第48話 同じ地下牢
石の階段を、裸足のかかとが引きずられていった。
「放して。無礼者。私を誰だと思ってるの。聖騎士夫人よ」
衛兵二人に腕を取られて、ヴェロニカが地下へ下りていく。淡い桃色の寝間着の裾が、濡れた段をこすった。蜂蜜色の髪はほどけたままで、ところどころ地肌が透けていた。
「ジークベルト、何かの間違いよ。ねえ、ジークベルト」
牢の扉が開いた。
低い天井。壁の鉄の輪。藁を敷いた石の床。かびと、古い血の匂いがした。
私は、その牢を知っていた。
壁の低いところに、短い線が並んでいた。爪で引いた線。ここで日を数えるのに、私が引いたものだった。七本目を引いた日の夕方に、牢から出された。
ヴェロニカが、その線の前に突き飛ばされた。
「汚い。何よここ。ねずみがいるじゃない」
階段の上の廊下では、ヴェロニカの侍女が、ハインツの前に膝をついていた。前掛けを両手で握りしめて、同じことを繰り返していた。
「ヴェロニカ様に言われたとおりにしただけです。私は、言われたとおりに。逆らったら雷鞭だって。侍女頭さんみたいになるって」
ハインツは帳面を開いて、侍女の言うことを一行ずつ書き取っていた。
使用人棟の窓という窓に、顔が並んでいた。
「ヴェロニカ様が、地下牢に」
「首飾りも、毒の茶も、全部ご自分で仕組んでたんだって」
「じゃあ、アマリアさんは」
「しっ。聞こえるよ」
ジークベルト様は、鉄格子の外に立っていた。墓地の泥が、上着の裾でまだ乾ききっていなかった。爪の割れた右手に、布が巻いてあった。
「侍女が、もう話した」
ジークベルト様が言った。
「首飾りを鏡台に入れたこと。人形を寝台の下に置いたこと。毒の茶のこと。お前の部屋の文箱からは、殿下の手紙が十二通出た」
「あの子は嘘つきなの。私を妬んで」
「お前がアマリアにしたことを、すべて言え」
「何もしていないわ。信じて。あなたは、私を信じてくれる人でしょう。牢の中のあなたに、パンを届けたのは誰? 生きる望みをあげたのは、私じゃない」
ジークベルト様の指が、格子をつかんだ。
「パンを届けたのは、アマリアだ。お前ではない。今は、わかる」
ヴェロニカは、格子にすがりついた。灰色のまだらが、指の甲に浮いていた。
ジークベルト様は、格子から一歩下がった。目が、ヴェロニカの背後の壁に行った。爪の線の上で、しばらく止まっていた。
ヴェロニカは、その目を追わなかった。寝間着の胸もとを、両手で押さえた。
「私を傷つけたら、ここにあるものも傷むのよ。あの女の魔核よ。私が死んだら、これも一緒に死ぬの。あの女の最後のかけらが」
「中庭へ出せ。夜明けまで」
幕の中で、夜の中庭に雪が降っていた。
ヴェロニカは、寝間着一枚で、雪の真ん中に立たされていた。衛兵が、両脇で槍を立てていた。
ジークベルト様は、回廊の柱のそばにいた。白い外套も、黒い外套も着ていなかった。
「寒い。寒いわ。誰か、毛布を」
誰も動かなかった。回廊の陰で、下働きの娘たちが身を寄せ合って見ていた。
「アマリアさんも、ここに一晩立たされたんだよね」
「あのときは、ヴェロニカ様が、寒かったでしょうって、お茶を持ってきて」
「自分で仕組んだくせに」
夜が更けると、ヴェロニカの指先に白い光がともった。頬に当てた。光は、すぐに細って消えた。もう一度ともそうとして、ともらなかった。
「どうして。どうしてつかないの」
頬のまだらが、首へ、肩へ広がっていった。髪をかき上げた指に、蜂蜜色の束が絡んで抜けた。雪の上に、金色の筋が散った。ヴェロニカは、それを見て悲鳴を上げた。
「見ないで。見ないでよ」
「見てて、すっきりする?」
女神様が、肘掛けの上で聞いた。
「いいえ」
私は、幕の中の雪を見ていた。
