第46話 隣の部屋
「ここなら、あの人の寝息まで聞こえるでしょう」
幕の中で、ヴェロニカが燭台を卓に置いた。
ジークベルト様の寝室の、続き部屋だった。着替えに使う小さな居間で、寝室とは扉ひとつで隔てられている。その扉が、指一本ぶん開いていた。
「聞こえたって、かまわないけれど。どうせ、起き上がれないんだもの」
向かいの椅子に、男が腰を下ろした。
栗色の巻き毛。穏やかな目もと。胸に、黒い百合の飾り。再審の広間の上の段で、頬杖をついて微笑んでいた人だった。
第二王子、フェルディナント殿下。
「裏門には、番もいなかった。塀を越えても、誰も気づかない。ずいぶん静かな屋敷になったね」
「影がいなくなってからよ。あの女、毎晩塀をなでて回ってたんですって。結界だったのね。おかげで、殿下の刺客もすんなり入れたでしょう」
ヴェロニカは、殿下の杯に葡萄酒を注いだ。注ぐ手を、殿下が取った。袖口から、灰色のまだらがのぞいていた。ヴェロニカは手を引いて、指先に白い光をともした。手首に当てると、まだらは消えた。
「北の雪狼も、痩せたものだ」
「殿下のお薬湯のおかげ。毎晩、侍女に運ばせているもの」
「処刑台の呪いも、君の薬湯も、最初から効いてくれれば、四年も待たずに済んだんだけどね」
「仕方ないでしょう。何を盛っても、あの人、けろっとしてたんだから。私、毒の分量を間違えたのかと思って、三倍にしたのよ。それでも、けろっと」
「処刑台で呪いを放った者が、あの日のうちに言っていたよ。呪いが主に入らずに、横へ流れたと」
ヴェロニカが、声を立てて笑った。
「あの影が、殿下の呪いを肩代わりしていたなんてね。殿下の魔術師が言うには、あの子の魔核、とびきり上等だったんですって。魔力の量が、魔塔の魔術師でも何人もいないほど桁違い。だからオルバンに言わせたの。この屋敷でいちばん強い魔核を、って。あの人、なぜあの子なのか、聞きもしなかった」
「君は、あの影が見えていたんだろう。夜会の庭で」
「殿下の耳飾りのおかげよ。認識阻害なんて、子どもだましね。あの女、私と目が合ったとき、ずいぶん青い顔をしてた」
殿下は、杯を明かりに透かした。
「先代の伯爵が、北の軍の帳簿をのぞいたりしなければね。雪狼の一家を片づけずに済んだし、君の父上にも気の毒をせずに済んだ」
「父のこと? いいのよ。殿下の分まで全部ひとりでかぶってくれたんだもの。親孝行させてあげたの」
ヴェロニカは、首にかけた細い鎖を、指で引き出した。先に、銀の小さな飾りが揺れていた。雪狼の形だった。
「覚えてらっしゃる? あの人が、縁談が出たころ、宝飾店に何度も通って選んでくれたの。自分の魔力を込めてね。かわいい人」
飾りを、燭台の火にかざした。
「これを伯爵家の印章に押し当てたら、封の蝋に、ちゃんとヴィンターハルトの魔力が残ったわ。あの書斎の鍵だって、奥様が自分から渡してくださったのよ。一族二百八十七人を処刑台に送ったのは、あの人の贈り物よ」
ヴェロニカは、扉のほうへ顎を向けた。
「あの人、本当に簡単よ。家族を殺した女を、自分で助けて連れて帰ってくるんだもの。競りで、金貨百枚もはたいて」
殿下が、喉の奥で笑った。ヴェロニカも笑った。二人の笑い声が、続き部屋の天井に重なって響いた。
「影のほうは、手ごわくなかったのかい」
「首飾りも、階段も、毒の茶も、人形も、全部私。毒の茶なんて、ひと舐めしただけで倒れてみせたの。薔薇もよ。あの人、一度だってあの女の言い分を聞かなかったわ。私が涙をひと粒こぼせば、それでおしまい」
ヴェロニカは、指を折って数えた。
「赤毛の従者は、私たちを見ちゃったから。字が読めるなんて思わなかった。命令書には、あの人が自分で署名したのよ。罪状なんて、読みもしないで」
それから、胸もとから折りたたんだ紙を出した。
「侍女頭にはね、言っておいたの。次にあの影をかばったら、今度こそ本当に審問の火の前に立たせるって。それなのに、こんなものを書いて」
紙を広げて、わざと震える声で読み上げた。
「アマリアは身ごもっています。どうか、あの子を信じてあげてください」
