第45話 比べる男
「国境の町にも、北の街道の宿にも、おりませんでした」
幕の中で、ハインツが書斎の机の前に立っていた。
「下町の孤児院にも。麦わら亭の女将も、見ていないと。女将には、逆に聞かれました。あの子に何をしたんだい、と」
ジークベルト様は、黙って聞いていた。
机に置いた左手の、曲がった二本の指の上に、黒い手袋の右手を重ねていた。
「もっと遠くを探せ。あれは、どこかで私を待っている」
「少し飛ばすね。その夜」
寝室だった。
ジークベルト様は、寝台の上でうつぶせになっていた。寝間着の背中が、何本もの赤い筋で濡れていた。古い鞭の痕と、新しい鞭の痕。私の背中にあったのと、同じ並び方だった。額に汗が浮いて、枕を握る指が白かった。喉の奥から、押し殺しきれないうめきがもれていた。
戸口に、ヴェロニカが立っていた。
淡い桃色の部屋着の袖で、口もとを押さえていた。部屋の中には、入ってこなかった。
「ジークベルト。私、今夜から奥の客間で休むわね」
「ヴェロニカ。そばに」
「だって、うつるといけないでしょう。お医者様は病ではないって言うけど、本当のところはわからないもの。私の肌に何かあったら、あなたも悲しいでしょう?」
扉が閉まった。
廊下の幕の端に、ヴェロニカと侍女の背中が映った。
「見た? あの背中。血と膿で、敷布がまだらよ。あんなもの、見ていられないわ」
「お気の毒に」
「気の毒なのは私よ。婚礼から、まだふた月もたってないのに」
遠ざかる足音は、軽かった。
寝台の脇の椅子に、ハインツが腰を下ろした。盥の湯で布を絞って、ジークベルト様の背中に当てた。
ジークベルト様が、枕に顔を伏せたまま、何か言った。
「何と仰いましたか」
「あいつは、一晩じゅう手を握っていた」
ハインツの手が、布を持ったまま止まった。
「下町の宿で、私がうなされた夜は。朝まで、一度も離さなかった。自分も熱があったくせに。指が冷たくて、気持ちがよかった」
ハインツは、何も答えなかった。布を盥に浸して、もう一度絞った。
幕の前で、女神様が私の顔を見た。
あの宿の、狭い寝台。手首をつかまれた夜のことは、覚えていた。あのとき私の背中にも、同じ筋があった。覚えているのに、どこも痛まなかった。
「三日後」
屋敷の裏の稽古場だった。
ジークベルト様が、木の剣を握っていた。左手の小指と薬指が、柄に添わない。振り上げた剣は、振り下ろす前に手から抜けて、砂の上に転がった。
拾った。握った。また落ちた。
稽古場の端で、衛兵たちがひそひそと話していた。
「あれが、王国に三人の聖騎士か」
「新入りの小僧のほうが、まだ振れる」
二階の回廊を、ヴェロニカが侍女と歩いていた。足を止めて、手すりから下をのぞいた。
「見て。また落とした」
侍女が、声を殺して笑った。ヴェロニカは扇を開いて、口の端だけを上げた。
「加護をなくした聖騎士なんて、ただの痩せた男ね。あんな人に嫁いだなんて、社交界の笑いものよ。こんなはずじゃなかったわ」
稽古場のジークベルト様は、顔を上げなかった。三度目に剣を拾ったとき、手袋の甲で額の汗を拭った。回廊を、一度だけ見上げた気がした。
奥の客間の鏡台の前で、ヴェロニカは毎朝、長い時間を使った。
指先に、白く澄んだ光をともす。それを頬に当てる。頬の白い肌に、灰色のまだらが浮いていた。光を当てると、まだらは薄れて消えた。顎にも、首にも、同じことをした。
櫛を入れると、蜂蜜色の髪が束になって抜けた。
「何なの、これ」
ヴェロニカは、櫛を鏡に投げつけた。鏡にひびが入った。
「どうして抜けるの。あの女の魔核は、上等だって。殿下はそう仰ったのに」
侍女が、床に散った金色の束を、震える手で拾い集めた。
「誰にも言わないで。言ったら、雷鞭よ」
ヴェロニカは、また指先に光をともした。光は、前の日より少し細かった。
「あの魔核、あの人の体に合ってないね」
女神様が言った。
「使えば使うほど、合わなくなるのに。美しさを保つためだけに、毎朝使ってる。あなたの魔力、ああいうことに使われるの、いやじゃない?」
