閑話 弟の見ていたもの(ユリウス)
クロの見せてくれるビジョンは、いつも少しだけ、上から見下ろしている。
鳥の目だからだ。屋根の上や、木の枝や、窓の桟から見たものが、僕の頭の中に、ぱっと浮かぶ。音はない。匂いもない。ただ、見たままの景色だけがある。クロが目で見たものを、そのまま僕に見せてくれる。それを、僕はビジョンと呼んでいる。
はじめてそれが見えたのは、十一の冬だった。浄化の仕事から帰った晩、熱で動けなくて、クロを胸にのせて眠った。夢の中で、僕は空から屋敷を見下ろしていた。厩舎の屋根。台所の煙突。それから、裏庭の井戸端で、袖をまくって腕を洗っている姉さん。
姉さんの左腕には、赤い傷があった。
その日の朝、兄上が稽古で、同じところを切っていた。
次の晩、姉さんの袖をそっとまくって確かめたら、本当に傷があった。それで、僕は知ってしまった。
姉さんは、兄上の傷を、半分、代わりに受けている。
「誰にも言わないで。若様にも」
あのときの姉さんの顔を、僕は今でも覚えている。怒っているのでも、困っているのでもなかった。お願い、という顔だった。姉さんがあんな顔をするのは、あとにも先にも、あの一度きりだ。
だから、言わなかった。今も、言っていない。
兄上は、姉さんのことを、よく切れる剣か何かだと思っている。朝の着替えを手伝わせて、茶を運ばせて、「ああ」と「置いておけ」しか言わない。
僕は、それが嫌いだった。
姉さんは、毒の沼から帰ってきて熱を出した僕の額に、一晩じゅう冷たい布をのせてくれる人だ。僕を狙った刺客の前に、何も言わずに立ってくれる人だ。僕の部屋の窓が夜中に開いたとき、僕が目を覚ますより先に、もう姉さんが窓の前にいた。
兄上は、そういうことを何ひとつ知らない。知ろうともしない。
ヴェロニカ様が屋敷に来たのは、冬薔薇がいちばん赤い日だった。
きれいな人だった。昼食のあいだ、僕の弓の話をにこにこ聞いてくれた。
「すごいわ、ユリウス様。かわいい弟ができるなんて、うれしい。私のことも、お姉さまって呼んでくださる?」
白い指が、僕の髪を撫でた。いい匂いがした。
でも、なぜだろう。その指は、冬の井戸の水みたいに冷たかった。
僕が黙っていると、ヴェロニカ様は首をかしげて、兄上に笑いかけた。
「あら、照れているのね」
「人見知りなんだ。気にしないでくれ」
兄上は、あんな顔で笑うんだと、僕はそのとき初めて知った。
姉さんは、兄上のうしろで、いつものように黙って立っていた。
その夜、クロが、僕の部屋の窓を嘴で叩いた。
窓を開けると、クロは僕の肩に飛びのって、頬に頭をこすりつけた。浄化の力を少し流してやる。クロの羽が、ふっと温かくなった。
それから、ビジョンが来た。
父上の書斎だった。窓の外の、楡の枝から見下ろした景色。
机の前に、淡い緑のドレスの人が立っている。金色の髪。机の右の引き出しが開いていて、その人の手が、奥の小箱に伸びている。
小箱の中の銀色のものを、その人は取り出した。胸もとから、小さな銀の飾りを外して、それを銀色のものに押し当てた。
それから、赤い蝋。手紙。
最後に、その人は窓のほうを振り向いた。楡の枝のクロと、目が合った。
笑っていた。口の端だけを、すうっと持ち上げて。
ビジョンは、そこで消えた。
僕は、しばらく窓の前に立っていた。手が冷たくなっていた。
あれは、ヴェロニカ様だった。父上の書斎で、父上の印章を使っていた。昼間、僕の髪を撫でた、あの指で。
次の日の朝、僕は兄上の部屋へ行った。
兄上は、窓際で北の報告書を読んでいた。姉さんは、いなかった。台所で毒見をしている時間だった。
「兄上。ヴェロニカ様が、昨日、父上の書斎で」
「ユリウス」
兄上は、報告書から目を上げなかった。
「アマリアに、何か吹きこまれたか」
「違う。僕が見たんだ」
「お前は、昨日はずっと庭で弓を引いていただろう」
クロが見せてくれた、とは言えなかった。言えば、姉さんの秘密まで話さなければならなくなる。クロと話せることを知っているのは、姉さんと僕だけだ。兄上は、クロのことを、よく働く使い魔だとしか思っていない。
「でも、兄上。印章に、銀の飾りを押し当てて」
「くだらない」
兄上は、ようやく僕を見た。薄い青の目が、少しだけ濃くなっていた。怒っているときの色だった。
「さっきはアマリア、今度はお前か。影に懐いて、影の真似をして、告げ口か」
「告げ口じゃない」
「なら、何だ。あの人は、お前の髪を撫でて、弟ができてうれしいと言ってくれた人だぞ。その人を、盗人扱いするのか」
兄上は報告書を机に叩きつけた。紙が一枚、床に落ちた。
「お前まで、あの人を悪く言うのか。子どもの見間違いで、縁談に泥を塗るな。二度と、あの人の名前をそんな口で出すな。下がれ」
僕は、落ちた紙を拾わずに、部屋を出た。
廊下の窓から、庭が見えた。冬薔薇の小道を、姉さんが歩いていた。黒い革の手袋をはめた手で、枯れかけた花を一輪ずつ摘んでいる。
姉さんも、たぶん、何か気づいている。昨日の昼から、ずっと書斎のほうを気にしていた。
でも、姉さんが兄上に何か言ったとしても、兄上はきっと、同じように「下がれ」と言うのだろう。
僕は、肩のクロに小さく言った。
「姉さんを、守ってあげて」
クロは、黒い目で僕を見て、一度だけうなずくように首を振った。
それから三日、何も起きなかった。
四日目の明け方、僕は、ビジョンで目を覚ました。クロは姉さんの部屋にいるはずなのに、眠っている僕の頭の中に、急に景色が浮かんだ。屋敷の屋根の上から見下ろした景色。霧の向こうに、松明の列。何十も、何百も。
王家の旗だった。
門が破られる音がしたのは、その次の瞬間だった。
寝間着のまま扉を開けると、もう、姉さんが廊下を駆けてくるところだった。
「部屋から出ないで」
それだけ言って、姉さんは僕の前を走り抜けていった。兄上の部屋のほうへ。
いつだって、姉さんがまっすぐ走っていくのは、兄上のところだ。
廊下の向こうで、兄上の声がした。
「下がっていろ」
姉さんは、下がらなかった。
開いた窓から、クロが飛びこんできた。僕は、その小さな体を両手で抱きしめた。




