第42話 映写室
光を抜けると、星の中にいた。
足もとにも、頭の上にも、小さな星が浮かんでいた。冷たくはなかった。音もなかった。広くも狭くもない、静かな部屋だった。
真ん中に、椅子が一脚だけ置いてあった。古い劇場にあるような、赤い布張りの、肘掛けのついた椅子。その正面に、大きな白い幕が下がっていた。
両腕が、軽かった。
見下ろすと、何も抱えていなかった。石が、なかった。
手袋もなかった。右手の甲の烙印が消えていた。左手の小指と薬指が、まっすぐ伸びていた。指を曲げて、伸ばした。ふつうに動いた。
背中に、重みがあった。黒髪が腰まで流れていた。うなじの結び目に触れると、いつもの黒い紐の手ざわりがした。四年あまり前、白い場所に立ったときと同じ姿だった。
「持ち物はね、向こうに置いてくる決まりなの」
女神様が、椅子の肘掛けに腰かけていた。
「石のことでしょ。ちゃんと、あなたの腕の中にあるよ。向こうの、ね」
「座って」
言われるまま、椅子に腰を下ろした。布張りの座面が、少し沈んだ。
「次に行く前に、少しだけ見ていく? あなたがいなくなったあとの、あっちのこと。見なくてもいいんだよ。見ないで扉をくぐる人のほうが多いくらい」
「見たら、覚えたまま行くのですか」
「ううん。記憶は、この上映が終わって扉をくぐるときに消えるから。それと、映るのは音と姿だけ。人の心の中は映らない。何を考えてたかは、見て、聞いて、あなたが決めるしかないの」
幕を見た。白いままだった。
「見ます」
「そっか」
女神様が、指を鳴らした。
幕に、部屋が映った。
私の部屋だった。燭台が一本。机の上に、鍵束と、背の割れた帳面。衣装箱の上には、ほどき終えたヴェールの白い紗が、たたんで置いてあった。
寝台に、女がひとり横たわっていた。
こけた頬に、ほつれた黒髪がかかっている。唇は白く、目は閉じていた。胸の上で、両腕が小さな川石を抱えていた。
胸は、動いていなかった。
私は、この世で死んだ。
二十二歳だった。聖騎士ジークベルトの影として、聖騎士邸の、ジークベルト様の寝室の隣の小さな部屋で。看取ったのは、羽の生えそろわないカラスのひなの姿をした、神獣フェニックス、ただ一羽だけだった。
幕の中で、クロが枕もとから首を伸ばした。横たわる私の頬に、くちばしの先を一度つけた。
それから、鳴いた。
クロの羽の先に、火がともった。
金色の火だった。燭台の炎よりずっと明るく、熱そうに見えるのに、枕も敷布も焦がさなかった。火は羽から胴へ、首へ広がって、黒い体が見えなくなった。
金色の塊が、ふくらんだ。
翼が開いた。天井に届くほど大きな翼だった。一枚一枚の羽が、炎でできていた。部屋じゅうが、真昼よりも明るくなった。長い尾が寝台の上を流れて、枕の黒髪の上を通っても、一本も燃やさなかった。足に、小さく折りたたんだ便箋が結ばれたままだった。
「フェニックス。やっと、本当の姿に戻れたね。あなたのそばで、六年かけて力を溜めてたの」
炎の鳥は、寝台の私を長いあいだ見下ろしていた。それから、首を窓に向けた。
窓が、外へ開いた。
金色の光が、夜の中庭を横切っていった。屋敷の塀を越え、王都の屋根の上を、北へ。眠っていた町の窓がいくつか開いて、人々が夜空を指さしていた。流れ星だ、と叫ぶ子どもの声がした。
「北に寄り道してから、帰るって。手紙、ちゃんと届けたいんだって」
光が、幕の端で小さな点になって、消えた。
「その前に、ひとつだけ見せておくね」
女神様が、幕に向かって指を振った。
景色が、北へ流れた。雪をかぶった森。凍った川。石造りの小さな修道院。その二階の、狭い寝台。
ユリウス様が、跳ね起きていた。
寝間着の胸を、両手で押さえている。銀の髪が、寝ぐせで乱れていた。窓の外はまだ暗いのに、目を大きく見開いて、南の空を見ていた。
唇が、動いた。
「姉さん」
かすれた声が、幕から聞こえた。
「浄化の魔核の子はね、魂の糸に敏感なの。あなたが結んだ糸、ちゃんと届いたよ」
ユリウス様は、胸に当てた手を、そっと握りしめた。そこに宿った温かいものを、確かめるように。
「……ちゃんと、届いたんですね」
「うん。それにね、あなたは知らなかったでしょ」
女神様は、幕の中のユリウス様を見たまま言った。
「最期まで主を想って死んだ影の誓約はね、消えないの。加護になって、相手の身に残る。刃も、毒も、呪いも、あの子に届く前に、あなたの誓約がはね返す。あの子が生きているあいだ、ずっと」
私は、何も言えなかった。痛みをひとつでも引き受けてから行きたい。それだけのつもりだった。
「ただね。加護と一緒に、あの子には、別のものも流れこんじゃった。あなたの記憶。魂の糸を、最後の一滴まで流しこんだから。あの屋敷でされたこと、ぜんぶ」
幕の中で、ユリウス様が膝を抱えたまま、震えていた。
冬の中庭に一晩立たされた夜を、あの子は今、見ているのだろうか。首飾りの前で膝をつかされたことを。カスパルの処刑命令書に記された、兄の署名を。ノエラが雷鞭に打たれて倒れた廊下を。伯爵家の印章の溝に、赤い蝋が残っていた夜を。
ユリウス様が、顔を上げた。
