第43話 「どうせ戻ってくる」
「あの音のこと、気になってたでしょ」
女神様が、肘掛けの上で足を組みかえた。
「少し戻すね。あなたが糸を切った夜」
幕に、書斎が映った。
暖炉の火が、まだ大きく燃えていた。机の脇に、椅子が倒れていた。床に葡萄酒の杯が砕けて、赤い染みが絨毯に広がっていた。
ジークベルト様は、机の前に立っていた。
右手で、左手の甲を押さえていた。左の小指と薬指が、曲がったまま固まっている。押さえた右手の下で、二本の指はぎこちなく動いて、半分までしか伸びなかった。
扉が叩かれて、ハインツが顔をのぞかせた。
「聖騎士様。今の音は」
「手がすべっただけだ。いちいち騒ぐな」
ジークベルト様は、その手を握って、開いた。もう一度握った。
「片づけておけ」
机の上の名簿の端に、指輪と糸の束があった。ジークベルト様はそれを、名簿ごと引き出しに放りこんで閉めた。
「ここから数えるね。一日目」
同じ書斎の、夜だった。
ジークベルト様が窓の前に立ち、ハインツがうしろから白い外套を受け取っていた。
「あれは、来たか」
「いいえ。下の者たちが、影は旦那様に逆らって、どこかに身を隠していると申しております。ご婚礼に反対しているのだと。部屋の荷物も、残っておりませんでした」
ジークベルト様は、窓の外の闇を見ていた。
「隠れたか」
短く、鼻で笑った。
「くだらない意地だ。どうせすぐ戻る。行く場所などないのだから」
「旦那様。アマリアは、ゆうべ、たいそう顔色が」
「顔色が悪いのは、いつものことだろう」
ジークベルト様は、窓辺の椅子に腰を下ろして、片手で額を押さえた。
「少し、すねているだけだ。ヴェロニカが戻る前に、結婚しよう、などと、あれに言わなければよかった。指輪まで渡したのが、まずかった。それで調子に乗って、自分を何さまだと思いはじめた。影が、主の婚礼に口を出すなど」
ハインツの肩が、ほんのわずかに強ばった。
「あれは、私なしでは生きていけない女だ。三日もすれば、腹をすかせて裏口に立っている。そのときは、少し叱ってから入れてやれ」
ハインツは、何も言わずに頭を下げた。
上着を脱ぐ手伝いに回ったハインツの手が、止まった。白いシャツの背中に、細い赤い線が一本、にじんでいた。肩甲骨の下から、斜めに。
「お背中に、血が」
「どこかでこすったのだろう」
ジークベルト様は、何気なく背に手を回した。指先が、その線に触れた。
肩が、びくりと跳ねた。指先に、赤いものがついていた。
「痛む」
ひとりごとのような声だった。
「妙だな。この四年、かすり傷ひとつ、ついたことのない体だぞ。神殿が加護を認めた、聖騎士の体だ」
私は、幕の中のシャツの背を見ていた。
あの線を、私は知っていた。四年あまり前、牢番に打たせた一本目の鞭の痕と、同じ場所だった。
ハインツが下がると、ジークベルト様は寝台に腰を下ろした。横になる前に、胸を押さえた。夜明け前でもないのに、息が浅かった。二度、三度と、深く吸おうとしている。吸っても、胸の奥まで空気が届かない顔だった。
あれは、呪いだ。処刑台で放たれた、ゆっくり命を削る黒い糸。四年あまりのあいだ、毎朝、私の胸を冷やしてきたもの。
ジークベルト様は、水差しの水をひと口飲んで、すぐに顔をしかめた。口もとを押さえ、寝台の脇に身をかがめた。喉の奥から、こらえきれないものがこみあげた。盥に、何度も吐いた。額に脂汗が浮いて、銀髪が貼りついた。
舌の奥のしびれ。胃の底の重さ。指先の震え。この三か月、毎晩、私の体に来ていたものと同じだ。
「疲れているだけだ」
ジークベルト様は、誰もいない部屋でそう言って、燭台の火を吹き消した。
暗い幕の中で、浅い息の音だけが、長く続いた。
「三日目」
食堂だった。長い卓の上座で、ジークベルト様が食事をしていた。右隣で、ヴェロニカが婚礼の衣装の話をしていた。
「袖は真珠を三百粒。裾には金糸の薔薇。ねえ、ジークベルト、聞いてる?」
ジークベルト様は、黒い手袋をはめたまま匙を持っていた。ヴェロニカがその手に自分の手を重ねると、ジークベルト様は手を引いた。
「どうしたの。手、怪我でもした?」
「何でもない」
食事のあと、書斎で、ジークベルト様はハインツの前で手袋を外した。
右手の甲に、赤黒い跡が浮いていた。四角い、焼きごてを押しつけたような形。中の文字は、罪人、と読めた。名誉回復の日に神殿が消したはずの印。私の手袋の下にあったのと、同じ二文字だった。
