第4話 影の誓約
ノルトハイムの北の領地にある、ヴィンターハルト伯爵家の屋敷は、魔塔よりずっと低くて、ずっと暖かかった。
不思議だった。北の国境の地なのだから、凍えるほど寒いものと思っていた。
魔塔のまわりは、いつも空がおかしかった。塔から噴き出す魔力が、空気をかき乱すからだ。真夏のような熱気が何日も続いたかと思えば、翌朝には窓の内側まで霜が張る。屋根裏の私の部屋は、その両方をまともに受けた。
ここでは、朝は朝らしく冷え、昼は昼らしくゆるむ。風は風の匂いがした。
季節というものが、毎日ちゃんと順番どおりに来る。それだけのことに、私はしばらく慣れなかった。
とはいえ、影の修行は楽ではなかった。
屋敷に来た翌朝、私は飾りのない濃い灰色の上着と細身のズボン、黒い革の手袋を渡された。影の服だった。腰まであった黒髪は、剣を振るのに邪魔だからと、うなじの低いところで一本の黒い紐で結ぶことにした。結び目がゆるんでいないか、指で確かめる。いつのまにか、それが癖になった。
夜明け前に起きて、裏庭で木剣を振る。教えてくれたのは、森で私に声をかけた年配の騎士だった。
「足が止まっている。死にたいのか」
「いいえ」
「なら、もう百本だ。影が先に倒れたら、主が死ぬ」
足の運び、受け流し方、相手の喉と手首を狙うこと。最初の一月は、手のひらの豆がつぶれては、また豆ができた。
昼は台所の奥の小部屋で、毒のことを習った。
たいていの毒は、もう知っていた。姉が私に飲ませてきたものばかりだったから。ここで新しく覚えたのは、北の土地ならではの毒だった。雪の下で育つ白い茸。凍った沼に咲く青い花の根。国境の向こうから商人が持ちこむ、異国の毒もあった。匂いのしないもの、三日たってから効いてくるもの、銀の匙を曇らせないもの。
毒の師は、小瓶を並べながら、気味悪そうに私を見た。
「お前、どうしてこれが鼠殺しだとわかった。匂いなどほとんどしないのに」
「舌の付け根が、少しだけしびれる匂いがします」
「嗅いだことがあるのか」
「何度か」
師は、それ以上聞かなかった。
午後は、魔術の稽古だった。
塔で私が習ったのは、魔力を差し出す術だけだった。ここでは違った。
ひとつは、障壁の張り方。主の前に立ち、矢も刃も毒の霧も通さない薄い膜を、一瞬で張る。父が一度だけ私のために張ったものと、同じ術だった。今度は私が、誰かのために張る。
もうひとつは、魔力の塊を、狙ったところへ正確にぶつける術。的の中心に、指先ほどの大きさで当てる。人の喉なら、それで足りる。
稽古をつけてくれた騎士は、淡々と言った。
「影は、主を守るためにいる。主の敵を、主の手を汚さずに消すためにもいる。覚えておけ。お前の手は、汚れるためにある」
護衛なのか、暗殺者なのか。
たぶん、その両方だった。
それでも、ここでは、私の命を狙う人はいなかった。
夜、扉に背を向けて眠ってみた。
朝まで、誰も来なかった。
夜は、主の身の回りの世話を覚えた。
「襟はこう。若様は首もとが詰まるのがお嫌いだから、ボタンは一つ外しておくの」
教えてくれたのは、侍女のノエラだった。私より八つ年上で、屋敷にいちばん長く仕えている。そばかすのある頬で、よく笑う人だった。
「アマリア、あなた、また指を切ったでしょう。見せなさい」
「平気です。すぐ治ります」
「平気な人は、そんなふうに手を背中に隠さないの。ほら」
針仕事で傷をつくるたびに、ノエラは私の手を取って薬を塗った。塔では、誰も私の指など見なかった。
私の胸には、魔核のほかに回復核がある。手を当てれば、人の傷も病も癒やせる。けれど、それを人前で使えば、魔塔の娘だとすぐに知られてしまう。だから伯爵家では、人の傷を癒やしたことは一度もなかった。