十七の少年の目ではなかった。泣いてもいなかった。南の空の、王都のある方角を、まっすぐ見ていた。薄い青の瞳が、少しずつ濃くなっていった。
「少し飛ばすね。朝になる」
同じ部屋に、朝の光が差しこんでいた。
扉が乱暴に開いた。ヴェロニカの侍女だった。
「アマリアさん、いつまで寝てるの。ヴェロニカ様が、髪を結ってほしいって。影のくせに、お寝坊なんていいご身分ね」
侍女は返事を待たずに、寝台の肩に手をかけて揺すった。手を離した。もう一度、指の先で頬に触れた。
一歩下がって、口を押さえた。それから、悲鳴をのみこんで廊下へ駆けだしていった。
しばらくして、ヴェロニカが来た。
朝の部屋着の上に、薄紅の肩掛けをはおっていた。蜂蜜色の髪はほどいたままで、頬は内側から光っていた。戸口で足を止めて、寝台を見た。
「本当に?」
「はい。冷たくなっています」
ヴェロニカは、寝台のそばまでは来なかった。
代わりに、自分の胸もとに手を当てた。そこに何があるのかを確かめるように、指先で二度、軽く叩いた。
「あら。もう死んじゃったの。思ったより早かったのね」
口の端だけが上がった。
「でも、ご心配なく。あなたの魔核、私の中でとても元気よ。今朝なんて、鏡の前で自分でも見とれちゃった」
侍女が、青い顔で主を見ていた。
「よりによって、婚礼の前に。縁起でもない。最後まで、間の悪い子」
ヴェロニカは、肩掛けの端を指で引き寄せた。
「ジークベルトには言わないで。あの人は今朝、夜明けの祈りで神殿でしょう。帰ってくる前に、ここを片づけて」
「ど、どこへ運びますか」
「夜までは、裏の物置に。暗くなったら、町はずれの無縁墓地に埋めさせて。墓守には金を握らせて、黙らせなさい」
「いっそ、川にでも」
「だめよ」
ヴェロニカは、すぐに首を振った。
「婚礼が終わるまでは、死んだことは誰にも知られちゃいけない。でも、体を消してしまったら、あとで困るかもしれないでしょう。あの人が、影がいなくなったって、どこまで探し回るかわからないもの。いざとなったら、病で死んでいましたって、出せるようにしておかないと」
ヴェロニカは、寝台の私を見下ろした。
「傷はつけないで。そのまま埋めるのよ。何か聞かれたら、あなたも口をつぐむの。わかってるわね。あなたも、もう共犯なんだから」
侍女の肩が、びくりと揺れた。
裏の物置。カスパルが、北の門の外へ運ばれるまで置かれていた場所だった。
ヴェロニカの目が、私の胸もとで止まった。
「何を抱いてるの、それ」
「石です。ゆうべ、持っていたものかと」
「汚い」
それだけ言って、ヴェロニカは背を向けた。廊下に出たところで、小さく鼻歌を歌いはじめた。婚礼の祝い歌だった。
私は、椅子の肘掛けを握っていた。
「少し飛ばすね。その日の夜」
屋敷の裏門が映った。
月が出ていた。荷車が一台止まっていて、敷布でくるんだ細長いものが載せられていた。荷車を引くのは、背の曲がった老人だった。侍女が、老人の手に小さな革袋を握らせた。
「誰にも言わないこと。言ったら、あなたも同じところに埋まることになるって、ヴェロニカ様が」
荷車が、裏門を出ていった。
町はずれの斜面。草の中に、盛り土がいくつも並んでいた。石も、木の札も立っていない。名前のない死者を埋める、無縁墓地だった。
老人は、ひとりで穴を掘った。敷布ごと、私を穴の底に下ろした。敷布の端がめくれて、胸の上で組まれた腕と、白っぽい石がのぞいた。
老人は穴の縁にしゃがんで、石を抱いたままの指を、一本ずつ開こうとした。
指は、開かなかった。
老人はしばらくその手を見ていた。それから帽子を脱いで、口の中で何か唱えて、土をかけはじめた。
まっすぐ伸びるようになった私の指の、関節が白くなっていた。女神様は、何も言わなかった。
同じ夜、聖騎士邸の裏庭で、火が焚かれた。
ヴェロニカの侍女が、私の部屋から抱えてきたものを、ひとつずつ火に入れていった。灰色のお仕着せ。エプロン。櫛と、針箱と、黒い紐。最後に、花のなくなった白い紗。紗は、炎の上でひと揺れして、すぐに見えなくなった。
二階の窓に、燭台の明かりがあった。蜂蜜色の髪の影が、窓辺で杯を傾けていた。
翌朝、使用人棟の廊下で、下働きの娘たちが話していた。
「影のアマリアさん、聖騎士様に楯突いたんだって」
「楯突いた? あのアマリアさんが?」
「ヴェロニカ様とのご結婚に反対して、ゆうべ書斎に押しかけたって。それで、ふてくされて、どこかに身を隠してるんだって。荷物も全部持って」
「影のくせに、何さま。拾ってもらった身で」
「婚礼の前に、意地悪ね。ヴェロニカ様、あんなにお優しいのに」
階段の上から、甘い声が降ってきた。
「みんな、アマリアさんを悪く言わないであげて」
ヴェロニカだった。白い朝のドレスで、手すりに指を添えていた。娘たちが、あわてて頭を下げた。
「きっと、少しすねているだけよ。すぐに戻ってくるわ。そうしたら、何もなかったように迎えてあげましょうね」
娘たちが、口々に、お優しい、とささやいた。
ヴェロニカは、うしろに控える侍女にだけ聞こえる声で、続けた。
「戻ってこられたら、の話だけど」
私の死は、どこにも書かれなかった。




