第50話 魔塔の回収
礼拝室の扉が、ノックもなく開いた。
冷たい風と一緒に、乾いた薬草と金属の匂いが入ってきた。塔の廊下の匂いだった。
最初に入ってきたのは、背の高い男だった。白いものの混じった黒髪を、うしろでひとつに束ねている。裾の長い灰色の上衣に、銀の鎖。灰色の目が、部屋の中のものを順に値踏みしていった。燭台。祭壇。棺。人の顔は、最後だった。
父だった。
うしろに、深紅の絹のドレスの女が続いた。濃い化粧の下で、頬が内側からつやつやと光っていた。テオドラ。その隣に、父をそのまま若くしたような男。兄のベネディクトだった。最後に、扇で口もとを隠した義母が、敷居の手前で足を止めた。
「まあ、狭い。それに、かび臭い」
義母は、礼拝室の中を見回して、扇の陰で眉をひそめた。
「あの女の子どもには、似合いの場所ね」
棺の上から、黒い外套の男が立ち上がった。
「何の用だ」
「我が家の持ち物を返してもらおう」
父は、棺に目を落とした。
「ネフェリア・オストヴァルトの遺骨を」
あの人は、棺の前から動かなかった。
「人違いだ。ここにいるのは、アマリアだ。身寄りのない孤児の」
テオドラが、声を立てて笑った。
「孤児ですって。あの子、そう名乗ってたの。両親は戦で死にました、とでも? かわいそうなふりが、昔から上手な子だったわ」
「わしの娘だ」
父は、手袋を外しながら言った。
「外で産ませた中で、いちばん出来がよかった。十の検分で、魔核と回復核の二つ持ちと出たから、家に入れてやった。十五の春に、第六王子の妃か、王弟殿下の妾か、好きなほうを選ばせてやったら、その夜のうちに塔から消えた。恩知らずにもな」
あの人の手袋の指が、外套の胸を押さえた。
「国境の川を越えたところで、盗賊に囲まれていた。あいつは、行く場所がないと言った」
「行く場所なら、あった。王家の寝台がな」
父は、外した手袋をたたんで、上衣の隠しに入れた。
「拾ったのはお前か。盗賊に売らせておけば、塔が買い戻して、それで済んだものを。おかげで、王家との縁談がふたつ流れた」
父は、もう一度棺を見下ろした。
「それにしても、こんなに若くして死なせるとはな。二十二だぞ。塔で毒を盛られても、刺客に狙われても、あれは死ななかった。それが、お前のところでは七年ともたなかった」
父の口の端が、わずかに上がった。
「よほど、ひどい扱いをしたらしい。塔よりもな」
義母が、扇の陰でくすくす笑った。
父が、棺の上に手のひらをかざした。手のひらが、白く光った。棺の蓋が、ひとりでに持ち上がって、壁に立てかかった。灰色の目の縁に、細い銀の輪が浮かんでいた。
テオドラが、指を鳴らした。燭台の炎が、ひと息に高くなった。その炎を映したテオドラの瞳の縁にも、同じ輪が浮かんだ。
あの人が、父の顔を見ていた。それから、テオドラの顔を。
「その目は」
声が、かすれていた。
「あいつも、同じ目をしていた。魔力を使うときだけ」
「当然だ。わしの血だからな」
父は、棺の中から目を離さずに言った。
「七年も隣にいて、それにも気づかなかったか。何を見ていた」
父は棺の縁に指をかけて、身をかがめた。骨の太さを、指の幅で測っていた。
「悪くない。これだけの魔力を宿した骨は、そうは出ない。魔術の素材として、塔の一年分の値はつく。頭蓋は触媒に、指の骨は杖の芯に」
兄が、棺をのぞきこんだ。うっとりと目を細めていた。ランプの下で私を呼び止めた晩と、同じ顔だった。
「約束どおりだね、ネフェリア」
棺の中に向かって、恋人にささやくような声で言った。
「死んだら、遺体は私にくれると言っただろう。返事はなかったけど、いいよね」
それから、父を振り返った。
「胸の骨は、私にください。二つの核が根を張っていた跡は、骨に残るはずです。二つ持ちの骨なんて、一生に一度、見られるかどうかだ。やっと開ける」
兄の指先が、棺の縁の上で、待ちきれないように動いていた。
下働きの男たちが、黒い漆の箱を運びこんだ。
テオドラが、あの人の前に立った。深紅の袖から、白い手首がのぞいていた。指輪の縁で自分の指先を軽く切ってみせた。血が一粒ふくらんで、ゆっくりと塞がった。前ほど速くはなかった。
「あの子が死んでから、少し鈍ったのよ。移した核は、もとの持ち主が生きているほうがよく働くの。せっかく生かしておいたのに、あなたが死なせたの。私の大事な回復核を、どうしてくれるの」
