第49話 甘くなった守り
真夜中の地下牢の階段で、衛兵が椅子にもたれて眠っていた。
足もとに、空の酒の瓶が転がっていた。誰が置いていったのかは、幕には映らなかった。
中庭の塀の上に、黒ずくめの男が三人並んだ。私が毎晩手を当てていた、あの石のあたりだった。男たちは、雪の上に足跡を残して下りてきた。
「これが、聖騎士邸か」
ひとりが、覆面の下で笑った。
「番犬一匹いやしない。昔は、塀に触れただけで指が焼けたそうだがな」
「影が死んだんだと。おまけに、主は寝たきりのふりだ」
どこからも、鳴き声はしなかった。屋根にも、楡の枝にも、黒い小さな見張りはいなかった。
ひとりが、衛兵の腰から鍵の輪を外した。衛兵は、いびきをかいたまま動かなかった。
牢の中で、ヴェロニカが顔を上げた。格子の外の黒い覆面を見て、声を立てずに笑った。
「遅いわよ。もう少しで、首を落とされるところだったんだから」
「殿下のお迎えです」
差し出された手に、自分から手を重ねた。
階段を上がるとき、ヴェロニカは一度だけ振り返った。牢の壁の、爪の線のほうを。
「あの人の顔、見られないのが残念」
それから、出ていった。
空になった牢の藁の上に、白い紙が一枚残された。黒い百合の封蝋が押してあった。
「朝」
女神様が短く言った。
牢の格子の前に、ジークベルト様が立っていた。
手袋の右手に、紙を持っていた。幕に、その文字が大きく映った。流れるような、きれいな字だった。
『影のいない聖騎士邸は、ずいぶん守りが甘くなったね』
署名はなかった。
ジークベルト様の指が、紙を握った。紙の端が、指のあいだで折れた。左手は、曲がった二本の指を浮かせたまま、脇に下がっていた。
階段の上で、目を覚ました衛兵が、青い顔でハインツにすがっていた。
「酒なんて、飲むつもりはなかったんです。気がついたら、瓶が」
使用人棟の廊下では、もう噂が走っていた。
「ヴェロニカ様が、消えたって」
「殿下のところだよ。決まってる」
「聖騎士様、妻にも逃げられたのね」
「少し飛ばすね。同じ日の夕方。こっちは、殿下の離宮」
白い石の柱の並ぶ、暖かい部屋だった。窓の外に、葡萄棚が見えた。
ヴェロニカが、湯を使ったあとの濡れた髪で、長椅子に座る殿下の膝にすがりついていた。
「来てくださると思っていたわ。あの人、本気で私を殺すつもりだったのよ。雪の中に一晩立たせて、鞭で打たせたの。ひどいでしょう」
「怖かったね」
殿下は、ヴェロニカの髪をなでた。
なでた手に、蜂蜜色の髪がひと束、ついてきた。殿下はそれを指から払って、絨毯の上に落とした。笑顔は、少しも動かなかった。
「顔色が悪い。胸の具合を、診てもらおう」
「胸?」
「せっかく手に入れた魔核だ。具合が悪いなら、もっと合う器に移してあげないとね。君の肌じゃ、もう持たないだろう」
殿下の目は、ヴェロニカの顔を見ていなかった。寝間着の胸もと。私の魔核のある場所に、止まっていた。
部屋の扉が開いた。
白い法衣の男が、銀の盥を抱えた下働きを連れて入ってきた。オルバンだった。
ヴェロニカが、殿下の膝から手を離した。
「殿下。私の部屋を、くださるって。宮に」
「うん。約束したね。その胸が元気なうちは、って」
殿下は、逃げようとしたその手を、やさしく取りなおした。
「大丈夫。眠っているうちに終わるよ。君がアマリアという子にしたのと、同じようにね」
ヴェロニカの口が開いた。悲鳴が出る前に、幕が白くなった。
女神様が、肘掛けの上で足をぶらぶらさせた。
「逃げられちゃったね」
私は、白い幕を見ていた。
「あの方らしいです」
ジークベルト様のことだった。
「いつも、肝心なところで間に合わない」
女神様は、ふうん、とだけ言った。
「少し飛ばすね。満月の日」
神殿だった。