「もう、私のものではありませんから」
夕方、ハインツが宝物庫の扉の前に立っていた。手に燭台と、背の割れた帳面。
棚が、ところどころ空いていた。銀の燭台が二対。叙任の祝いに王宮から贈られた金の杯。小箱の中の金貨は、半分になっていた。
「帳面をつける者がおりませんので、いつからなのかも。洗濯女が、ヴェロニカ様の侍女が夜ふけに包みを抱えて裏門を出るのを、何度か見たと申しております」
「ヴェロニカの侍女が?」
「はい。包みは、ずいぶん重そうだったと」
ジークベルト様は、しばらく黙っていた。
「アマリアがいたころは、蝋燭一本なくならなかった」
その夜、ジークベルト様は、ある伯爵家の夜会に招かれて出かけた。
ヴェロニカは、先に馬車で出ていた。夜会の庭の奥、刈りこまれた生け垣の陰で、ヴェロニカは男の胸に頬を寄せていた。男の外套の襟に、黒い百合の飾りが光っていた。
「あの人? もう、剣も握れないのよ。寝台では、うめいてばかり。触られると、ぞっとするわ」
「かわいそうに。君も、あの人も」
「早く迎えに来てって、殿下にお伝えして」
生け垣の向こうの小道に、ジークベルト様が立っていた。
出ていかなかった。手袋の右手が、生け垣の枝を一本、握りつぶした。乾いた音がして、ヴェロニカが顔を上げた。小道には、もう誰もいなかった。
帰りの馬車の中で、ジークベルト様は窓の外を見ていた。向かいの席に、ハインツ。街灯の前を通るたびに、くすんだ銀髪と、こけた頬が明かりに浮いて、また暗がりに沈んだ。
「アマリアに、お前を妻にする、と言ったことがある」
ハインツが、顔を上げた。
「下町の宿の、暖炉の前だ。あいつは泣いて、何度もうなずいた。一度で足りないみたいに。指輪は、市場の露店の安物だった。それでも、あいつは、王妃の冠でももらったような顔をした」
馬車が、石畳の継ぎ目で揺れた。
「ヴェロニカは、私の背中を汚いと言った。あいつは、私が熱で吐いたものを、素手で片づけた」
「旦那様」
「もし、あいつが戻ってきたら」
ジークベルト様は、そこで口を閉じた。続きは、屋敷に着くまで出てこなかった。
幕の前で、私は自分の左手を見ていた。指輪のない、まっすぐな薬指。
「あの頃の私は、本当にこの人が好きだったんですね」
「今は?」
女神様は、肘掛けの上で首をかしげた。
答えを探した。胸の中を、端から端まで。
「もう、わかりません」
女神様は、それ以上聞かなかった。
「少し飛ばすね。五日後の夜」
書斎だった。
ヴェロニカの侍女が、盆を机に置いた。湯気の立つ杯がひとつ。
「ヴェロニカ様から、お薬湯です。毎晩お飲みになるように、と。旦那様のお体を、それはご心配で」
侍女が出ていった。
ジークベルト様は、杯を手に取った。口もとまで運んで、止めた。
机の端に、白い薔薇を挿した花瓶があった。中庭の新しい薔薇園から、毎朝切ってくるものだった。
ジークベルト様は、杯の中身を半分、花瓶に注いだ。残りの半分を、暖炉の灰の上にあけた。
「翌朝」
花瓶の薔薇が、しおれていた。
花びらの縁から、焦げたように黒ずんでいた。茎まで、黒く細っていた。
見覚えがあった。婚礼の前祝いの宴のあと、ヴェロニカの侍女が私の部屋で突きつけた一本と、同じしおれ方だった。
ジークベルト様は、長いあいだ花瓶の前に立っていた。黒い花びらを一枚、指でつまんだ。花びらは、指の中で粉になった。
それから、ハインツを呼んだ。
「今日から、私は寝台から起き上がれない。医者にも、ヴェロニカにも、そう言え。屋敷の誰にもだ」
ジークベルト様は、自分で寝室の扉を開けて、寝台に横たわった。
その日のうちに、ジークベルト様はもう起き上がれない、という話が屋敷じゅうに流れた。
奥の客間から、ヴェロニカの笑い声が聞こえた。
「聞いた? とうとう寝たきりですって。案外、早かったわね」
夜が来た。
燭台の消えた寝室で、寝台の上の目は、閉じていなかった。
薄い氷の色の瞳が、暗がりの中で、扉のほうを見ていた。




