第6話 盗まれた印章
夜会のあと、私は誰にも何も言わなかった。
見たのは、垣根の向こうの一場面だけだ。腰に手がまわっていた。額を寄せていた。言われたことはちゃんとやる、と笑っていた。それだけで、侯爵令嬢を疑うことはできない。影の言葉ひとつで、両家の縁談が壊れることもある。
それに、あの方の笑った顔を、私は見てしまっていた。
十日後、ヴェロニカ様が伯爵家を訪ねてきた。
縁談の顔合わせだった。伯爵様と奥様が玄関まで出迎え、ジークベルト様は朝から三度も襟を直させた。ノエラに教わったとおり、私が襟のボタンを一つ外しておくと、あの方は鏡の中の自分を見て、黙ってボタンを留めなおした。
「今日は外すな。だらしなく見える」
「かしこまりました」
鏡の中のあの方は、私ではなく、窓の外の門のほうばかり見ていた。
玄関の前には、使用人が一列に並んだ。小間使いたちが、浮き足立ってささやきあっている。
「侯爵家のお嬢様、王都でいちばんの美人なんですって」
「若様、昨夜は眠れなかったらしいわよ。灯りが朝までついてたもの」
「影のアマリアは、どんな顔をするかしらね。いつも若様のうしろにくっついてるけど」
「人形に顔なんてないわよ」
くすくす笑いが、私の耳の横を通り過ぎていった。
「本日はお招きいただいて」
馬車から降りたヴェロニカ様は、淡い緑のドレスを着ていた。瞳と同じ色だった。出迎えの使用人の列の端に、私も立っていた。
ヴェロニカ様は、奥様に優雅に膝を折り、伯爵様に微笑み、ジークベルト様に頬を染めてみせた。使用人の列の前をゆっくり歩きながら、一人ひとりに「よろしくね」と声をかけていく。小間使いたちが、うっとりとため息をついた。
列の端で、足が止まった。
「あなたが、若様の影?」
「はい」
ヴェロニカ様は、私の顔をのぞきこんだ。甘い花の香りがした。
それから、私にだけ聞こえる声で、ささやいた。
「夜の庭は冷えるでしょう。風邪をひかないようにね」
息が止まった。
顔を上げたときには、ヴェロニカ様はもう奥様に笑いかけていた。
「素敵なお屋敷ですのね。北の方のお屋敷は、もっと武骨なのかと思っていましたわ」
昼食は和やかに進んだ。ヴェロニカ様はよく笑い、伯爵様の北の戦の話にも、ユリウス様の弓の自慢にも、楽しそうに相づちを打った。ユリウス様は十三になり、少し背が伸びて、客の前では行儀よくしていた。
「ジークベルト様は、子どものころはどんな方でしたの?」
「無愛想な子でしたよ。木ばかり彫って」
奥様が笑うと、ヴェロニカ様は手を叩いた。
「まあ、木彫り! 今度、私にも何か彫ってくださる?」
「何がいい」
「そうね。小鳥がいいわ」
私は給仕の手を止めなかった。懐の中で、尾の粗い小鳥が、少しだけ重くなった気がした。
食事のあと、一同は庭へ出た。
私は主の後ろについて歩いた。冬薔薇の咲く小道を、ジークベルト様とヴェロニカ様が並んでいく。
しばらくして、ヴェロニカ様が足を止めた。
「ごめんなさい、少し化粧を直してきますわ」
侍女を連れて、屋敷の中へ戻っていく。
私は、その背中を目で追った。
化粧を直す部屋は、玄関の脇にある。けれど、侍女だけが玄関のほうへ曲がり、ヴェロニカ様はひとりで奥の廊下へ入っていった。
奥の廊下の先にあるのは、伯爵様の書斎だ。
「アマリア。何をしている」
ジークベルト様の声で、私は前を向いた。
「失礼いたしました」
「客人の背中をじろじろ見るな。品がない」
四半刻ほどして、ヴェロニカ様は庭へ戻ってきた。頬に、薄く紅がさしなおされていた。胸もとで、小さな銀の飾りが揺れていた。
「お待たせしてしまって。迷子になりかけましたの。こちらのお屋敷は、廊下が多いのね」
「案内をつければよかったな」
「いいえ、楽しかったわ。探検みたいで」
ヴェロニカ様は、私のほうを見なかった。一度も。
あとで小間使いから聞いた。奥の廊下で奥様と行き合ったヴェロニカ様は、伯爵様あての奥様の手紙を書斎の机へ届ける役を、自分から買って出たのだという。書斎の鍵は、奥様が渡していた。
「やさしいお嬢様よねえ。わざわざ奥様の手間を省いてくださって」
その夜。
屋敷が寝静まってから、私は書斎へ向かった。
扉の鍵は、昼間のうちに伯爵様がかけたままだった。影は、主の家の鍵の場所をすべて知っている。私は燭台を手に、中へ入った。
