閑話 拾った影(ジークベルト)
あの夜のことは、思い出すたびに腹が立つ。
森の外れの焚き火の前で、私は泣いた。拾ったばかりの、名前も言わない痩せっぽちの娘の身の上話を聞いて。
七つで村を焼かれ、親を亡くし、親戚の家を転々として、最後には魔塔に売られかけた。娘は、それを天気の話でもするように、淡々と話した。泣きもしなかった。
誰も守らなかったのか、と聞いた。
「はい。誰も」
娘は、そう答えた。灰色の目は、焚き火の炎を映しているのに、少しも温まっていなかった。冬の湖の底のような目だった。
七つの子が、一人で、誰にも守られずに。
そう思ったら、喉の奥が熱くなって、止められなかった。
だから、私が泣いた。
十八にもなって、と思う。少し離れたところで火の番をしていた若い騎士が、ぎょっとした顔でこちらを見たのは覚えている。翌朝、そいつは何も言わなかった。言ったら、北の砦の便所掃除に回すつもりだった。
あの娘は、私の顔を見て、灰色の目をまんまるにしていた。何が起きているのかわからない、という顔だった。人が自分のために泣くところを、生まれてはじめて見た顔だった。
その顔が、また癪にさわった。
なぜ、お前が泣かない。泣くべきなのは、お前のほうだろう。
そう言いかけて、やめた。代わりに、削りかけの小鳥を放った。手が勝手に動いた。
娘は、木切れの小鳥を両手で包んで、宝物でも受け取ったように胸に寄せた。あれが、娘が初めて見せた表情らしい表情だった。
ただの木切れだ。退屈しのぎだ。そんなものを、そんな顔で受け取るな。
屋敷に連れて帰ると、父上は娘を一目見て、眉を上げた。
「影にするのか」
「魔力があります。縄を切ったとき、手首から漏れていました。鍛えれば使えます」
「それだけか」
「それだけです」
「森で泣いたそうだな」
父上の後ろで、年配の騎士が咳払いをした。あいつか。
「目に煙が入っただけです」
父上は、私の目をしばらく見ていた。それから、口の端をわずかに上げて、好きにしろ、と言った。
それだけだ。ほかに理由はない。
ヴィンターハルトの家には、代々、影がいる。主の前に立ち、主の盾になる者。父上の影は、私が生まれる前に、北の戦で父上をかばって死んだと聞いている。影は主の前で死ぬものだと、私は物心ついたころから教えられてきた。あの夜、娘にそう言ったのも、その言葉をなぞっただけだ。
娘は、アマリアと呼ぶことにした。
呼びやすいからだ、と言った。嘘ではない。けれど、本当のことを全部言ったわけでもない。
アマリアは、私が五つのときに死んだ乳母の名だった。熱を出した夜に、一晩じゅう額の布を替えてくれた人だ。冷えた手が額に触れるたび、もう大丈夫ですよ、若様、とささやいた。その名を、なぜあの痩せっぽちの娘につけたのか、自分でもよくわからない。
あれには、言っていない。言うつもりもない。
屋敷に来て、ひと月がたった。
アマリアは、妙な娘だった。
食事のたびに、皿の上のものの匂いを嗅ぐ。一度ではなく、二度、三度。ノエラが作った、毒など入るはずもないスープでもだ。
「若様、あの子、気味が悪うございます」
台所の女が、私に耳打ちしてきた。
「私のスープを、毒でも入ってるみたいに嗅ぐんですよ。人形みたいな顔で」
「放っておけ。私の影だ」
ノエラだけは、何も言わずに、アマリアの皿にだけ少し多めによそっていた。
夜は、扉に背を向けて眠らないらしい。ノエラが言っていた。寝台を壁ぎわに寄せ、扉が見える向きで、短剣を枕の下に入れて眠るのだと。ここには、あの娘の命を狙う者などいないのに。
稽古では、何を教えても一度で覚えた。毒の見分けは、教える前からできていた。北の茸や沼の花のことは知らなかったが、匂いを嗅がせると、すぐに覚えた。
魔塔に売られかけた孤児にしては、物を知りすぎている。
一度だけ、聞いたことがある。
「どこで覚えた」
「親戚の家を、転々としていましたので」
アマリアは、そう言って頭を下げた。それ以上は、何も言わなかった。
嘘だろう。けれど、問いつめはしなかった。
あの焚き火の夜、この娘が話したことのどこまでが本当なのか、私は知らない。知らなくていい。あれは影だ。影の身の上を、主が知る必要はない。使えるかどうか。それだけが大事なことだ。
そう思うことにした。
ある朝、裏庭で木剣を振っているアマリアを、二階の窓から見ていた。