ジークベルト様は、私にほとんど話しかけなかった。
朝、着替えを手伝う。剣の稽古のあと、汗を拭く布を渡す。書斎に茶を運ぶ。
「若様、お茶を」
「置いておけ」
「冷めないうちに」
「置いておけ、と言った。二度言わせるな」
返ってくるのは、たいていそれだけだった。
廊下の陰で、若い下働きたちがささやいていた。
「見た? 若様、あの影の顔も見ないのよ」
「人形に話しかける人なんていないわよ。拾われた野良犬が、主人の足もとをうろうろしてるだけ」
それでよかった。影とは、そういうものだと教わっていた。
ただ一人、うるさいほど私にまとわりついてくる人がいた。
「アマリア姉さん、見て! 今日は三回も的に当たったよ」
ユリウス様。ジークベルト様の弟で、私が屋敷に来たときは十歳だった。私より五つ下。兄と同じ銀髪なのに、兄とは似ても似つかないほどよくしゃべる。
ユリウス様の魔核も、特別だった。浄化の魔核。毒や呪いや穢れを、清めて消し去る性質の魔核で、私の回復核と同じくらい、持つ者の少ない貴重なものだった。伯爵家は、そのことを屋敷の外にはもらさないようにしていた。
その魔核のせいで、ユリウス様は幼いうちから働かされていた。
家のため、国のためと言われて、魔物の死骸で汚れた沼や、疫病の出た村の井戸へ連れていかれる。小さな両手を地面につけて、穢れを吸い上げ、清める。帰りの馬車では、決まって熱を出した。
熱にうかされて眠るユリウス様の横顔は、塔の子ども部屋で魔力を絞り出していたころの私に、そっくりだった。
誰にも大事にされなかった、昔の私。
だから私は、ユリウス様を大事にした。あのころの自分を、今さら抱きしめてやるように。
それでも、秘密はどこかからもれる。
伯爵家と敵対する者たちから、ユリウス様の魔核を狙う刺客が、年に何度も送りこまれてきた。生け捕りにして、魔核ごと連れ去るつもりの者たちだった。
そのたびに、私が守った。
寝室の窓が音もなく開く夜。庭の茂みに、矢をつがえた影がひそむ昼。私は障壁を張ってユリウス様を背にかばい、稽古で覚えたとおりに、魔力の塊を相手の喉へ放った。
「姉さん、怖かった」
「もう大丈夫です。目を閉じていてください。見なくていいものです」
刺客が狙うのは、いつもユリウス様だった。私ではなかった。
それが、少しだけ不思議で、少しだけ楽だった。
「姉さんと呼んではいけません。私は影です。若様にも叱られたでしょう」
「叱られたよ。でも、やめない。姉さんは姉さんだもの」
ユリウス様は私の手を引っぱって、弓の的まで連れていった。
一年がたって、私は十六になった。ユリウス様は十一歳になり、相変わらず私を姉さんと呼んでいた。
ある雨の午後、私は書庫の掃除を任された。
いちばん奥の棚は、何十年も誰も触っていないようだった。埃を払っていると、背表紙のとれた古い本が一冊、床に落ちた。
開いた頁に、『影の誓約』と書いてあった。
私は床に座りこんで、その頁を読んだ。
影の誓約とは、影が自分の魂と主の魂を、魔術で結びつける古い術だという。誓約は、二つの段からなる。
第一の段を結べば、主が負う傷も、痛みも、呪いも、毒も、その半分が影の体に移る。
第二の段で、魂の最後の結び目を結べば、すべてが影に移る。主は無傷のまま、影がそれを引き受ける。
主のほうは、誓約が結ばれたことに気づかなくてもかまわない。断ち切ることができるのは、影の側だけ。
頁の端に、誰かの古い書きこみがあった。
『第二の段は、影の命を大きく削る。ゆえに、いまは用いる家なし』
読み終えて、私はしばらく窓の雨を見ていた。
本を棚に戻すとき、その頁の角を小さく折った。