ハインツの目が、その跡に止まった。ジークベルト様は、すぐに手袋をはめなおした。
「見なかったことにしろ」
「かしこまりました」
「あれは、まだか」
「はい。どちらにも、姿はないそうです」
「意地を張るのもいい加減にしろと、伝えろ」
「どこへ、伝えればよろしいでしょう」
ジークベルト様は、答えなかった。机の引き出しに手をかけて、開けずに離した。
「戻れば、側室にしてやってもいい」
ハインツが、顔を上げた。
「影の身で、聖騎士の側室だ。過ぎた話だろう。本来なら、裏口から追い出されても文句の言えない身だ。それを、ヴェロニカの次の席に置いてやると言っている。そう言っておけ。聞けば、泣いて喜んで戻ってくる」
ジークベルト様は、自分の寛大さに満足したように、椅子の背にもたれた。
女神様が、肘掛けの上で私のほうを見た。
私は、幕を見ていた。
「七日目」
神殿だった。
高い天井の下に、白い薔薇が並んでいた。祭壇の前に、白と金の衣装のジークベルト様と、真珠の袖のヴェロニカ。神官が祈りの言葉を唱え、二人の手が重ねられた。参列の貴族たちが、いっせいに拍手した。
婚礼の宴は、聖騎士邸の広間で開かれた。
卓のあいだを、新しく雇われた下働きの娘たちが、葡萄酒の瓶を抱えて回っていた。毛皮の襟の商人が、上座のジークベルト様に杯を掲げた。
「そういえば、いつも壁ぎわにいた影の娘さんは。今日は姿が見えませんな」
ヴェロニカが、扇の陰でくすりと笑った。
「アマリアさん、私たちの婚礼を見るのがつらかったみたい。かわいそうに。あの人を、ずいぶん慕っていたから」
近くの卓の婦人たちが、ささやきあった。
「まあ。影の分際で、聖騎士様に懸想を」
「身のほど知らずね」
ジークベルト様は、杯を持ち上げた。
左手だった。小指と薬指が、杯の脚に添わずに浮いていた。杯がかしいで、葡萄酒が白い袖に一滴落ちた。
「影の一人くらい、代わりはいくらでもいる」
広間が、どっと笑った。商人が杯を干した。ヴェロニカが、ジークベルト様の袖の染みを、ハンカチで押さえた。
「十日目」
書斎の机に、帳面が積まれていた。
食料庫の帳面と、酒蔵の帳面。私が拾い集めて机に並べた、靴跡のついた帳面だった。ジークベルト様は、その一冊を開いて、すぐに閉じた。
黒い窓ガラスに、机に向かう姿が映っていた。頬の線が、一日目より削げていた。目の下に、薄い影がある。うしろへ流した銀髪は、燭台の明かりの中で、前ほど光らなかった。
ジークベルト様は、椅子の背にもたれて、右の脇腹を押さえた。
「誰がつけていた帳面だ。これは」
「アマリアでございます。屋敷の鍵も、食料庫も、出入りの商人の払いも。この三月、ほとんどあの者が」
「あいつがいれば、楽だったな」
ジークベルト様は、脇腹から手を離さずに言った。
「料理番は塩を間違える。洗濯女は外套に焦げをつける。夜中に脇腹が痛んでも、水ひとつ持ってくる者がいない。まったく、使える者がいなくなると、屋敷とはこうも不便なものか」
舌打ちが、ひとつ。
「戻ってきたら、また肩代わりさせればいい。帳面も、鍵も、夜の番も、全部だ。それが影の務めだ」
ハインツは、何も言わずに頭を下げた。
幕の前で、女神様が小さく息をついた。
「すごいね、この人」
怒っているのでも、笑っているのでもない声だった。
「はい」
私は、自分の手を見た。膝の上で、指はまっすぐ伸びていた。どこも握っていなかった。
「何も感じない自分に、少し驚いています」
女神様は、何も言わずに私の頭に手をのせた。腰まである髪の上で、手のひらは温かかった。
幕の中で、ジークベルト様が立ち上がった。
帳面を机に戻そうとして、手が止まった。帳面が、床に落ちた。
ジークベルト様は、自分の胸を押さえていた。白いシャツの胸もとを、指が握りしめている。顔から、血の気が引いていった。口が開いて、声にならない息がもれた。
膝が、折れた。
ハインツが駆け寄るより先に、銀色の頭が絨毯の上に落ちた。机の脚にぶつかって、燭台が倒れた。
「医者を。誰か、医者を」
ハインツの声が、廊下に響いた。遠くで、ヴェロニカの部屋の扉が一度だけ開いて、すぐに閉まった。
夜ふけに呼ばれてきたのは、白いひげの町医者だった。寝台に移されたジークベルト様の上着を開き、背中を見て、手の甲を見て、腹を見た。胸に耳を当てて、長いあいだ黙っていた。
医者は、顔を上げた。
「これは、病ではございません」
寝台の脇のハインツに、言った。
「何年も、誰かが代わりに受けていた傷と、呪いです」




