第3話 名前をくれた人
男の手が、私の髪をつかんだ。
引き起こされ、顔を土の上に押しつけられる。口の中に泥の味がした。誰かが私の手首を縄で縛りはじめた。
「傷はつけるなよ。値が下がる」
「腹は蹴っちまったぞ」
「顔じゃなきゃいい。魔塔の娘は顔より中身だ。胸の核さえ無事なら、手足が一本なくたって買い手はつく」
「なあ、売る前に少し遊んでもいいか」
「やめとけ。商品だぞ」
下卑た笑いが、頭の上で弾んだ。縄が手首に食いこんで、指先が冷たくなっていく。
笑い声の向こうで、馬のいななきが聞こえた。
一頭ではなかった。蹄の音が、街道のほうから近づいてくる。男たちの笑いが止まった。
「なんだ、てめえら」
答えはなかった。
代わりに、剣を抜く音がした。
私は顔を上げられなかった。見えたのは、地面を蹴る黒い長靴と、斜めに差しこむ夕日の中を走る銀色の光だけだった。男の怒鳴り声が途中で切れ、誰かが倒れる重い音がした。私の髪をつかんでいた手が、ふいに離れた。
「ひっ、貴族だ、逃げろ!」
残りの男たちが、森の奥へ逃げていく足音が遠ざかった。
しばらくして、目の前に長靴が止まった。
「生きているか」
低い声だった。
見上げると、馬を背にした青年が立っていた。
襟足にかかる銀髪が、夕日の中でも冷たく光っていた。冬の月の色だった。前髪をうしろへ流した額の下に、薄い氷のような青い瞳。切れ長の目と通った鼻筋は整いすぎていて、左の眉尻にだけ、小さな古い傷痕があった。年は十八くらいだろうか。頬にはまだ、少年の甘さが残っていた。
濃紺の上着の胸に、銀糸で雪狼の紋章が縫い取られている。青年は剣の血を布で拭いながら、私を見下ろしていた。助けた相手を見る目というより、道に落ちているものを確かめる目だった。
「若様、お怪我は」
後ろから、年配の騎士が馬を降りて駆け寄ってきた。ほかにも数人、同じ紋章の外套を着た男たちがいる。
「ない。夜盗だろう。国境沿いではよくある。追わなくていい」
青年は膝をつき、短剣で私の手首の縄を切った。
「立てるか」
立とうとして、腹に痛みが走った。体が折れ曲がる。青年は黙って私の腕をつかみ、引き上げた。力加減を知らない、乱暴な手つきだった。
年配の騎士が、私を見て言った。
「こちらはヴィンターハルト伯爵家のご長男、ジークベルト様だ。王都から、北のご領地へお帰りになる途中でな。運がよかったな、娘さん」
ヴィンターハルト伯爵家。この国、ノルトハイム王国の北の国境で、軍を預かる家だ。国境の向こうのエーレンフェルトとにらみ合う家として、塔の講義で名前だけは聞いたことがあった。
ジークベルトと呼ばれた青年は、私の外套に目をやった。
「さっきの連中、魔塔がどうとか言っていたな」
私は自分の姿を見下ろした。紺の外套は泥にまみれ、裾は前よりもひどく擦り切れている。フードからこぼれた黒髪が、腰のあたりまで垂れて、枯れ葉を絡ませていた。外套の袖から出た手首は、縄の跡が目立つほど細かった。
外套の前をかき合わせた。裏地の紋章が見えないように、内側へ折りこむ。
「魔塔へ、売り飛ばされそうになりました」
声が震えた。
「私の両親は、前の戦争で亡くなりました。家もありません。私は、孤児です」
嘘だった。母は戦争ではなく、塔の研究室で死んだ。父は生きている。家ならあった。帰りたくない家が。
でも、名前を言えば、魔塔に連れ戻される。父は、逃げた器を探しているはずだ。
ジークベルトは、しばらく私の顔を見ていた。それから、興味をなくしたように立ち上がった。
「そうか」
ジークベルトは馬の手綱を取り、背を向けかけて、足を止めた。
