第2話 ここはどこ?
「行くのは、腹に何か入れてからにしな」
通りの向こうへ向きかけた俺を、マルタが引き戻した。
「その手で剣なんか握ったら、夕方には匙も持てなくなるよ」
手のひらを見ると、皮がむけていた。
見た途端、痛みがはっきりした。
さっきまでは、そんな余裕もなかったらしい。
食堂の椅子に座ると、トマが深皿を運んできた。
肉と豆の煮込みに、厚く切ったパン。
「熱いからね」
「鍋を運んだから知ってる」
「そっか」
トマが少し笑った。
俺も笑って、匙を持った。
一口食べる。
塩気と、煮崩れた豆の甘みがした。
腹に温かいものが落ちていく。
そこで、ようやく思った。
待て。
俺は、何をしているんだ。
*
ついさっきまで、戦い方を習うつもりになっていた。
荷車が迫ってきて、身体が動いて、文字が出た。助かった。少し強くなった。
その勢いで、次のことまで決めようとしていた。
だが、昨日まで俺が握っていたのは剣じゃない。
鋏だ。
美容室の予約表を見ていた。
明日は休みだと思った。
そこまでは、覚えている。
そのあと、店を出たか。
車に乗ったか。
家に帰ったか。
思い出そうとすると、そこで途切れる。
事故の記憶も、誰かに呼ばれた記憶もない。
眠ったのかどうかさえ、はっきりしなかった。
匙を置いた。
窓の外では、木の車輪が石畳を鳴らしている。
向かいの建物には、見慣れない文字の看板。
歩く人の服も、街並みも、外国の古い映画みたいだった。
それなのに、会話には困っていない。
「マルタ」
「今度は何だい」
「俺が倒れてたとき、近くに誰かいた?」
マルタは布を水に浸す手を止めた。
「私が見つけたときは、あんた一人だったよ」
「物音とか、変わったことは?」
「裏口を開けたら、人が転がってた。それで十分変わってるけどね」
それはそうだ。
「……その前のことが、うまく思い出せなくて」
マルタは俺の顔を見た。
さっきまでの勢いで何か言いかけて、やめた。
「頭も打ったのかい?」
「痛くはないんだけど」
「無理に歩き回るんじゃないよ。まず、その手を出しな」
差し出した手を、濡らした布が拭った。
しみる。
夢なら、そこまで丁寧にしなくていい。
傷のないところを見る。
指の付け根に、長年あったたこがない。
手首の古傷もない。
俺の手は、こんなに若くなかった。
記憶が抜けているだけでは、説明がつかない。
「ジャズ、こっちの手も」
呼ばれて、反射的に顔を上げた。
その名前もだ。
俺は、別の名前で生きていた。
なのに今朝は、聞かれるままにジャズと答えた。
今も、自分が呼ばれたとわかる。
他人の服を着せられたつもりでいたら、ポケットの位置まで知っていた。
そんな気味の悪さがあった。
*
手当てが終わり、マルタが厨房へ戻った。
俺は食べかけの煮込みを見つめた。
ここがどこか。
どうやって来たのか。
この身体は何なのか。
考えることが多すぎる。
せめて、確かめられるものから確かめたい。
さっきの文字。
あれは、もう一度見られないのか。
荷車のあとに出た、自分の名前を思い浮かべた。
レベル1。習得技能、1/3。
その続きを見ようと、意識を向ける。
視界の端に、薄い枠が浮かんだ。
「……出るのかよ」
今度は、短い通知ではなかった。
【ジャズ】
【レベル 1】
【HP 18/24】
【MP 8/8】
【筋力 7】
【耐久 6】
【敏捷 8】
【器用 28】
【魔力 4】
【習得技能 1/3】
【〈力の誘導〉】
【固有能力】
【〈万象の編み手〉】
【詳細を閲覧する条件を満たしていません】
俺はゆっくり匙を置き直した。
名前の次に、知らない言葉が並んでいる。
いや、見覚えはある。
ゲームでなら。
HPは体力だろうか。
減っているのは、手の傷のせいか、鍋と荷車でへばったせいか。