黒髪を、うなじで一本に結んでいた。手のひらの豆がつぶれて、木剣の柄に血がにじんでいた。それでも、手を止めなかった。年配の騎士が「今日はそこまでだ」と言うまで、黙って振りつづけていた。
痩せすぎている、と思う。灰色の上着の袖から出た手首は、私の指でひと回りできそうなほど細い。頬にも、肉がない。
けれど、顔の造りだけは、驚くほど整っていた。
細い顎。まっすぐな鼻筋。薄い唇。冬の朝の湖のような、淡い灰色の目。王都の夜会に出てくる令嬢たちの誰と並べても、見劣りしないだろう。
ただ、表情がない。笑いもしない。怒りもしない。痛くても、顔をしかめない。台所の者たちが、陰で「人形」と呼んでいるのも知っている。
美しい娘だ、と認めるのは、どこか癪だった。
これが、どこかの貴族の娘だったなら。
一瞬だけ、そんな考えが頭をよぎった。
すぐに打ち消した。あれは、身寄りのない孤児だ。そして、私の影だ。孤児で、影である女に、何かの感情を持つ理由など、どこにもなかった。
名前すら持っていなかった女だ。私が名を与えなければ、何者でもなかった。そういう者を、美しいとか、美しくないとか、考えること自体が、主のすることではない。
大事なのは、別のことだ。
あの年で、あの魔力の量。教えたことを一度で覚える頭。豆がつぶれても手を止めない、ひたむきさ。拾われた恩を、そのまま忠誠に変えて差し出してくる律儀さ。
そういう影は、金を積んでも、なかなか見つからない。それが、森で拾っただけで手に入った。
いい買い物をした。
私があの娘について思うことは、それで全部だった。
井戸端に、銀色の頭が駆けていくのが見えた。ユリウスだった。
「アマリア姉さん! 見て、今日は的に三回も当たったんだ」
弟は、もうあれを姉さんと呼んでいる。屋敷に来て、まだひと月なのに。稽古の合間を見つけては、あれのそばにまとわりついて離れない。
その日の夕食で、ユリウスに言った。
「影を姉と呼ぶな」
「どうして? アマリア姉さんは、やさしいよ」
「やさしいかどうかは関係ない。あれは、いつかお前や私の代わりに死ぬ者だ。死ぬとわかっている者を、家族のように呼ぶな。泣くのはお前だぞ」
ユリウスは、唇を噛んで黙った。給仕をしていたアマリアは、顔色ひとつ変えずに、私の杯に水を注いだ。
影は、主の代わりに死ぬためにいる。そういう者に心を寄せれば、失ったときに、傷つくのはこちらだ。北の戦で自分の影を失った父上から、私は幼いころ、そう教えられた。
ユリウスは、まだ十だ。それがわかるほど、大人ではない。
稽古が終わると、アマリアは井戸端で手を洗った。それから、懐から何かを取り出して、手のひらにのせた。
木彫りの小鳥だった。
森の夜に、私が退屈しのぎに彫って、放ってやったものだ。尾のところが、まだ削りかけのまま粗い。
アマリアは、それを両手で包んで、しばらく見ていた。指の腹で、羽の刻み目をひとつずつなぞっていた。それから、大事そうに懐に戻した。
あんなもの、捨てればいいのに。
そのとき、胸の奥で、何かが小さく鳴った。何なのかは、わからなかった。わかろうともしなかった。
窓から離れて、机に戻った。北の砦の報告書が、山になっていた。
そのころ、私の頭の中にあったのは、春の王都の夜会で出会った、ひとりの少女のことだった。
波打つ蜂蜜色の髪。若葉の色の瞳。頬はふっくらとしていて、笑うと、口もとの小さなほくろが動いた。
よく笑う少女だった。笑ったかと思えば、拗ねて唇をとがらせ、次の瞬間にはまた目を輝かせる。表情が、くるくると変わった。家族にも、まわりの誰からも愛されて育ったのだと、ひと目でわかった。
あの少女には、きれいなものだけに囲まれていてほしい。花と、絹と、甘い菓子と、やさしい言葉と。そんなことを、話したこともない相手に、本気で思った。
壁ぎわで飲み物を取ろうとしたとき、肘が少女の扇に当たった。
「まあ。北の雪狼の若様ね」
少女は、私の胸の紋章を見て、ふわりと微笑んだ。
「そんなに怖いお顔をなさらないで。扇なら、折れていませんわ」
何と答えたのか、覚えていない。たぶん、ろくな言葉は出なかった。剣の稽古なら何時間でも平気な私の喉が、そのときだけ、からからに乾いていた。耳まで熱かった。
あとで、侯爵家の令嬢だと知った。ヴェロニカ・モルゲンロート。
その名を、何度も胸の中で繰り返した。
焚き火の夜に、痩せっぽちの娘の名前を一度だけ考えたのとは、まるで違うやり方で。
影の娘のことなど、すぐに忘れた。