「女の一人旅は危ない。このあたりは、さっきのような連中が多い」
振り返らないまま、言った。
「北でいいなら、一緒に来い。次の町までは送ってやる」
若い騎士が、こっそり年配の騎士に耳打ちするのが聞こえた。
「いいんですか。素性も知れない娘ですよ」
「若様が決めたことだ。黙っておけ」
その夜、一行は森の外れで火を焚いた。
空は、群青から黒へ沈んでいくところだった。焚き火の炎が、ぱちぱちとはぜて、火の粉を夜へ放り投げる。松の枝の焦げる匂いと、鍋で煮える干し肉の匂いが、冷えた森にまざっていた。
私は少し離れた木の根もとに座り、騎士が分けてくれた干し肉を手に持っていた。腹が痛かった。手首には縄の跡が赤く残っていた。
干し肉を鼻に近づけて、匂いを嗅いだ。塩と煙の匂い。おかしな匂いはしない。一度嗅いで、もう一度嗅いだ。
「おい、毒なんか入ってないぞ」
若い騎士が、呆れたように笑った。
「どこの山猫を拾ったんだか」
私は黙って頭を下げ、干し肉をかじった。塔でも家でも、そうやって食べてきた。
ジークベルトが、焚き火のこちら側に回ってきた。小刀と、削りかけの木切れを手にしている。私から二歩ほど離れた倒木に腰を下ろし、木を削りながら言った。
「どこの生まれだ」
「国境の向こう側の、小さな村です」
すらすらと口から出た。
「村の名は」
「もう、ありません。戦で焼けました」
「親は、戦で死んだと言ったな」
「はい。父は兵に取られて、帰ってきませんでした。母は、村が焼けた夜に」
嘘を並べるのは、難しくなかった。塔の大人たちの前で、何も感じていない顔をするのと同じだった。
「それから、どうしていた」
「親戚の家を、転々としていました。どこへ行っても、口減らしの厄介者でした。最後の家で、魔塔に売られそうになって、逃げてきました」
「いくつのときだ。村が焼けたのは」
「七つです」
小刀の音が、止まった。
焚き火のはぜる音だけが、しばらく続いた。
顔を上げると、ジークベルトが私を見ていた。
薄い氷の色のはずの青い瞳が、焚き火の明かりの中で濡れていた。その縁から、ひと筋、頬を伝って落ちた。炎の色を映して、その一滴だけが金色に光った。
私は、干し肉を持ったまま動けなかった。
泣いている。
ジークベルトは、今、私の作り話を聞いて、泣いている。
「七つの子が、一人で」
ジークベルトは、そこで言葉を切った。喉の奥で、何かを飲みこむ音がした。
「それは、つらかったな」
低い声だった。ごまかすように、ジークベルトは手の甲で乱暴に目元をこすった。
「誰も、お前を守らなかったのか」
「はい」
「誰も、か」
「はい。誰も」
それだけは、嘘ではなかった。
ジークベルトは、焚き火に小枝を一本投げこんだ。火が大きく燃え上がって、銀の前髪の下の赤くなった目元を照らした。
「見るな」
「申し訳ありません」
「謝るな。私が勝手に泣いているだけだ」
何と答えればいいのか、わからなかった。
村も、戦も、親戚の家も、全部嘘だ。けれど、親に見捨てられた子どもがひとりで生きてきたことだけは、本当だった。塔の子ども部屋の、冷たい寝台。空いていく隣の寝台。それを、つらかったと言ってくれた人は、これまで一人もいなかった。
私自身でさえ、言ったことがなかった。
胸の奥が、きゅうっと縮んだ。熱い何かが、喉の手前までせり上がってきた。泣き方を、私は知らなかった。泣いても誰も来ない場所で育ったから。だから、ただ、膝の上で干し肉を握りしめていた。
こんな作り話で泣く人が、本当のことを知ったら、どうなるのだろう。