高い天井の窓から、白い月の光が祭壇に落ちていた。神官たちが、祭壇の両脇に並んでいた。下の席には、貴族と、王宮の役人と、物見高い町の人たちがぎっしりと詰めかけていた。入りきれない者が、扉の外の石段にまであふれていた。
「傷ひとつつかない聖騎士様が、刺客に斬られたってさ」
「奥方には、殿下のところへ逃げられたって」
「無縁墓地を素手で掘ってたのを、見た者がいるらしい」
ざわめきは、ジークベルト様が祭壇の前に進み出ても、止まなかった。
白い外套を着ていた。胸に、金の太陽の刺繍。その下の濃紺の上着には、銀糸の雪狼。くすんだ銀髪を、うしろへ流していた。頬がこけて、白い外套の肩が余っていた。
年かさの神官が、銀の小刀を捧げ持って進み出た。
「聖騎士ジークベルト・ヴィンターハルト。神の加護を、ここにお示しください」
神殿が、静まり返った。
神前決闘の日、七度の剣を受けて、傷ひとつつかなかった体。王都の誰もが、その話を知っていた。今夜もまた、と待つ顔が、いくつもあった。
小刀の刃が、ジークベルト様の手のひらに当てられた。
刃が、引かれた。
手のひらに、赤い線が走った。線から、血がふくらんで、祭壇の白い石に落ちた。
小刀を持つ神官の白い袖に、赤い点がひとつ跳ねた。神官は、袖を見下ろしたまま動かなかった。
次の瞬間、神殿が割れるようにどよめいた。
「血だ」
「血が出た。加護なんて、なかったんだ」
「偽物だ。神殿をだましてたんだ」
「半年も、俺たちは何を拝んでたんだ」
ジークベルト様は、自分の手のひらを見下ろしていた。血は、止まらなかった。
あの日、神殿がジークベルト様に加護を認めたとき、私はその場にいなかった。下町の宿の床で、七つの傷を布で押さえていた。
加護をなくす日は、こうして見ている。
年かさの神官が、杖で床を三度打った。ざわめきが、少しずつ引いていった。
「加護は、示されませんでした」
神官の声が、天井に響いた。
「神殿は、聖騎士の位を返していただきます」
神官が二人、ジークベルト様のうしろに回った。白い外套の留め金が外された。
外套が、肩からすべり落ちた。金の太陽の刺繍が、祭壇の石の上で、月の光を受けて一度だけ光った。
ジークベルト様は、拾わなかった。
白い外套の下から現れたのは、濃紺の上着だった。胸の銀の雪狼が、月の光の中に残った。滅びた家の紋だけが。
下の席で、誰かが声を上げて笑った。それにつられて、あちこちで笑いが起きた。
「ただの罪人の息子に戻ったな」
「雪狼さまのお帰りだ」
ジークベルト様は、血の落ちる手を下げたまま、神殿の扉へ歩いていった。誰も、道をあけなかった。誰も、ふさがなかった。石段の人垣が割れて、また閉じた。その背中に、誰かの投げた萎れた花が当たって、落ちた。
扉の外で、ハインツが待っていた。黒い外套を広げて、骨の浮いた肩に掛けた。
「神官様から、言付けでございます。王から賜ったお屋敷は、次の聖騎士が決まるまで、このまま旦那様にお預けする。追って沙汰する、と」
「そうか」
外套の前を合わせなかった。手のひらの血が、黒い裾に落ちて見えなくなった。
「ハインツ。お前も、暇を取れ」
「伯爵家のころからお仕えしております。いまさら、ほかへは参りません」
ハインツは、それきり口を閉じて、馬車の扉を開けた。
聖騎士様、と呼ぶ理由も、これでなくなった。
「少し大きく飛ばすね。一年たった」
女神様が、私の隣で言った。幕の中は、また冬になっていた。
使用人棟の小さな礼拝室に、松の棺がひとつ置かれていた。ノエラが寝かされたのと同じ部屋だった。蓋の上に、黒い外套の男が、朝から座っていた。銀髪は、もうほとんど灰色だった。
聖騎士邸だった屋敷の門の前に、馬車が列をなして止まった。
黒塗りの、窓の小さな馬車が五台。国境の向こうから来た馬車だった。扉に、紋章が描かれていた。塔と、その上に輝く星。
十五の春に、私が裏の通用口から逃げ出した家の紋だった。




