第52話 幕
声が出た。
自分の喉から出た音だと、すぐにはわからなかった。
幕の中で、ユリウス様が石に指を置いていた。その姿が、にじんで、見えなくなった。頬を伝ったものが顎から落ちて、膝の上の手の甲を濡らした。烙印のない、まっすぐな指の手を。
止めようとして、止まらなかった。
ノエラが死んだ日も、カスパルが吊るされた日も、お腹の子が流れた夜も、私は声を上げなかった。森で拾われた夜でさえ、泣かなかった。泣いたのは、魔核を渡せと言われたあの夜の一度きり。あそこで、一生分を泣き尽くしたと思っていた。
違った。
肩が揺れた。息が、うまく吸えなかった。椅子の肘掛けをつかんで、体を折った。腰まである黒髪が、肩からすべって、膝の上に落ちた。喉の奥から、子どものような声がもれつづけた。星の部屋に、その声だけが響いていた。
女神様が、肘掛けから降りた。
何も言わずに、私の頭を胸に抱えた。光の匂いがした。
「ユリウス様が」
言葉が、途中で崩れた。
「生きていて。あんなに、大きくなって」
「うん」
「背が、伸びて。声も、低くなって。小さいころは、私の外套の裾を、離さなかったのに」
「うん」
「剣なんか、持たせたくなかった。あの子の手は、浄化のための手なのに。実の兄を、あの子の手で」
その先は、言えなかった。
「うん。わかってる」
女神様の手が、私の背中を、上から下へ、何度もなでた。鞭の痕のない背中を。
「でもね、あの子は自分で選んだの。あなたの代わりに、あなたの分まで。あの子の手が汚れたぶんは、あなたの加護がちゃんと守ってる」
どれくらい、そうしていたのかわからない。
息が、少しずつ落ち着いていった。顔を上げると、女神様の衣の胸もとが、私の涙で濡れていた。
「ごめんなさい」
「いいよ。やっと泣けたね」
女神様は、袖の端で私の頬を拭った。
「この部屋で、あの人のためには一滴も泣かなかったのに。あの子のためには、こんなに泣くんだ」
「はい」
「それで、いいと思うよ」
女神様は、少しだけ笑った。
「最後に、あとひとつだけ。見る?」
私は、うなずいた。
幕に、夜の書斎が映った。
燭台がひとつ。机に向かう、黒衣の背中。銀髪が、明かりの中で淡く光っていた。
ユリウス様は、書類を読んでいた。
厚い紙の束だった。いちばん上の一枚に、太い字で名前が記されていた。第二王子、フェルディナント。その下に、罪状が並んでいた。軍の物資の横流し。偽の密約。大逆罪の冤罪。処刑台の呪い。聖騎士邸への刺客。
机の端に、白っぽい川石が置かれていた。書類の束の角を、その石が押さえていた。
石の隣に、黒い紐で一巻きした白い糸の束と、安物の銀の指輪があった。聖騎士邸の書斎の、引き出しの奥にしまわれていたもの。指輪は、糸の束の上に、輪をくぐらせるように置かれていた。
私は、自分の指を見た。あの糸を最後の一本まで抜いたのは、この指だった。
ユリウス様が、引き出しから小さな箱を取り出した。
中に、新しい印章が入っていた。銀の柄に、雪狼の紋。五年前に、ヴェロニカが伯爵の書斎で盗み使ったものとは、別のものだった。
書類の最後の余白に、赤い蝋が垂らされた。
そこへ、印章が押し当てられた。
ユリウス様は、しばらく手を離さなかった。持ち上げると、蝋の上に雪狼が赤く残っていた。
穏やかな目もとは、変わらなかった。紙の上の名前を、ひと文字ずつ確かめるように見ていた。
扉が叩かれて、ハインツが盆を持って入ってきた。湯気の立つ杯が、ひとつ。
「伯爵様。もう、お休みになりませんと」
「あと一枚だけ」
「アマリアも、毎晩そう申しておりました。あと一軒だけ、と」
ユリウス様の手が、止まった。
「なら、なおさら」
ユリウス様は、杯を受け取って、両手で包んだ。ハインツは、燭台の芯を切って、出ていった。
燭台の炎が揺れた。
窓の外の、どこか高いところで、金色の光が一度だけ瞬いた。
「あ、来てる」
女神様が、幕を指さした。
「ときどき、あの子の窓を見に行ってるみたい。律儀だよね、あの鳥」
幕が、ゆっくりと下りてきた。
女神様が、片手を上げていた。白い布の裾が、星の床に触れた。
「ここまで」
女神様は、手を下ろした。
「これ以上は、あなたの物語じゃないから」
幕の向こうから、もう音はしなかった。
「あの人たちは、どうなるのでしょう。殿下も、ヴェロニカも」
「それも、あなたの物語じゃないよ」
女神様は、少し笑った。
「でもね、あの判、ずいぶん重そうだったでしょ。あの子、ぜったい手加減しないよ」
それから、私の顔をのぞきこんだ。
「あなたが救ったものは、全部ちゃんと残ってるよ。フェニックスも、あの子も」
あの子。
十三の冬に、荷馬車の幌から身を乗り出していた子。今夜、ひとりで書斎の燭台をともしている人。
私は、膝の上の手を見た。指輪のない、まっすぐな薬指。
銀の鈴を鳴らした夜、女神様に聞かれたことを思い出していた。後悔してる? あのとき、私は半分しか答えなかった。
「あの方を好きになったことは、後悔していません」
女神様は、黙って待っていた。
「好きでいつづけたことだけ、少し」
女神様は、私の手を取った。温かかった。
「うん」
それから、私を椅子から立たせた。
「次は、幸せになろう」
星の部屋の奥に、扉が開いていた。
背の高い、両開きの扉。すきまから、やわらかな光がこぼれている。花の匂いがした。遠くで、子どもの笑う声がした。
「ありがとうございました。女神様」
「お礼なんていいよ。またね」
扉の脇で、女神様が手を振っていた。いつもの、眠たそうな目で。
歩きだした。
一歩ごとに、何かがほどけていった。
最初に、雪の冷たさがほどけた。千段の石段の、膝の痛み。それから、地下牢の壁の爪の線。中庭の夜。
ヴェールの縫い目をほどいたときと、手ごたえが似ていた。ひと引きごとに、糸が指から抜けていく。
干し葡萄の焼き菓子と、インクの染みのある中指。半分に割った黒パンと、欠けた前歯の笑顔。林檎の木の根もとの、丸い石。
首すじに押しつけられた、羽の生えそろわない小さな体のぬくもり。暖炉の前で、曲がった指の節を押さないように、少しずつくぐらされた銀の輪。
ほどけた糸は、どこにも落ちなかった。光の中に溶けていった。
扉の手前で、銀色の髪の青年が、二人に見えた。ひとりは、血と泥の中の私に手を差し伸べていた。もうひとりは、燭台の下で印を押していた。
どちらが誰だったのか、もうわからなかった。
扉をくぐった。
最後に、名前が残った。
行く場所がないなら。誰かが、そう言ってつけてくれた名前。
その一本も、指からほどけた。
私は、光の中にいた。