その数日後、庭の楡の木の下で、私は黒いものを見つけた。
カラスのひなだった。羽がまだ生えそろっておらず、地面にうずくまって、細い声で鳴いていた。巣から落ちたのだろう。
庭師が言った。
「そいつは、さっきから誰が近づいても突っつくんですよ。俺の指なんか、血が出ちまった。放っておきなさい。どうせ今夜には猫の餌だ」
私はしゃがんで、指を一本差し出した。
ひなは首をかしげた。それから、ぴょんと跳ねて、私の指にとまった。
「なんてこった」
庭師が目を丸くしていた。
ひなは私の部屋で暮らすことになった。ユリウス様が「クロ」と名前をつけた。ほかの誰が呼んでも振り向かないのに、私とユリウス様が「クロ」と呼んだときだけ、肩に飛んできた。
クロは、いつまでたっても大きくならなかった。
月の明るい夜だった。
私は書庫からあの本を持ち出し、自分の部屋の床に、頁のとおりの円を描いた。蝋燭を四本立て、中央に座る。クロが机の上から、黒い目でじっとこちらを見ていた。
どうして、と聞かれたら、うまく答えられなかったと思う。
ジークベルト様は、私に何も約束していない。私を見るときも、相変わらず、道具の具合を確かめるような目をしている。
それでも、あの方は私に名前をくれた。泥の中から拾い上げて、帰る場所をくれた。私のために、泣いてくれた。
影は主の前で死ぬもの。あの日、そう言われて、私はうなずいた。それなら、言葉だけでなく、本当にそうしたかった。
誰にも告げなかった。ノエラにも、ユリウス様にも。もちろん、ジークベルト様にも。
私は胸に手を当て、第一の段の文句を唱えた。第二の段の頁は、読むだけにした。
胸の奥の魔核が、熱くなった。熱は細い糸になって胸から抜け出し、壁を越え、廊下を越えて、屋敷の東の端へ伸びていく。ジークベルト様の寝室のある方角だった。
糸の先が、何かに結ばれた手応えがあった。
蝋燭の炎が、四本そろって揺れた。
夜の窓ガラスに、床に座る私が映っていた。灰色の瞳の縁に、細い銀の輪が浮かんでいる。魔力を強く使うと出る、魔塔主の血筋にだけ現れるしるしだ。塔を出てから、人前では一度も出さないようにしてきた。輪は、蝋燭が落ち着くのと一緒に薄れて消えた。
それきり、部屋は静かになった。体に変わったところは何もない。頁を読み違えたのかもしれない、と思った。
私は本を閉じ、寝台にもぐりこんだ。クロが枕もとに降りてきて、羽をふくらませた。
翌朝。
いつものように裏庭へ出ると、ジークベルト様が騎士と剣の稽古をしていた。真剣を使った、本気の打ち合いだった。鋼と鋼がぶつかるたびに、朝の冷たい空気に火花が散った。
騎士の剣先が、ジークベルト様の左の腕をかすめた。
「若様!」
騎士が青ざめて剣を引いた。シャツの袖が、肘の上で裂けていた。
同じとき、私の左腕に、焼けるような痛みが走った。
思わず腕を押さえた。指のあいだから、温かいものがにじみ出していた。
ジークベルト様は、裂けた袖をめくって、自分の腕を見た。剣を握る人の、引き締まった腕に、細い赤い筋が一本だけ走っていた。
「なんともない。かすり傷だ。続けろ」
「しかし、今の当たりなら、骨まで」
「かすり傷だと言っている」
ジークベルト様は首をかしげながら、稽古に戻っていった。剣を握り直したその腕は、いつもより軽々と振れているように見えた。
私は柱の陰で、自分の袖をまくった。
肘の上に、まっすぐな切り傷が一本、細く赤い筋になっていた。
あの方の腕のかすり傷と、同じ場所、同じ長さ、同じ浅さ。本当なら一本の深い傷になるはずだったものを、ちょうど半分ずつ、二人で分けあっていた。
痛みが、脈を打つたびにずきりと響いた。
それなのに、私は柱にもたれて、少しだけ笑っていた。




