第44話 崩れていく屋敷
幕の中で、朝が来ていた。
ジークベルト様は、寝台の上で体を起こしていた。開いた寝間着の胸の上に、細い傷痕が何本も走っていた。左の肩、右の脇腹、左の腕、太もも。七つ数えたところで、私は数えるのをやめた。神前決闘の、七つの傷だった。
「誰かが代わりに受けていた、だと」
寝台の脇で、町医者が鞄を閉じた。
「傷の形が、新しいのに古いのです。何年も前についた傷が、今になって表へ出てきたとしか。それに、この胸の冷え。呪いを受けた方を、昔一度だけ診たことがございます。同じでした」
「くだらん」
ジークベルト様は、寝間着の前を乱暴に合わせた。
「私には、神の加護がある。王国に三人しかいない聖騎士だぞ。町医者ふぜいが、知ったような口をきくな。帰せ」
ハインツが、医者を戸口へ案内した。医者は廊下で一度振り返り、首を横に振った。
「結界ね、三日目の夜には消えてたよ」
女神様が、幕を見たまま言った。
「あなたが最後に注いだ分が、そこまでだったの。誰も気づかなかったけど」
幕に、夜の中庭が映った。
雪の積もった塀の上に、黒い影がひとつ乗っていた。私が毎晩手を当てていた、あの石のあたりだった。影は音もなく庭へ下りて、植えこみの陰を伝い、二階の窓へ取りついた。
ジークベルト様の寝室だった。
窓が割れる音がして、寝台の上で銀色の頭が跳ね起きた。枕もとの剣に伸ばした手より、黒い刃のほうが速かった。
刃が、左の腕を裂いた。
ジークベルト様は、そのまま剣を抜いて払った。剣先は、刺客の外套をかすめただけで流れた。ほんのわずか遅く、ほんのわずか軽い剣だった。
私にはわかった。誓約の糸から流れこんでいた私の魔力が、もうジークベルト様の腕にない。
刺客は窓から庭へ飛び下り、塀を越えて消えた。
衛兵たちが、燭台を手に駆けこんできた。
ジークベルト様は、寝台の脇に立っていた。寝間着の左袖が裂けて、肘の上から血が流れていた。床に、赤い点が落ちていった。
衛兵たちが、燭台を下ろすのを忘れて、その血を見ていた。
「血だ」
「聖騎士様が、血を」
「神前決闘で七度斬られて、かすり傷ひとつなかったお方だぞ。加護は、どうなったんだ」
「黙れ」
ジークベルト様の声が、割れた窓の風に負けそうだった。
「医者を呼べ。それから、カラスを飛ばせ。ラーベン子爵に知らせる」
衛兵たちは、顔を見合わせた。
ハインツが、戸口で言った。
「あのカラスは、アマリアの部屋にいたものでございます。あの夜から、一度も姿を見ておりません」
「なら、ほかのを使え」
「ほかには、おりません。お屋敷の使い魔は、はじめから、あの一羽だけでございました」
ジークベルト様は、口を開けたまま、しばらく黙っていた。
「少し飛ばすね。ひと月くらい」
幕の中の季節は、まだ冬だった。
玄関の広間に、出入りの商人たちが並んでいた。手に、払いの済んでいない書き付けを持って。
「聖騎士様、先月分の小麦と蝋燭の払いが、まだでございます」
「酒蔵の分もだ。三度来て、三度とも、わかる者がいないと言われた」
「影のお嬢さんがいたころは、月末にきっちり、帳面と一緒に払ってくれたもんだがね」
ハインツが一人ずつ頭を下げていた。料理番が、エプロンで手を拭きながら、また来た。
「食料庫の鍵は、どこにあるんです。三度目ですよ。アマリアさんなら、聞く前に出しといてくれたのに」
裏門で、下働きの娘が二人、小さな包みを抱えて出ていくところだった。
「給金は半月遅れ、夜には刺客まで来る。こんな屋敷、もうごめんよ」
「聖騎士様の加護がなくなったって、町じゅうの噂だもの。次は、私たちが斬られるわ」
門番は止めなかった。止める気もないように、あくびをしていた。
書斎の机には、封を切っていない手紙が積まれていた。返事を出すカラスがいない。人を使いに出しても、戻ってくるのは三日後だった。貴族街の誰が誰と会ったのか、殿下の宮に誰が出入りしたのか、もう、ひとつも聞こえてこなかった。
ジークベルト様は、机の前に座っていた。
痩せていた。頬骨が浮いて、目の下の影が濃くなっていた。うしろへ流した銀髪は、くすんで、灰色が混じったように見えた。左腕にはまだ包帯が巻かれ、黒い手袋の右手でペンを持っていた。左手の小指と薬指は、机の上で曲がったままだった。ときおり、咳をした。咳のたびに、肩が大きく揺れた。
