第51話 弟
雪が降りはじめていた。
通りの雪を踏んで、青年が門の前まで歩いてきた。足音は、ほとんどしなかった。
背が高かった。肩幅は、まだ少し薄い。銀髪は襟足にかかる長さで、前髪をうしろへ流していた。切れ長の目に、通った鼻筋。
八年前、街道で私に手を差し伸べた人と、同じ顔だった。
違うのは、目もとだけだった。薄い氷の色の瞳が、門の内側に立つあの人のものよりずっと穏やかだった。修道院の質素な黒衣は、旅の埃で白っぽくなっていた。腰の剣は、柄の革が擦り切れた古いものだった。右手にだけ、黒い革の手袋をはめていた。
十三の冬、監獄塔で、ユリウス様も一族と一緒に右手の甲へ焼き印を押された。罪人、の二文字。その手袋の下に、今もあるはずだった。
修道院の門番のおじいさんが、剣を教えてくれる。若いころに使っていた剣を、くれるって。私が死ぬ前の秋の手紙に、ユリウス様はそう書いていた。
ユリウス様。
十三の冬に、荷馬車の幌から身を乗り出して、私を呼んだ子。十八になっていた。
あの人の手から、力が抜けた。握っていた石が、指のあいだで傾いた。
「ユリウス」
かすれた声だった。
「お前は、獄中で。熱病で」
「兄上」
ユリウス様は、門の格子の手前で足を止めた。
「アマリア姉さんは、どこですか」
あの人は、答えなかった。
「答えてください」
あの人の唇が動いて、何も出てこなかった。
「四年あまり、ひと月に一度、手紙が来ました。クロが運んで」
ユリウス様の声は、静かだった。
「兄上の牢の鍵のことも。姉さんの回復核のことも。千段の石段のことも。兄上が聖騎士になったことも。もうすぐ迎えに行けると、書いてありました」
「生きていたのなら、なぜ」
「姉さんが、黙っていてくれと。兄上が復讐を選んだから、僕が人質にされないようにと」
あの人の肩が、一度揺れた。
「姉さんの手紙には、自分の傷のことは一度も書いてありませんでした。でも、クロが見せてくれました。手紙を運んでくるたびに、頭の中に、ビジョンになって」
小さいころから、そうだった。浄化の力で羽を清めてやると、クロの見てきたものが、ユリウス様には見えた。
「兄上の傷を、姉さんが全部、代わりに受けていたことも。牢の階段で、自分の手首を噛んで、声を殺していたことも。魔核を抜かれた夜のことも」
ユリウス様は、自分の胸に手を当てた。
「それに、姉さんは、最後に僕と誓約を結んでくれました。あの夜、姉さんの見てきたものが、全部、ここに流れこんできた。クロのビジョンよりも、ずっとはっきりと」
薄い青の瞳が、あの人をまっすぐに見た。
「姉さんの目で、見ました。兄上が、姉さんに何をしたのか。冬の中庭も、首飾りも、カスパルの処刑命令書も。お医者様を、と袖をつかんだ指を、兄上が一本ずつ外したのも」
ユリウス様は、一度だけ息を継いだ。
「ヴェロニカが、父上の印章に、兄上の贈った銀の飾りを押し当てていた夜は、僕が自分で見ました。クロの目を借りて。兄上に話したら、くだらないと言われました」
黒衣の胸もとから、小さく折りたたんだ紙が出てきた。端に、半分だけ靴跡がついていた。
「去年の冬の終わりに、金色の鳥が修道院の上を三度回って、これを落としていきました。それきり、手紙は来ません」
ユリウス様は、紙を開いて、あの人に向けた。
『ユリウス様
ノエラも、カスパルも、子も、なくしました。
私は、もう去ります。
どうか、ユリウス様に、幸多からんことを』
私の、アマリアの字だった。
あの人は、その数行を見ていた。それから、握っていた石を、ユリウス様の前に差し出した。
「魔塔が、骨を持っていった。残ったのは、これだけだ」
ユリウス様は、石を見下ろした。受け取らなかった。
「ネフェリア・オストヴァルト。それが、姉さんの本当の名前です。兄上は、それも知らなかった」
あの人は、うなずいた。それだけだった。
雪が、二人の肩に積もりはじめていた。
「姉さんを影と呼んだ」
ひとつずつ、置いていくような声だった。
「子を殺した」
あの人の目が、伏せられた。
「父上と母上の仇を、家に入れた」
ユリウス様の右手が、剣の柄にかかった。
