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「お前は妾で十分だろう」と言われたので、二十四時間後にこの世を去ります  作者: 鷹居鈴野


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第5話 初恋の人

 伯爵家に来て三年。誓約を結んでから、二年がたった。


 私は十八になっていた。左腕には、あの朝の傷が白い線になって残っている。そのあとも、ジークベルト様が落馬すれば私の膝も腫れ、狩りで指を切れば私の指も裂けた。あの方の傷は、いつも半分の浅さで済んだ。痛みも半分。残りの半分は、私の体に来た。


 誓約は、傷を運ぶだけではなかった。私の魔力が細い糸を通ってあの方に流れこみ、その体を強くしていた。剣は前より重く振れるようになり、走っても息が上がらなくなった。


 第二の段の頁は、角を折ったまま、まだ一度も唱えていない。


「若様は、まったく天賦の才だ。北の騎士団でも、もう若様に勝てる者はおらん」


 騎士たちは、酒の席でそう噂した。あの方自身も、そう思っているようだった。


 クロは、二年たっても、ひなのままだった。羽はいつまでも生えそろわない。大きさも、拾ったときと変わらない。


 虫も木の実も、ほとんど口にしなかった。そのかわり、私が指先に魔力を灯すと、くちばしを寄せてきて、灯りが細くなるまでついばんだ。見た目はカラスでも、魔力を食べて生きる鳥。たぶん、魔鳥なのだろう。何という種類なのかは、書庫の図鑑をめくっても、わからなかった。


 私とユリウス様は、クロの世話を交代でした。浄化の仕事で熱を出した夜、ユリウス様の枕もとには、いつもクロがうずくまっていた。


 ユリウス様は、ときどきクロを両手で包んで、浄化の力を流した。クロの体の奥には、何か古い穢れのようなものが溜まっていて、それを少しずつ清めてやるのだという。


 そのうちに、ユリウス様は言いだした。


「クロの言ってること、なんとなくわかるんだ。声じゃなくて、頭の中にビジョンみたいに浮かぶの」


 はじめは子どもの空想だと思った。けれど、ある晩、ユリウス様が私の左腕の袖をそっとまくった。


「姉さん。この傷、兄上の傷なんでしょう。クロが見せてくれた」


 私は袖を下ろして、ユリウス様の口に指を当てた。


「誰にも言わないで。若様にも」


「どうして。兄上は知るべきだよ。姉さんがこんなに」


「お願いです」


 ユリウス様は、泣きそうな顔でうなずいた。


 それからずっと、私が誓約であの方の傷を引き受けていることを知っているのは、ユリウス様ひとりだった。


 クロは、伯爵家の使い魔としてもよく働いた。王都の屋敷と北の領地のあいだを飛び、手紙を運ぶ。


「賢い鳥だ」


 ジークベルト様は、そう言ってクロに手紙を結んだ。


 けれど本当は、クロが言うことを聞くのは、私とユリウス様だけだった。ほかの誰が結んでも、首をかしげて机の上に座りこむだけだった。そのことを知っているのは、私たち二人だけだった。


 その年の初冬、一家は社交の季節を過ごすため、王都の屋敷に移っていた。そこで、ジークベルト様に縁談の話が持ち上がった。


 相手は、モルゲンロート侯爵家の令嬢、ヴェロニカ様。


「北の軍を預かる家と、王都の名門の侯爵家だもの。伯爵様も奥様も、ずいぶん乗り気よ」


 洗濯物をたたみながら、ノエラが教えてくれた。


「それに、若様のほうがね。ずっと前から、ヴェロニカ様をお好きだったんですって。夜会で一度お会いしてから、ずうっと」


「そうですか」


「あら、アマリア。そのシャツ、さっきもたたんだわよ」


 私はたたんでいたシャツの袖を、もう一度たたみなおした。


 その夜、王宮で初冬の夜会が開かれた。


 影は、主のそばを離れない。私は飾りのない濃い灰色の上着に黒い手袋をつけ、ジークベルト様の三歩後ろに立っていた。


 人の集まる場所では、認識阻害の術をまとう。見る者の目が、私の上をすべっていくようにする術だ。私はそこに立っているのに、人の目には壁の飾りか柱の影のようにしか映らない。気づかれないことが、影の役目だった。


 出がけに、廊下の鏡で身なりを確かめた。うなじで結んだ黒髪は、屋敷に来たころよりずっと艶が出ている。肩も腕も引き締まり、もう痩せっぽちとは言われない。表情の少ない白い顔が、灰色の目でこちらを見返していた。


 ジークベルト様は、濃紺の礼服を着ていた。胸に銀糸の雪狼。二十一になったあの方は、背がさらに伸び、肩幅も広くなった。少年の甘さは頬から消え、冬の月の色の髪の下で、薄い氷のような青い瞳だけが昔のままだった。


 大広間には何百本もの蝋燭がともり、天井の水晶のシャンデリアが、光を雨のように降らせていた。楽団の弦が鳴り、香水と蜜蝋と葡萄酒の匂いが、むせるほど立ちこめていた。


 広間に入ったとたん、扇の陰でささやきが走った。


「ご覧になって。ヴィンターハルトの若様よ」


「北の雪狼。噂どおりのお顔ね。でも、あの家は剣と雪しか知らないって」


「モルゲンロートの令嬢との縁談、本当なのかしら。北の田舎に、あの花を嫁がせるなんて」


「侯爵様は、北の軍が欲しいのよ。娘は、そのための飾り」


 ヴェロニカ様は、すぐにわかった。


 広間の真ん中で、波打つ蜂蜜色の髪を高く結い上げた人が笑っていた。若葉の色の瞳。白い肩。口もとに、小さなほくろがひとつ。手を動かすたびに、腕輪が光を跳ね返す。まわりには、若い貴族たちが輪をつくっていた。


