをやるんじゃないよ」
もっともだった。
経営していた記憶があっても、疲れていると買い物の順番を間違えるらしい。
「食事込みで、しばらく泊まるなら、一か月で銀貨十五枚。今の部屋でよければね」
「一か月」
俺は硬貨を数え直した。
十五枚。
残りは、銀貨五枚と銅貨二枚。
次の講習費も、残せる。
「お願いします」
銀貨をそろえて置いた。
マルタはもう一度、俺の顔を見た。
「これなら、一か月は泊まり賃のために働かなくていいよ。三度の飯も出す」
「……よかった」
声にすると、肩から力が抜けた。
明日の朝、どこで起きるか。
明日、何を食べるか。
それを、今すぐ心配しなくていい。
銀貨十五枚で買えたのは、部屋と飯だけではなかった。
「ただし、食べる時間に寝てたら、呼ぶからね」
「お願いします」
「まず手を洗っておいで。それから傷を見せな」
トマが、水の入った桶を運んできた。
「本当にスライムだけ?」
「最初は」
「最初は?」
そこから説明するには、俺の腹が限界だった。
「飯を食べながらでも、いい?」
「うん。今日の煮込み、まだあるよ」
それは、今日聞いた中でもかなりいい知らせだった。
*
剣と防具を外すと、身体が軽くなった。
手当ては、少ししみた。
手のひらには新しい擦り傷。
肘にも、土で汚れた傷がある。
マルタは煤を拭き、赤くなったところを確かめてから、必要な場所へ布を当てた。
「たいした怪我じゃなくてよかった。でも、疲れてるときに自分で大丈夫だって決めるんじゃないよ」
「はい」
今日は、返す言葉が少ない。
そのあとに出てきた煮込みは、温かかった。
匙ですくう。
口へ運ぶ。
うまい。
さっきまで、炎を避けることしか考えていなかった。
今は、豆が柔らかいことに、ちゃんと気づける。
トマに戦いの話をすると、合体したところで目を丸くした。
「火も?」
「吹いた」
「スライムが?」
「俺も、そう聞き返したかった」
マルタが、パンを置いた。
「それで、明日も行くのかい」
「明日は、まず先生に相談します」
二人とも、それがいいと言った。
俺も、心からそう思った。
*
部屋へ戻ったころには、窓の外が暗くなっていた。
二本の剣を、鞘に入れたまま壁際へ置く。
銀貨の袋は、しまった場所をもう一度確かめた。
寝台に腰を下ろす。
今日は、朝から何をしただろう。
鍋を運んだ。
皿を洗った。
荷車を止めた。
自分の名前と、身体と、この世界のことを考えた。
双剣士になって、魔法を習った。
スライムを倒しに行って、死ぬかと思った。
そして今、ようやく寝られる。
身体を倒しかけて、思い出した。
「……選択」
忘れていたわけではない。
後にすると決めて、その後が今になった。
ステータスを開く。
レベルは、二。
魔力も、筋力も、朝とは数字が違っている。
ただ、増え方は同じではなかった。
鍋を運んだときは、筋力だけ。
魔法の練習では、魔力が上がった。
戦いのあと、レベルが上がると、いくつかの数字がまとめて変わっていた。
レベルで伸びる分と、何かをして個別に伸びる分。
両方あるのだろうか。
同じことをしても、上がるときと上がらないときがある。
法則が分かった、とは、まだ言えない。
俺は表示の下へ意識を向けた。
【習得技能 3/3】
【次の成長段階を選択できます】
その文字に触れるつもりで、続きを見ようとする。
新しい項目が開いた。
【成長方向を選択してください】
【剣技鍛錬】
武器を用いた技能の習熟を補助する。
【魔力制御】
魔力の形成と維持の習熟を補助する。
【技能接続】
異なる技能を結びつける操作の習熟を補助する。
俺は、三つを読み直した。
剣。
魔法。
それから、組み合わせ。
職業を選んだときとは、少し違う。
何になるかではなく、これから何を伸ばしていくか、ということらしい。
説明の続きを確かめる。
【選択した方向以外の技能も、引き続き習得・使用できます】
【選択だけで技能が完成するものではありません】
「……練習は、必要と」
そこは、親切に書いてあった。
剣技鍛錬は、気になる。
俺は剣を二本持ったが、基本も分かっていない。
魔力制御も、必要だった。
アマテラスは失敗したし、残りのMPが少ないまま戦えば危なかった。
それでも、何度も目が戻るのは、三つ目だった。
技能接続。
スライムの身体に、剣が止まった感触を思い出す。
〈力の誘導〉で、引く向きを変えた。
剣へ魔力を流して、〈双刃連撃〉の動きと重ねた。
どれか一つだけだったら、どうなっていただろう。
考えたくない答えが、すぐ浮かんだ。
別々に覚えたものが、つながった。
あのとき、助かったのは、それだった。
だったら、その感覚を、次も使えるようにしたい。
偶然、できた。
必死だったから、できた。
それだけでは、次が怖い。
「技能接続」
そう意識すると、確認の文字が浮かんだ。
【成長方向〈技能接続〉を選択しますか】
もう一度、説明を読む。
それから、選んだ。
【成長方向〈技能接続〉を選択しました】
胸の奥に、かすかな温かさがあった。
剣が勝手に動くことも、知らない魔法が次々浮かぶこともなかった。
それでよかった。
今夜、これ以上何か始まったら、さすがに困る。
表示を閉じる。
寝台に身体を倒した。
天井の隙間は、暗い。
朝と同じ部屋なのに、今は戻ってきた場所に見えた。
知らないことは、まだ山ほどある。
自分が誰なのか。
なぜ、別の世界の記憶があるのか。
魔法の名前は、どうして知っているものばかりなのか。
考え始めれば、眠れなくなりそうだった。
だから、今は順番を決めた。
明日、考える。
明日も、この部屋で起きられる。
飯もある。
それで、今日は十分だ。
廊下の向こうで、食器を重ねる音がした。
誰かの足音。
マルタの、短い話し声。
俺は目を閉じた。
長い一日だった。
本当に、長かった。
ようやく終わったのだと思ったところで、眠りが来た。