「兄上に、ヴィンターハルトの名を名乗る資格はありません」
古い剣が、鞘から抜けた。雪明かりに、刃こぼれのある刃が鈍く光った。
「剣を取ってください。ヴィンターハルトの名にかけて、決闘を申しこみます」
門の内側に、ハインツが立っていた。白い眉の下の目が、ユリウス様の顔から離れなかった。唇が、若様、と動いた。誰に向けた呼び方なのかは、わからなかった。
ハインツは、腰の剣を外して、あの人に差し出した。剣を持つ老いた手が、震えていた。
あの人は、剣を受け取った。
右手で柄を握った。左手を添えようとして、曲がった二本の指が、柄に添わなかった。剣先が下がった。手のひらの、神殿でつけられた傷が開いて、柄の革を赤く濡らした。
剣が、雪の上に落ちた。
あの人は、拾わなかった。
ユリウス様の剣先が、わずかに揺れた。
「拾ってください」
「いい」
「拾ってください、兄上」
「いいんだ」
あの人は、石を握ったまま、雪の上に立っていた。
「ユリウス」
「はい」
「あいつは、私を恨んでいたか」
ユリウス様は、すぐには答えなかった。
雪の落ちる音さえ、聞こえそうだった。
「いいえ」
剣を握る指が、白くなっていた。
「姉さんは最後まで、兄上の悪口を一度も書きませんでした」
あの人の眉尻の古い傷が、一度だけ動いた。
「そうか」
それから、目を閉じた。
ユリウス様が、踏みこんだ。
古い剣が、黒い外套の胸を貫いた。
風の音しか、しなかった。
あの人の膝が、雪に沈んだ。ユリウス様は、剣を手放さずに、その肩を支えた。兄の体が前に傾いて、弟の黒衣の肩に、灰色がかった銀色の頭がのった。
握られていた手がひらいた。白っぽい川石が、雪の上に転がった。
ユリウス様の背中が、震えていた。
しばらくして、ユリウス様は兄の体を雪の上に横たえた。それから膝をついて、転がった石を拾った。黒衣の袖で、石についた雪と泥を拭った。鋤のかすった白い筋は、拭っても消えなかった。
ユリウス様は、石を両手で包んで、胸に当てた。
私は、椅子から身を乗り出していた。幕に、手が届くはずもないのに。
「少し飛ばすね」
女神様の声が、いつもより低かった。
「ひと月後。王宮」
玉座の間に、黒衣の青年が膝をついていた。
その前の床に、泥のついた小さな木箱が置かれていた。黒い百合の封蝋の手紙の束。帳面の切れ端。神殿の処置記録の写し。ヴェロニカの侍女の、ハインツが書き取った証言。
「一族の罪は、第二王子殿下が仕組んだ冤罪でございます」
ユリウス様の声は、玉座の間の高い天井まで届いた。
居並ぶ貴族たちが、どよめいた。
「ヴィンターハルトの次男、ユリウス。獄中で熱病で死んだことになっておりました者が、証人です」
「死んだはずの次男だと」
「殿下の名を、こんな場所で」
広間の脇の列から、ラーベン子爵が一歩前へ出て、王に頭を下げた。
「わしが、この若者の身元を請け合います。先代の伯爵に、生き写しでございましょう」
王は、長いあいだ箱の中の手紙を見ていた。黒い百合の封蝋を、一通ずつ指でめくっていった。広間の誰も、咳ひとつしなかった。
「ヴィンターハルト伯爵家の再興を認める」
広間が、大きくざわめいた。
「ユリウス・ヴィンターハルトに、伯爵の位を継がせる。神殿は、その手の印を消せ」
白い法衣の神官が進み出て、ユリウス様の右手の手袋を外させた。甲に、四角い焼き印があった。神官が銀の杖の先を当てると、罪人の二文字は、薄れて消えた。
ユリウス様は、頭を下げたまま、しばらく動かなかった。黒衣の背中は、もう震えていなかった。
「少し飛ばすね。その日の夕方」
王都の北の、古い屋敷だった。
門の鉄の飾りに、銀の雪狼。五年前に騎士団が破った門が、新しく打ち直されていた。
がらんとした書斎で、ユリウス様が机に向かっていた。机の上に、白っぽい川石がひとつ置いてあった。
ハインツが、新しい帳面を開いて控えていた。
「伯爵様。最初のご命令を」
ユリウス様は、印の消えた右手の指を、石に置いた。
「ネフェリア・オストヴァルトを」
一度、言葉を切った。
「伯爵家の恩人として、家の記録に残せ」




