第41話 誓約を断つ
部屋に戻ると、クロが机の上で待っていた。
並べなおした鍵束と帳面のあいだに、羽の生えそろわない黒い体がうずくまっていた。私が寝台に腰を下ろすと、跳ねて、肩に移ってきた。
燭台は一本しか残っていなかった。衛兵に踏まれたほうは、芯が折れていた。
枕もとの石を取って、膝にのせた。
折りたたんだ便箋を、クロの足に結んだ。黒い紐をひとすじ裂いて、細くして。伯爵家にいたころから、何十回も繰り返してきた結び方だった。牢の地図も、ユリウス様への手紙も、こうして運んでもらった。
「これが、最後」
クロは、首をかしげて私を見た。
「北の修道院へ。急がなくていいからね。雪の夜は、無理をしないで」
指を差し出すと、クロはくちばしで、指の腹を軽くつついた。いつもの返事だった。
「ありがとう」
十六の春に、伯爵家の庭の楡の下で拾った。誰が手を出しても突っついて、私の指にだけとまった。家の生き物は一匹残らず処分せよ、という命令の日、殺されかけたこの子を懐に隠して、槍の下を逃げた。
「あなたも、もう自由だよ」
クロは飛ばなかった。肩に戻って、私の首すじに頭を押しつけた。
それでいい、と思った。最後まで、ひとりではない。
石を寝台に置いて、床に下りた。
膝をついて、それから座った。十六の月夜に、書庫の本のとおりに円を描いた床とは違う。蝋燭も四本はない。それでも、座る形だけは同じにした。
あの夜、私は誓った。この方の痛みは、私が引き受ける。この方が、二度と傷つかないように。
六年たって、私は同じ形で座っている。今度は、ほどくために。
胸に、右手を当てた。
魔核のあった場所は、空っぽだった。抜かれてからまる二日、そこには冷たさしか残っていないと思っていた。
目を閉じて、探した。
あった。
細い糸だった。魔核からではなく、もっと奥の、命の芯のようなところから出ていた。かすかに銀色に光りながら、床を抜け、階段を下り、一階の奥へ伸びている。書斎のある方角だった。
この糸が、六年、ジークベルト様の傷を私に運んできた。剣の稽古の切り傷も、牢の鎖の擦り傷も、牢番の鞭の二十打も、神前決闘の七つの傷も、処刑台の呪いも。
この糸を通って、私の魔力がジークベルト様へ流れていった。重い剣を軽々と振らせ、息を乱させず、神殿に加護と呼ばせたものが。
糸に沿って、もう一本、黒いものが絡みついていた。呪いの糸だ。この四年あまり、毎朝夜明け前に、私の胸を冷やしてきたもの。その下に、もっと細い、苦い匂いのする糸が何本か。塔の屋根裏で覚えた、毒の匂いだった。いつ、誰が、どの杯に入れたものなのか、私にはわからなかった。
あの日、書庫で読んだ頁の文句を、覚えていた。
断ち切ることができるのは、影の側だけ。断たれた糸が運んでいたものは、もとの持ち主へ帰る。
このまま持っていくことも、できたのかもしれない。扉の向こうまで抱えていけば、ジークベルト様は何も知らずに済む。妾の席を差し出した人は、傷ひとつない体のまま、七日後に花嫁の手を取る。
それでも、いいと思った時期もあった。
今は、違う。
この糸の先にいる人は、もう、私の主ではない。そして私にはもう、この世で大切に思う人が、ひとりしか残っていなかった。
だから、決めていた。ジークベルト様との誓約を断ち切る。それから、最後の力で、新しい誓約を結ぶ。そうして、女神様のところへ行く。
唱えた。結んだときと同じ、古い言葉を、逆さに。
部屋の空気が、変わった。燭台の炎が、すっと細くなった。窓ガラスの霜が、ひとりでに花の形に広がっていった。
指先で、糸をつまんだ気がした。
引いた。
ヴェールの縫い目をほどいたときと、手ごたえが似ていた。ひと引きごとに、胸の奥から何かがずるりと抜けていく。痛みはなかった。寒さもなかった。抜けたあとに、何も来なかった。
ひと引き。冬の中庭の夜が、ほどけた。
ひと引き。牢の階段で、手首を噛んで声を殺した夜が。
ひと引き。下町の宿の床で、七つの傷を布で押さえた朝が。
黒い糸が、ほどけた私の糸を伝って、離れていく。床を抜け、階段を下りて、一階の奥へ。もといた場所へ戻っていくように。苦い匂いの糸も、それに続いた。