MPが魔法に使うものだとしたら。
魔法。
煮込みの湯気の向こうで、厨房の火が揺れた。
急に、知らない場所へ来たという実感が重くなった。
しかも、器用だけ高い。
他が一桁なのに、そこだけ二十八。
包帯の巻かれた指を、一本ずつ曲げる。
鋏を動かす感覚は思い出せる。櫛で髪をすくい、指で挟み、長さをそろえる手順も。
若返ったらしい手に、仕事の感覚は残っていた。
これが数値に出ているのか。
そう考えると、少しだけ腑に落ちた。
もちろん、二十八がこの世界で高いのかは知らない。
厨房のトマが五十だったら、俺はただの早とちりだ。
筋力は、今日二回上がった。
それで七なら、最初は五だったことになる。
鍋が重かったのも、無理はない。
ただし、鍋を何回持っても上がらなかった。
皿を速く洗っても、何も起こらなかった。
何をすれば成長するのか、わかったつもりになるには早い。
視線を下へ移す。
〈力の誘導〉。
荷車の向きを変えたときに出た名前だ。
あの動きを、次もできるということか。
名前がついただけで、練習が要らなくなるとは思えなかった。
その下。
〈万象の編み手〉。
ずいぶん大きく出た。
俺は今、包帯のせいでパンをちぎるのにも苦労している。
意味を知ろうとしても、表示は変わらなかった。
条件とは何か。その説明もない。
習得技能は一つ。
固有能力は別の欄にある。
違いがあるらしい、ということしかわからない。
結局、確かめる前より疑問が増えた。
*
「冷めちまうよ」
マルタの声で顔を上げた。
「難しい顔して、豆をにらんでるけど」
「豆より、もう少し大きい問題で」
「腹が減ってると、何でも大きくなるもんさ」
言われて、残りを口に運んだ。
うまかった。
こんな状況でも飯はうまいのかと思うと、少しだけ肩の力が抜けた。
「さっきの、剣と盾の建物。あそこは何をするところ?」
「冒険者組合だよ。仕事の仲立ちや、街道の情報なんかを扱ってる。剣の扱いを教える人間もいる」
「街の外のことも、聞ける?」
「道や村のことならね。どこか行きたいのかい?」
答えようとして、止まった。
帰りたい場所はある。
だが、地名を伝えて通じるのか。
そもそも、道がつながっている場所なのか。
「まず、自分がどこにいるのか知りたい」
マルタは何も笑わなかった。
「ここはベルカの街だよ。それも覚えてないのかい」
「……聞き覚えがない」
口に出すと、胸のあたりが冷えた。
マルタは少し考えてから言った。
「組合で地図を見せてもらいな。何か思い出すかもしれない。受付には私の宿から来たって言えばいい」
「助かる」
「わからない書類には、すぐ名前を書くんじゃないよ」
急に、知っている種類の注意になった。
それは覚えておこう。
*
空になった皿を重ね、立ち上がった。
いきなり強くなって、何でもできる気がしたわけではない。
荷車は止められなかった。
今も手は痛い。
ただ、目の前で数字が増えて、自分にも何かできると思った。
それが、この場所のことまでわかったような気にさせていた。
実際には、街の名前を一つ知っただけだ。
帰る方法を探すにしても、ここで暮らすにしても、まず知る必要がある。
金のこと。仕事のこと。街の外で、何に気をつければいいのか。
そのうえで、身を守る方法を覚えたい。
「行ってくる」
「暗くなる前に戻りな」
マルタが、洗った皿を拭きながら言った。
戻る先がある。
そう思えただけで、外へ出る足が少し軽くなった。
通りを渡る。
剣と盾の看板が、風に小さく鳴った。
扉の前で、一度だけ自分の手を見た。
包帯の下にあるのは、知らない若者の手だ。
それでも、何を確かめるかを決めるのは俺だった。
まずは、話を聞こう。
俺は石造りの建物の扉を押した。