「あの庭は、夜明け前がいちばん冷えます」
女神様は、それ以上聞かなかった。
夜明け前、ハインツが回廊に湯気の立つ杯を運んできた。ジークベルト様は受け取って、口をつけずに雪の中へ歩いていった。
ヴェロニカが、杯に手を伸ばした。
ジークベルト様は、杯を傾けた。茶は、ヴェロニカの足もとの雪に落ちて、小さな穴をあけた。湯気が上がって、すぐに消えた。
「寒かっただろう」
ジークベルト様の声は、平らだった。
あの朝、冬の中庭で、湯気の立つ茶碗を持って私の前に現れたのはヴェロニカだった。寒かったでしょう、と差し出して、私が受け取らないと、自分で一口すすった。
夜明けに、ジークベルト様は鞭を手に取った。
握れなかった。曲がった二本の指が柄に添わず、鞭は手から抜けて雪に落ちた。ジークベルト様はそれを拾って、衛兵に渡した。
「打て。言うまで」
鞭が鳴った。一度。二度。ヴェロニカの悲鳴が、中庭の塀に跳ね返った。
三度目の前に、ヴェロニカが叫んだ。
「言うわ。言うから」
ヴェロニカは雪の上に膝をついて、話した。
首飾りのこと。階段のこと。毒の茶のこと。人形のこと。薔薇のこと。赤毛の従者に罪を着せたこと。侍女頭を打ったこと。オルバンに金を渡したこと。
どれも、四日前の夜に、続き部屋で笑いながら話したことだった。今朝は、鼻水をすすり、泣きながら話していた。
ジークベルト様は、最後まで黙って聞いていた。
「地下へ戻せ」
昼過ぎ、牢の中で、ヴェロニカは藁の上に座っていた。
寝間着の背中が、細く裂けていた。目のまわりが赤く腫れていた。それでも、格子の外の足音を聞くと、顔を上げた。
ジークベルト様だった。
「許して。お願い、ジークベルト。殿下に脅されていたの。逆らったら、私も父と同じにされるって。私だって、被害者なのよ」
ジークベルト様は、答えなかった。
「ねえ、愛してるの。初めて会ったときから。あの夜会の庭で、あなたが私を見ていたのも、知ってたわ」
ジークベルト様は、答えなかった。
ヴェロニカの泣き声が、少しずつ低くなった。肩の震えが止まった。
それから、笑った。
口の端だけを上げる、あの笑い方だった。
「ねえ」
ヴェロニカは、格子のほうへ膝で寄った。
「私を責める前に、自分を責めたら?」
ジークベルト様の手袋の指が、格子の外で止まった。
「あの女を地下牢に入れたのも、鞭で打たせたのも、冬の庭に立たせたのも、あなた。赤毛の子の命令書に名前を書いたのも、あなた。侍女頭が死んだとき、私の背中をなでて、もういいって言ったのも、あなた」
ヴェロニカは、壁の爪の線に背をもたせかけた。
「子どもを殺したのも、あなたでしょう。医者を呼ばなかったのは、誰? 私じゃないわ。私はただ、お願いしただけ。決めたのは、全部あなた」
ヴェロニカは、声を立てて笑いだした。笑いは、牢の低い天井にこもって、いつまでも消えなかった。
「あの女があなたのために何をしてたか、七年もそばに置いて、気づかなかったのは誰? 私は、ひと目で気づいたわよ。あなたって、本当に、おめでたい人」
ジークベルト様の唇が、動いた。
声は出なかった。
眉尻の古い傷が、一度だけ引きつった。言い返す言葉を探すように、口がもう一度開いて、閉じた。
牢の天井から、水が一滴落ちた。藁の上で、小さな音がした。
ジークベルト様は、格子に背を向けた。
「聖騎士の屋敷で起きた罪は、聖騎士が裁く」
階段の一段目に足をかけたまま、振り向かずに言った。
「明朝、処刑する」
背中に、笑い声が届いた。
牢の中で、ヴェロニカが、抜けた髪を指に巻きつけていた。若葉色の目だけが、格子の向こうで光っていた。
「できるかしら」
楽しそうな声だった。
「影のいない、このお屋敷で」