扉が叩かれて、白い法衣の神官が二人入ってきた。年かさのほうが、丸めた羊皮紙を広げた。
「聖騎士ジークベルト・ヴィンターハルト殿。神殿は、あなたの加護が失われたという訴えを受けております。刺客の刃で、血を流されたと。王都じゅうの噂です」
神官は、ジークベルト様の包帯に目をやった。
「次の満月の日に、神殿で加護をお示しください。示せなければ、聖騎士の位を見直すことになります」
「無礼な。私の加護を疑うのか」
「疑っているのは、神殿ではございません。王都の者すべてでございます」
神官たちが帰ったあと、ラーベン子爵が来た。
白いひげの老人は、勧められた椅子に座らなかった。
「満月の審問に、口添えを頼みたい。子爵の言葉なら、神殿も」
「お断りする」
子爵は、短く言った。
「わしがヴィンターハルトに手を貸したのは、先代への恩と、あの娘への恩だ。あなたにではない」
「あの娘」
「影の娘だ。雨の晩に、わしの門の前で一晩じゅう立っていた。手袋の下の手を、膝の前で重ねてな。翌朝、門を開けさせたのは、あの娘の根気に負けたからだ。あなたの名前に負けたのではない」
ジークベルト様の眉尻の古傷が、動いた。
「婚礼の前祝いの宴で、あの娘が床を拭いているのを見た。あなたが一度も振り向かないのも見た。わしの用は、あの日で済んだ」
子爵は帽子をかぶって、戸口で振り返った。
「グレーザーも、川向こうの男爵も、同じことを言うだろう。もう、あなたの屋敷の門をくぐる者はおらんよ」
扉が閉まった。
机の上の手紙の束から、ハインツが一通を抜いて差し出した。グレーザー商会の封だった。ジークベルト様は封を切った。読み終えると、紙を握りつぶした。
「先方から申し出があった、と聞いていた。子爵も、グレーザーも。私の剣と名を見こんで、向こうから」
ハインツは、しばらく黙っていた。それから、白い眉の下の目を上げた。
「実は、アマリアがずっと」
ハインツの声が、一度途切れた。
「グレーザー殿のところへも、子爵のところへも、あの者が一軒ずつ頭を下げに参っておりました。何度断られても、何度でも。下町の子どもたちに残り物を分けて、貴族街の噂を集めていたのも、あの者です。旦那様が審問で読み上げた証言も、半分は、あの者が雨の中を歩いて拾ってきたものでございます。それに、毎晩」
「毎晩、何だ」
「夜中に、塀の石に手を当てて、お屋敷をひと回りしておりました。何をしていたのかは、存じません。叙任の日から、ほとんど毎晩。刺客が来たのは、あの者がいなくなってからでございます」
ジークベルト様は、窓の外の塀を見た。
「なぜ、今まで黙っていた」
「申し上げようとしたことは、ございます。そのたびに、旦那様は、影の務めだ、と」
ジークベルト様は、答えなかった。
その日の夕方、裏門に、ぼろを着た男の子が来た。
十くらいの子だった。門番に追い払われかけて、門の格子にしがみついた。
「姉さんは? アマリア姉さん。もうひと月も、パンをもらってないんだ」
ハインツが出てきて、膝を折った。
「アマリアは、もういない」
男の子は、格子から手を離した。
「じゃあ、もう来ない。ぼくら、姉さんに頼まれたから見張ってただけだもん。聖騎士様のためじゃないよ」
鼻をこすって、続けた。
「カスパル兄ちゃんも、いなくなっちゃったし。みんなも、もう来ないって」
男の子は、路地の奥へ走っていった。
私は、椅子の上で背中を起こしていた。
あの男の子を、覚えていた。カスパルが路地裏から連れてきた子だ。パンを半分に割ると、半分をさらに割って、小さい子に回していた。
「あなた、こんなにいろいろやってたんだね」
女神様が言った。
「影ですから」
「当たり前じゃないよ」
女神様は、肘掛けから身を乗り出して、私の顔をのぞきこんだ。
「誰にとっても」
幕の中で、夜が来ていた。
ジークベルト様は、書斎の窓辺に立っていた。灯りもつけずに、中庭の塀を見下ろしていた。雪の上には、足跡ひとつなかった。
ハインツが、燭台を持って入ってきた。
ジークベルト様は、振り向かなかった。窓ガラスに当てた手袋の指が、かすかに震えていた。
「……アマリアを探せ」