読み終えて、噴きだした。
「どうか、ですって。おばさんの字で、どうか」
私は、椅子から腰を浮かせていた。
幕に、紙の文字が映っていた。角ばった、少し右に傾いた字。毎朝、侍女頭の帳面で見ていた字だった。
「お茶なんて、どうでもよかったの。口実よ。一度目と二度目は、軽く。三度目は、思いきり込めたわ。あの人の目の前で。知らなかったの、って泣いたら、あの人すぐ許してくれた。私の背中をなでて、もういい、って」
ヴェロニカは紙を燭台の下に挟んで、杯を取った。
「あの女、身ごもってたのよ。魔核を抜けば一緒に流れるって、わかってた。あの女、あの人の袖をつかんで、お医者様をって頼んだのよ。あの人は、その指を一本ずつ外したわ」
口の端だけが上がった。
「あの人の子を、あの人の手で殺させてあげたの」
そして、のけぞって高く笑った。燭台の炎が揺れるほどの声だった。
膝の上で、私の手がお腹のほうへ動いていた。そこには何もなかった。ここでも、向こうでも。
殿下が、杯を合わせた。
「影の女を消してくれて助かったよ。あれだけは厄介だった。あの女がいるかぎり、雪狼は死なないんだから」
「約束、覚えていらっしゃる? 殿下の宮に、私の部屋をくださるって」
「もちろん」
殿下は、穏やかに笑った。目が、ヴェロニカの顔ではなく、胸もとに止まっていた。
「その胸が、元気なうちはね」
ヴェロニカは、それを冗談だと思ったらしかった。殿下の肩を扇で叩いて、また笑った。
二人が出ていったあと、続き部屋には燭台がひとつ残った。
寝室の暗がりで、寝台がきしんだ。
扉のすきまが広がった。裸足のジークベルト様が、壁に手をついて出てきた。寝間着の肩が骨ばっていた。くすんだ銀髪が額に張りつき、灰色に近く見えた。目の下の影は、燭台の明かりでも消えなかった。
燭台の下から、紙を引き抜いた。
読んだ。もう一度、読んだ。紙を持つ黒い手袋の指が、端を握りつぶしていった。
廊下で、扉が叩かれた。
「聖騎士様。起きておいでですか」
ハインツだった。腕に、泥のついた小さな木箱を抱えていた。
「庭師が、厩舎の床板の下から見つけました。馬が古い板を踏み抜いたそうで。それと、お命じの、オルバン殿の処置記録の写しです。神殿の書庫番に、金を握らせました」
「下がれ」
ハインツが出ていった。
ジークベルト様は、箱の蓋を開けた。
手紙の束が入っていた。黒い百合の封蝋。宛名は、ヴェロニカ・モルゲンロート様。いちばん上に、破った帳面の切れ端が一枚のっていた。
『ねえさんへ これ だいじ カスパル』
私が市場の代書の机の脇で教えた字だった。ねの字が、鏡に映したように逆を向いていた。何度教えても、そこだけは直らなかった。
姉さんは悪くない。裏庭の楡の木の下で、あの子はそう叫んだ。
ジークベルト様は、切れ端を長いあいだ見ていた。それから羊皮紙の紐をほどいた。
神殿の書記の、細い字が並んでいた。日付。聖騎士邸。処置者、オルバン。提供者、影アマリア。受領者、ヴェロニカ・モルゲンロート。
最後の一行。
『処置中、提供者が妊婦であったため、胎児は流れた。聖騎士殿には申し上げず』
羊皮紙が、卓から床へ滑り落ちた。
ジークベルト様の膝が、絨毯についた。片手が卓の縁をつかみそこねて、燭台が倒れた。火が消えて、部屋が暗くなった。
暗がりの中から、声がした。
言葉ではなかった。人の喉から出るとは思えない、獣のような声だった。長く、低く、途切れては、また続いた。
絨毯を、爪がかきむしる音がした。額を床に打ちつける、鈍い音が何度も。
「子が」
声が、裏返った。
「私の、子が。あいつは、言った。言ったんだ。袖を、つかんで」
暗い幕の中で、黒い塊が床の上をのたうっていた。卓の脚に肩がぶつかって、杯が転がり落ちた。割れた杯のかけらの上を、手袋の手が這った。それでも、声は止まらなかった。喉が裂けたような、かすれた叫びになっても。
女神様は、何も言わなかった。私も、何も言わなかった。
屋敷じゅうに、聞こえたはずだった。
けれど、その声を聞いて駆けつける影は、もういなかった。