毎晩の食事に、姉が毒を入れること。眠っているあいだに、刺客が短剣を持って立っていること。義母が私を「あの女の子ども」と呼んで、扇で打つこと。兄が、私の死体を開いてみたいと、うっとり笑ったこと。
ジークベルトは、きっと泣くだけでは済まない。
だから、言わないでおこうと思った。
目の前で、銀髪の青年がまだ鼻をすすっていた。
私の代わりに、はじめて泣いてくれた人。
それが、ジークベルトだった。
ジークベルトは、削っていた木切れを私の膝に放った。
木彫りの小鳥だった。
手のひらに収まるくらいの大きさで、羽の一枚一枚まで刻んである。まだ削りかけなのか、尾のところだけ木肌が粗かった。
「退屈しのぎに彫っていただけだ。やる」
ジークベルトは、そっぽを向いていた。目元が、まだ赤かった。
私は小鳥を両手で包んだ。焚き火のぬくもりが移っていて、手のひらの中で、生きているように温かかった。木の匂いがした。
誰かから物をもらったのは、生まれて初めてだった。
塔では、物はいつも取り上げられるものだった。絹のドレスも、刺繍の糸も、客が帰れば戻された。私のものだと言えたのは、母の古い外套だけだった。
「ありがとうございます」
「礼はいい。木切れだ」
ジークベルトは私の隣に腰を下ろしはしなかった。立ったまま、焚き火のほうを見ていた。
「名前は」
私は口を開いて、閉じた。
ネフェリア。その名を名乗れば、どこかで誰かが魔塔に知らせるかもしれない。それに、あの名前で呼ばれて、いいことがあった覚えはなかった。
黙っている私を見て、ジークベルトは小さく息を吐いた。
「名前もないのか」
私は目を伏せた。
「なら、アマリアと呼ぶ」
私は顔を上げた。
「どうして、アマリアなんですか」
「呼びやすいからだ」
それだけだった。考えた様子もなかった。
けれど私は、その名を胸の中で一度、繰り返した。アマリア。器でも、魔塔の娘でもない名前。
「アマリア」
ジークベルトが、試すようにもう一度呼んだ。
「はい」
返事をした声が、自分のものではないように聞こえた。生まれて初めて、呼ばれて返事をしたかった名前だった。
「行く場所はあるのか」
首を横に振った。
「なら、私の影になれ」
影。
名門の家が抱える、主の護衛であり、身の回りの世話をする者。姓も身分も持たず、主のためだけに生きる者。塔にいたころ、貴族の屋敷にはそういう者がいると聞いたことがあった。
「若様、本気ですか」
年配の騎士が、焚き火の向こうで眉を上げた。
「お前は魔力があるだろう。さっき縄を切ったとき、手首から少し漏れていた。痩せっぽちだが、鍛えれば使える」
ジークベルトの声は、淡々としていた。騎士には答えず、私だけを見ていた。
使える。
塔でも、同じ言葉を何度も聞いた。この子は使える。この魔核は使える。
なのに、不思議と嫌ではなかった。
ジークベルトは、私がどこの誰かを知らない。魔塔の娘だとも、魔核の出来がいいとも知らない。泥だらけの、名前もない孤児を、ただ拾っただけだ。
身分抜きで誰かに手を差し伸べられたのは、生まれて初めてだった。
ジークベルトは焚き火の明かりを背にして、私を見下ろした。銀の髪の輪郭だけが、炎に縁取られて光っていた。
「先に言っておく」
「はい」
「影は主の前で死ぬものだ。それでもいいなら、ついて来い」
火の粉が、夜空へ上っていった。ひとつ、またひとつ。星にまぎれて、どれが火の粉でどれが星なのか、わからなくなった。
死ぬために生かされる。それなら、塔と同じだ。
けれど、塔の人たちは、私のために泣かなかった。
私は、木彫りの小鳥を握りしめた。
そして、うなずいた。




