エピローグ 扉のない場所(ジークベルト)
胸を貫いた刃は、冷たかった。
冷たさのあとに、痛みが来た。熱い鉄を、胸の真ん中にねじこまれたような痛みだった。息を吸おうとすると、喉の奥から温かいものがあふれた。
痛い、と思った。
それから、わかった。
この痛みを、私は知らない。
五年前、尋問室で鞭を受けた夜、痛みは途中で消えた。牢番に二十打たれた日も。神前決闘で七度斬られた日も。処刑台で、黒い糸のような呪いを浴びた日も。私は、何も感じなかった。神の加護だと、思っていた。誇ってさえいた。
あれは全部、あいつの体に行っていたのだ。
この胸の痛みの、何倍もの痛みを、あいつは、声も出さずに受けていた。牢の階段で、自分の手首を噛んで。宿の床で、七つの傷を布で押さえて。
私は、そのあいだ、何をしていた。
神殿で白い外套を受け取り、拍手の中で胸を張っていた。
弟の肩に額をあずけたまま、雪の匂いをかいだ。ユリウスの黒衣は、修道院の煤と、冬の森の匂いがした。
この子が生きていることを、あいつは、四年、私に黙っていた。
黙っていた理由も、今ならわかる。私は、復讐を選んだ。父上の名を陽の当たる場所へ戻すと言った。あいつは、私が弟を人質にされないように、口を閉じた。
そして私は、父上と母上を処刑台へ送った女を、自分の手で救い出し、自分の家に入れた。その女の首には、私が贈った銀の雪狼が下がっていた。
膝の下で、雪がきしんだ。
頭の中に、いくつもの顔が浮かんだ。
パンを半分ちぎって、毎朝私の枕もとに置いていった赤毛の子ども。いつか、えらい騎士様になる人だもん、と笑った顔。その子の処刑命令書に、私は署名した。罪状を、一度も確かめずに。姉さんは悪くない、と叫んだ声を、私は聞かなかったことにした。
十年分の蓄えを差し出して、罪人の私の服を洗ってくれた侍女。若様をお一人にはできません、と膝をついた女。ヴェロニカの雷鞭で死んだとき、私は、事故だと言った。泣いている女の背中をなでながら。
お腹に、あなたの子がいます。
あいつは、そう言った。医者に診てもらえばわかる、と私の袖をつかんだ。私は、その指を一本ずつ外した。気のせいか、嘘だ、と言った。
その子の顔を、私は知らない。男だったのか、女だったのかも。名前を考えることさえ、しなかった。
あいつの顔だけは、知っている。
森で拾った夜の、痩せっぽちの娘。干し肉の匂いを何度も嗅いでいた。私が泣いたのを見て、灰色の目を、まんまるに見開いていた。
アマリア、と名づけた。
五つの冬、熱を出した私の額の布を、一晩じゅう替えてくれた乳母の名だった。春を待たずに死んだ人の名だった。
あいつには、とうとう言わなかった。言えば、拾った娘に情けをかけたことになる気がした。影に、そんなものはいらないと思った。
あの夜、私は、あいつの作り話に泣いた。
あいつの本当の話には、一度も泣かなかった。
視界が、白く滲んでいった。
気がつくと、何もない場所に立っていた。
白かった。上も、下も、どこまでも。痛みは消えていた。胸に手を当てると、傷はなかった。
けれど、手の甲には、罪人の印が浮いたままだった。左手の二本の指は、曲がったまま動かなかった。背中には、鞭の痕の熱が残っていた。脇腹の刺し傷が、息をするたびに疼いた。
あいつの傷は、ここまで、私についてきた。
「アマリア」
呼んだ。
声は、白い中に吸いこまれて、どこにも跳ね返らなかった。
「アマリア。いるんだろう。出てこい」
返事はなかった。
「命令だ」
言ってから、喉の奥で笑いがもれた。命令。この期に及んで、まだ私は、あいつに命じている。
「頼む。出てきてくれ」
返事はなかった。
どこかに、出口があるはずだった。扉でも、道でも、何でもいい。この白い場所の向こうに、あいつがいるのなら。
探した。白い中を、歩いた。走った。転んで、また走った。どこまで行っても、白いだけだった。振り返っても、自分の足跡さえ残っていなかった。
壁を叩こうとした。壁は、なかった。地面を掘ろうとした。無縁墓地の土をかいたときのように、爪を立てた。白いものは、爪の先で何の手ごたえも返さなかった。
どれほどの時がたったのか、わからなかった。腹もすかず、眠くもならなかった。ただ、傷だけが痛んだ。
扉は、なかった。
遠くで、澄んだ音がした。
小さな鈴の音だった。一度だけ。それきり、二度と鳴らなかった。
誰かを呼ぶ音だった。私を呼ぶ音ではないことだけは、なぜか、わかった。
音のしたほうへ、走った。
何もなかった。
私は、白い中に座りこんだ。
手のひらを開いた。何もなかった。雪の上に落とした川石は、ここまでは持ってこられなかった。
あいつは、私に、何もかもくれた。名前も持たずに。礼の一言も、求めずに。傷も、痛みも、回復核も、魔核も、七年も、子も。
私は、あいつに、値をつけた。金でも、屋敷でも。妾の席で、十分だろうと。
「アマリア」
もう一度だけ、呼んだ。声は、もう掠れていた。
「すまなかった」
初めて口にした言葉だった。聞く者は、どこにもいなかった。
影が、主の前で死ぬのは当然だと思っていた。拾ったときに、自分でそう教えた。
影は、主の前で死んだ。
主は、その死に、気づきもしなかった。
白い場所に、扉は、最後まで現れなかった。