テオドラは、塞がりきらない指先を舐めた。
「それでも、あの子の回復核は、今も私の中にあるわ。あなたを助けるために差し出したの。処刑台に上がるはずだった、伯爵家の長男さんを」
テオドラは、首をかしげた。
「知らなかった?」
あの人の唇が、動いた。
「だから、あいつの傷は」
その先は、言葉にならなかった。
「ええ、治らなかったでしょうね。あの子、自分の傷はもう一生治せなかったの。背中の鞭の痕、まだあった?」
テオドラは、楽しそうに笑った。
父が、箱の蓋を開けさせた。下働きの男たちが、棺に手を入れた。
あの人が、棺の縁をつかんだ。黒い手袋の右手で。
「待ってくれ」
膝が、床についた。
「せめて、墓だけは。ここに、置かせてくれ。頼む。金なら、どれほどでも」
「金?」
父が、眉を上げた。
「位を取り上げられ、屋敷も預かりものにすぎん男が、何で払う。罪人の印のついた手でか」
父は、その手を見下ろした。
「墓など、骨の置き場にすぎん」
義母が、扇の陰で声を立てて笑った。
「床に膝をつくのがお上手ね。元の聖騎士様。あの女の子どもとお似合いだわ。拾った犬と、拾われた犬」
父の目が、ようやくあの人の顔に来た。上から下まで眺めた。灰色になった銀髪。こけた頬。黒い外套の下の、紋だけが残った上着。
「お前の使い方では、ろくな結果にならなかったな」
父の声は、塔の執務室で縁談を告げたときと、少しも変わらなかった。
「傷のつかない騎士。神前決闘で、斬られても血を流さなかった男。噂は国境の向こうにも届いていた。わしには、すぐにわかったぞ。影の誓約だ。それも、とびきり上等な魔力の」
父は、外套の合わせ目からのぞく雪狼の紋を、指の先で示した。
「お前が聖騎士になれたのはネフェリアのおかげだろう。加護など、はじめからどこにもなかった。あれが、体を削って、お前に貸していただけだ」
父は、鼻で笑った。
「あれを死なせれば聖騎士でいられないことも、わからなかったのか。愚かの極みだな。わしなら、あれの魔力で、お前を王にしてやることもできた」
兄が、くすりと笑った。
「父上、無理ですよ。この人には、道具の手入れという考えがないんです」
あの人が、立ち上がりかけた。右手が、腰の剣の柄に触れた。
柄を握ろうとした指が、滑った。
父は、そちらを見もしなかった。
「やめておけ。今のお前の腕で抜けば、自分の足を斬るのが落ちだ」
あの人の手が、剣の柄から離れた。
骨が、白い布にくるまれて、箱に移されていった。下働きの男たちの手つきは、塔の薬草蔵で乾いた根を箱に詰めるときと同じだった。胸の骨だけは、兄が自分の手で布に包んで、懐に抱いた。
義母は、最後まで敷居をまたがなかった。
最後に、父が、骨の取り除かれた棺の底へ手を入れた。私の、アマリアの骨が胸に抱いていたものを拾い上げて、目の高さに掲げた。
白っぽい、丸い川石だった。
「魔力の名残もない。ただの石だ」
テオドラが、肩をすくめた。
「神殿の書庫番は、何でも売ってくれるのよ。処置の記録も読んだわ。子まで流したんですってね。あなたの子を、あなたの命令で」
父は、石を放った。
石は床で一度跳ねて、あの人の膝の前で止まった。鋤のかすった白い筋が、上を向いていた。
「これはお前の子のものだろう」
箱の蓋が閉じられた。
私は、幕を見ていた。
頬に手を当てると、何も動いていなかった。眉も、唇も。塔の者たちが、魔塔の人形と呼んだ顔に、いつのまにか戻っていた。
「あなたの家族って、なかなか見ないくらいのひどさね」
女神様が言った。
「はい」
自分の声が、遠くで聞こえた。
「だから、逃げたんです。逃げた先で、あの方に会いました」
「あの人だけは違うと思った?」
「思いました」
幕の中で、あの人が床の石を両手で拾い上げていた。
「違いませんでしたね」
女神様は、何も言わずに、私の手を取った。
魔塔の馬車の列が、門を出ていった。黒い漆の箱を載せた馬車が、最後に角を曲がった。窓から、義母の扇がひらひらと振られた。
あの人は、門の外に立っていた。石を握ったまま、馬車の消えた通りを見ていた。冬の風が、黒い外套の裾を鳴らしていた。
通りの反対側に、人がひとり立っていた。
ずっと前から、そこにいたらしかった。旅の埃にまみれた、質素な黒衣。腰に、古びた剣。
風が、その人の頭巾を払った。
銀髪だった。
青い瞳が、門の外のあの人をまっすぐに見ていた。




