第47話 名もない墓
夜が明けると、ジークベルト様は自分で長靴をはいた。
寝台の脇に、ハインツが黒い外套を抱えて立っていた。
「お体が。ゆうべ、あれほど」
「馬を」
ジークベルト様は、外套を受け取らなかった。白い外套も、壁に掛けたままだった。寝間着の上に厚い上着を着こんで、黒い手袋をはめた。額に、絨毯に打ちつけた赤い痣が残っていた。左手の二本の指は、手袋の中でも曲がったままだった。
ゆうべの羊皮紙と、帳面の切れ端と、ノエラの手紙が、上着の内側に入っていった。
「ヴェロニカ様には、何と」
「何も言うな。まだだ」
「少し飛ばすね。三日」
女神様が言った。
幕の中で、ジークベルト様は馬を下りては、また乗った。
北の街道の宿。宿の主人は、帳場から顔も上げなかった。
「黒髪の、手袋の娘? 知らないね。聖騎士様の影なら、聖騎士様が一番よくご存じだろうに」
下町の孤児院。年老いた修道女が、門の前で首を振った。
「あの方は、毎月、子どもたちの靴代を置いていってくださいました。ご自分の靴は、底が抜けていたのに。お探しになるのが、遅すぎやしませんか」
麦わら亭の、油じみた帳場。女将が、腕を組んで立ちふさがった。
「あんた、あの子に何をしたんだい。罪人だったあんたのために、あの子がこの下町で、朝から夜中まで魔力を売って回ってたのは、このへんの者ならみんな知ってるよ。自分は黒パンひとつで、あんたには肉の入ったスープを買ってた」
ジークベルト様は、何も言い返さなかった。
三日目の夕方、ジークベルト様は、下町の路地に立っていた。
隠れ家の宿の、裏手だった。崩れかけた石段に、ぼろを着た男の子が座っていた。裏門の格子にしがみついていた、あの男の子だった。
「姉さん、見つかったの」
ジークベルト様は、首を横に振った。
男の子は、膝を抱えた。それから、鼻をこすった。
「あの晩さ。姉さんが、いなくなった翌日の晩。ぼく、まだ裏門を見張ってた。墓掘りのじいさんの荷車が出てった。何か白いの、積んでた。人くらいの長さの」
ジークベルト様の手袋の指が、上着の胸を押さえた。
男の子は、ジークベルト様の白くない上着を、上から下まで見た。
「カスパル兄ちゃん、言ってたよ。あの人は、いつかえらい騎士様になるんだって。なったの?」
ジークベルト様は、答えなかった。
「じいさんの小屋、あっち。川のほう」
墓掘りの老人の小屋は、川べりのさらに先にあった。
戸口に出てきた老人は、ジークベルト様の顔を見て、青くなって帽子を脱いだ。それから黙って奥へ入り、小さな革袋を持って戻ってきた。口の紐は、結ばれたままだった。
「一枚も、使えませんでした」
老人は、革袋をジークベルト様の手にのせた。手が、震えていた。
「お許しを。あの夜、名もない娘をひとり埋めました。お屋敷の裏門から運んで。誰にも言うなと、侍女さんに。言えば、わしも同じ穴に入ることになると」
「どこだ」
「胸に、石を抱いておりました。取ってやろうとしましたが、指が、どうしても開かなかった。あんなに細い指が」
ジークベルト様は、老人の襟をつかんだ。
「どこだ」
町はずれの斜面に、雨が降りだしていた。
石も木の札も立っていない盛り土が、草の中に並んでいた。老人は、盛り土を端から指で数えていった。七つめの前で、足を止めた。そこだけ、まだ草が生えそろっていなかった。
ジークベルト様は、膝をついた。
老人が差し出した鋤を、受け取らなかった。手袋を外した。右手の甲の、赤黒い四角い跡が雨に濡れた。
「聖騎士様、お手が」
ジークベルト様は、顔を上げなかった。
素手で、土をかいた。
左手の二本の指は、曲がったまま土に刺さらなかった。右手だけで、かいた。爪が割れた。爪のあいだに泥が詰まり、そこに赤いものが混じった。雨が、くすんだ銀髪を額に貼りつけた。頬骨の下の影に、泥の筋が流れた。
斜面の下の道に、人が集まりはじめていた。
「あれ、聖騎士様じゃないか」
「無縁墓地を、素手で掘ってる」
「加護をなくして、気が触れたって噂は本当だったんだ」
「誰の墓だい」
「知らないよ。名前のない墓だ」
笑う者もいた。気味悪そうに、子の目をふさいで帰っていく母親もいた。ジークベルト様は、一度も振り向かなかった。
背中の鞭の痕が開いたらしく、上着の背に、雨とは違う色がにじみはじめた。咳きこんで、泥の上に手をついた。それでも、また掘った。
老人は、帽子を胸に当てて立っていた。
私は、幕を見ていた。
「もう、十分です」
口に出すと、自分の声が思ったより乾いていた。
「もう少しだけ」
女神様が、肘掛けの上から私の肩に手を置いた。
「見ておいたほうがいいものが、あるから」
夜になっても、雨はやまなかった。見物人は、いつのまにかいなくなっていた。老人が掲げる角灯の下で、穴はジークベルト様の肩まで深くなった。
指先が、布に触れた。
敷布だった。私の部屋の寝台にかけてあった、洗いざらしの麻。泥の色に染まって、端が裂けていた。
ジークベルト様の手が、止まった。
それから、布の端を持ち上げた。
中にあったものは、もう軽かった。角灯の明かりに、白いものが見えた。細い腕の形のまま、胸の前で組まれていた。
組まれた腕のあいだに、白っぽい丸い川石があった。片側に、鋤の刃がかすった細い白い筋。
ちゃんと、あなたの腕の中にあるよ。
この部屋に来た日に、女神様はそう言った。
石は、まだ私の、アマリアの腕の中にあった。お腹の子には、名前もなかった。その子のものと呼べるのは、この石と、それを抱いている腕だけだった。
私は、膝の上の空っぽの両手を重ねた。
ジークベルト様は、石に手を伸ばさなかった。敷布ごと、そのまま両腕で抱え上げた。穴の中で立ち上がろうとして、膝が崩れた。泥の壁に肩をつけて、もう一度立った。
「アマリア」
雨の音の中で、その声だけが幕から聞こえた。
「アマリア。起きろ。命令だ。目を開けろ」
答えるものは、なかった。
「頼む」
声が、割れた。
「頼むから」
処刑台の広場で、血の中の私を抱いていたときと、同じ呼び方だった。あのとき私は、白い場所の窓から振り返った。
今は、振り返る私はどこにもいなかった。幕の前の椅子に座って、手を膝の上に置いていた。
「少し飛ばすね。その夜のうちに」
聖騎士邸の玄関の広間だった。
大きな扉の脇の、石の床の色が薄いところ。毎晩、私が馬車の音を待って立っていた場所に、泥の足跡がついた。
ジークベルト様は、泥と雨にまみれて立っていた。腕の中の敷布を、一度も下ろさなかった。爪の割れた右手の指から、床に赤い点が落ちていた。
階段の上に、燭台を持ったハインツが現れた。下りてくる途中で、足が止まった。
ハインツの目が、敷布の端からのぞく白いものに止まった。燭台が、手の中で傾いた。
「旦那様。それは」
ジークベルト様は、顔を上げた。
薄い氷の色の瞳が、燭台の明かりの中で、見たことのない濃さになっていた。
「ヴェロニカを、地下牢へ」