伯爵様の机の右の引き出し。その奥に、伯爵家の印章を納めた小箱がある。
印章とは、家の当主だけが使える判のことだ。蝋に押せば、その手紙が伯爵家の正式なものだという証になる。伯爵家の名で戦を始めることも、終わらせることもできる。だから、この小箱は鍵のかかる引き出しの、いちばん奥にしまわれている。
机の後ろの窓ガラスに、燭台を持った私が映っていた。灰色のお仕着せのドレスにエプロン。うなじの紐の結び目を指で確かめてから、引き出しを開けた。
小箱は、いつもの場所から指一本ぶん、手前にずれていた。
ふたを開ける。印章はあった。銀の柄の先に、伯爵家の紋章である雪狼が彫られている。
燭台を近づけて、私は手を止めた。
雪狼の溝に、赤い蝋が、ほんのわずかに残っていた。
伯爵様は几帳面な方だ。印章を使ったあとは、必ず柔らかい布で溝まで拭う。それに、今日は一日、客の相手をしていて、書斎で手紙を書く暇などなかったはずだ。
私は小箱を元の位置に戻し、引き出しを閉めた。
翌朝、私はジークベルト様の書斎の前に立った。
「入れ」
あの方は、北の領地から届いた報告書に目を通しているところだった。
「若様。お耳に入れたいことがございます」
「手短に話せ」
私は話した。昨日の昼、ヴェロニカ様がひとりで奥の廊下へ入っていったこと。夜、印章の箱がずれていたこと。印章の溝に、新しい蝋が残っていたこと。
それから、少し迷って、夜会の庭で見たことも話した。第二王子殿下の側近と、ヴェロニカ様が一緒にいたこと。「言われたことは、ちゃんとやる」と話していたこと。
簡単な男、という言葉だけは、口にできなかった。
ジークベルト様は、報告書から顔を上げなかった。
話し終えると、部屋の中が静かになった。暖炉の薪が一本、崩れる音がした。
「それで」
あの方は、ようやく私を見た。前髪をうしろへ流した額の下で、左の眉尻の古傷がわずかに動いた。眉をひそめたのだ。
「お前は何が言いたい」
「ヴェロニカ様が印章を使われたのではないかと。念のため、伯爵様に」
「身の程をわきまえろ」
冷たい声だった。
「ヴェロニカを疑うのか」
私は口を閉じた。
「迷っただけだ。初めて来た屋敷で、廊下を一本間違えることもある。箱がずれていたのは、父上が手紙に封をしたあと、しまい方が雑だったんだろう」
「伯爵様は、昨日は一日」
「アマリア」
名前を呼ばれて、私は黙った。
「お前は、何様のつもりだ。森で拾ってやった孤児が、侯爵家の令嬢を盗人呼ばわりか」
「そのようなつもりでは」
「夜会の庭のことも、二度と口にするな。侯爵家の令嬢が、誰と挨拶を交わそうと自由だ。暗がりで聞いた言葉の切れ端を、勝手につなぎ合わせて、主の縁談に泥を塗るな」
あの方は、報告書を机に置いた。
「お前がヴェロニカの何を知っている。あの人は、お前のような者には一生わからない場所で生きている人だ」
あの方は報告書に目を戻した。
「下がれ。次に同じことを言えば、影の役を解く」
言いたいことは、まだあった。けれど、それを言えば、私は本当に「主の縁談に口を出す影」になる。
私は深く頭を下げた。
「出過ぎたことを申しました」
書斎を出て、扉を閉めた。
廊下の窓から、庭が見えた。昨日、ヴェロニカ様が歩いた冬薔薇の小道。ユリウス様が、肩にクロをのせて、何かを話しかけていた。
その午後、ジークベルト様は供も連れずに出かけていった。行き先は、王都の宝飾店の並ぶ通りだと、馬丁が言っていた。縁談が出てから、もう三度目だった。
その夜、私はもう一度、書斎の引き出しを確かめた。印章は、きちんと元の場所にあった。
それから三日、何も起きなかった。
伯爵様は北の軍の冬支度の書類に追われ、奥様は縁談の衣装の話をし、ユリウス様は弓の稽古に励んだ。ジークベルト様は、私と目を合わせなかった。
何も起きないのなら、私の思い過ごしだったのかもしれない。三日目の晩には、そう思おうとしていた。
その明け方、私は、クロの鳴き声で目を覚ました。
クロが窓枠に飛びつき、狂ったように羽をばたつかせていた。
遠くで、地鳴りのような音がした。
窓を開けると、冷たい霧の向こうに、松明の列が見えた。何十、いや、百を超えている。炎が霧に滲んで、屋敷を取り巻く赤い川のように揺れていた。
王家の騎士団の旗だった。
次の瞬間、伯爵家の正門が、外側から破られた。