「ヴェロニカ嬢、次の曲はぜひ私と」


「いや、私が先に申し込んだ」


「まあ、困ったわ。みなさま、順番にね」


 鈴を転がすような声だった。誰もが、その声に振り向いた。


 ジークベルト様の足が止まった。


 私は、主の背中しか見ていない。それでも、わかった。あの方の肩から、力が抜けた。あの方は、剣を構えるとき以外に、そんなふうに体の向きを変えたことがなかった。


「ジークベルト様」


 ヴェロニカ様が輪を抜けて、こちらへ歩いてきた。取り残された若い貴族たちが、舌打ちをして顔を見合わせた。


「来てくださったのね。北の方は夜会がお嫌いだと聞いていたから」


「嫌いだ。だが、今日は来た」


「まあ。それは、私のため?」


「そうだ」


 ヴェロニカ様は扇で口もとを隠して笑った。まわりの令嬢たちが、きゃあ、と小さく声を上げた。ジークベルト様は、ヴェロニカ様から目を離さなかった。


 二人は踊った。私は壁際に下がり、主の姿が人波に隠れないところに立った。


 ジークベルト様が笑っていた。


 声を立てるのではない。口の端が、ほんの少し上がっているだけ。青い瞳の色が、わずかに濃くなっていた。あの方の心が動いたときだけ起きる変化で、それに気づくのは、たぶん屋敷で私ひとりだ。三年そばにいて、それが私に向けられたことは一度もなかった。


 胸の奥が、きしんだ。


 そのとき、ようやくわかった。


 私は、ジークベルト様が好きなのだ。


 いつからかは、わからない。森で小鳥をもらったときか。名前を呼ばれたときか。あの方の傷を、初めてこの腕で引き受けた朝か。


 わかったところで、どうしようもなかった。


 影は主を愛してはいけない。それは、影が最初に教わる決まりだった。主の判断を曇らせる。主の家の名を汚す。姓のない者が、主の隣に立つことはない。


 私は壁際で背筋を伸ばし、踊る二人を見ていた。主から目を離さないのが、影の務めだから。


 夜も更けたころ、ジークベルト様は伯爵様に呼ばれて、別室へ入っていった。扉の前には伯爵家の騎士が立つ。私はいったん主のそばを離れ、庭に出た。


 夜風が冷たかった。広間の熱気で火照った頬に、ちょうどよかった。


 薔薇の垣根の向こうから、女の笑い声がした。


 聞き覚えのある声だった。けれど、広間で聞いた鈴の声とは、どこか違っていた。低くて、湿っていて、喉の奥で転がすような笑い方だった。


 私は足音を消して、垣根の隙間をのぞいた。


 月明かりの下に、ヴェロニカ様がいた。


 隣に、黒い礼服の男が立っている。男の手が、ヴェロニカ様の腰にまわっていた。ヴェロニカ様は、それを振りほどこうとしなかった。男の胸に額を寄せて、何か小声で話している。


 男の顔には、見覚えがあった。


 第二王子フェルディナント殿下の側近だ。王宮の行事で、いつも殿下の半歩後ろに控えている男。礼服の胸に、殿下の紋章である黒い百合の飾りをつけていた。


 ヴィンターハルト伯爵家は、第一王子殿下を推す家だ。北の軍を預かる家が誰の味方につくかで、次の王が決まるとまで言われている。だから第二王子殿下の一派は、伯爵家を快く思っていない。影として、私はそう教わっていた。


 その第二王子殿下の側近と、若様の縁談の相手が、こんな暗がりで。


「雪狼の若様は、すっかりあなたに夢中のようだ」


 男が、からかうように言った。


「ええ。かわいいでしょう」


 ヴェロニカ様は、男の胸のボタンを指でもてあそんだ。


「少し笑ってあげただけで、耳まで真っ赤になるの。剣しか知らない人って、本当に簡単ね」


「簡単なほうが、こちらは助かる」


「わかってるわ。言われたことは、ちゃんとやります」


 ヴェロニカ様は、口の端だけを持ち上げて笑った。広間で見せていた笑顔とは、まるで別の顔だった。若葉の色の瞳が、月の光の中で、冷たく濡れて光っていた。


「そろそろ戻らないと。あの人が探しに来るわ」


 ヴェロニカ様が男の胸を押した。男は笑って、ヴェロニカ様の手の甲に唇をつけた。


「侯爵令嬢は、お忙しい」


「誰のせいだと思っているの」


 男が垣根の反対側から去っていく。ヴェロニカ様は髪を直し、扇を開いた。扇の陰で、ひとつ息を整える。次に顔を上げたときには、もう広間の笑顔に戻っていた。


 背筋が冷たくなった。


 言われたこと。誰に、何を。


 私は、そっと一歩下がった。


 その足もとで、小枝が折れた。


 ヴェロニカ様が振り向いた。


 私は息を止めた。認識阻害の術は、まとったままだ。ヴェロニカ様の目には、垣根の暗がりしか映らないはずだった。


 緑の瞳が、私の立っているあたりをなぞった。一度、二度。それから、何事もなかったように逸れていった。


 ヴェロニカ様は扇で口もとを隠し、広間の明かりのほうへ歩いていった。蜂蜜色の髪が、月の光を一度だけはじいた。


 足音が遠ざかってから、私はようやく息を吐いた。


 見られてはいない。


 けれど、ひとつだけ気になった。ヴェロニカ様の目は、なぞるたびに、ほんの少しずつ、私の顔の高さで止まっていた。


 そして最後に、扇の陰で、あの口の端だけの笑みが、もう一度浮かんだ気がした。

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