最後のひと引きで、糸が切れた。
音はしなかった。
けれど、屋敷じゅうの燭台が、いっせいに揺れた気がした。
胸の上の手のひらが、軽くなった。六年ぶりに、私の体は私ひとりの分しか重さを持っていなかった。
目を開けた。
燭台の炎が、まっすぐ立っていた。窓ガラスに、床に座る私が映っていた。こけた頬に、ほつれた黒髪がかかっている。灰色の瞳の縁に、銀の輪は浮かばなかった。もう二度と浮かばないことは、知っていた。
そのとき、ずっと下のほうで、何かが倒れる音がした。
重いものではなかった。椅子か、杯か。それから、ガラスの砕ける音。一階の奥。書斎のほうだった。
クロが、肩の上で首を上げた。
私は、立たなかった。
七年のあいだ、あの方角で物音がすれば、私は誰より先に駆けつけた。階段を三段とばしで下り、短剣を抜き、主の前に立った。それが影だった。
今夜、私の足は、床の上で動かなかった。
しばらく耳をすましていた。足音が廊下を駆けていくことはなかった。誰かが医師を呼べと叫ぶ声も、しなかった。屋敷は、そのまま静かになった。
さようなら、ジークベルト様。
口には出さなかった。
床に座りなおした。
胸に、もう一度手を当てる。命の芯のようなところに、まだ、わずかな熱が残っていた。魔核を抜かれたあとに体に残った、最後の魔力。それを使い切れば、私は、そこで終わる。
北を思った。
雪の積もる修道院。質素な黒衣の、銀の髪の子。浄化の仕事のあと、熱を出して眠る横顔。毒の沼から帰る馬車の中で、私の膝に頭をのせていた重さ。荷馬車の幌から身を乗り出して、姉さん、と私を呼んだ十三の冬の声。
ユリウス様。
第一の段の文句を、唱えた。
胸の奥から、細い糸がもう一本、抜け出していった。窓を越え、王都の屋根を越えて、北へ。
見えた気がした。眠る王都の灯りが、足もとを流れていく。凍った川。月に照らされた白い街道。国境の森の黒い梢。糸は、そのすべての上を、細く、まっすぐに渡っていった。どこまでも細く、それでも切れずに。
糸の先が、何かに結ばれた手応えがあった。小さくて、温かい手応えだった。
この誓約が傷を運んでくる先に、私の体は、もうすぐなくなる。運ぶ先を失った糸がどうなるのか、書庫の本には書いていなかった。私は、知らなかった。
それでも、結んでおきたかった。この世を離れる最後の瞬間まで、ユリウス様とつながっていたかった。その痛みを、ひとつでも引き受けてから行けるなら、それでよかった。
体から、最後の熱が抜けていった。指先から、つま先から、ゆっくりと。
これでいい。
寝台に戻って、横になった。石を胸に抱いた。白っぽい、丸い川石。鋤のかすった白い筋が、指の腹に触れた。
石は、もう冷たくなかった。私の手のほうが、冷たくなっていた。
クロが肩から降りて、枕もとに移った。石と私の顔のあいだで、羽をふくらませた。
名前を、つけてあげればよかった。石にではなく、お腹にいたあの子に。いなくなる前に、ひとつくらい。
扉の向こうでなら、まだ間に合うだろうか。
遠くで、神殿の夜の鐘が鳴りはじめた。
ひとつ。ふたつ。みっつ。
残り、〇時間。
燭台の炎が、揺れるのをやめた。窓の外で舞っていた雪が、空中で止まった。風の音が、消えた。王都じゅうの音が、息をひそめたようだった。
部屋の隅から、光が満ちてきた。燭台の明かりではなかった。朝でも、月でもない。白くて、やわらかくて、どこにも影を落とさない光だった。
寝台の端が、少し沈んだ。
「お待たせ」
女神様が、そこに腰かけていた。金色とも銀色ともつかない長い髪が、光の中でさらに明るかった。眠たそうな目が、私の顔と、胸の石と、枕もとのクロを順に見た。
女神様は、クロの頭を指先で一度なでた。クロは突っつかなかった。
「よく頑張ったね」
軽い声だった。四年あまり前の白い場所で聞いたのと、同じ声。
「ほんとに、よく頑張った。もう、誰の痛みも背負わなくていいよ」
何か答えようとして、言葉が見つからなかった。女神様は、私の手を取った。石を抱いたままの、冷たい手を。
「次は、幸せになろう」
部屋の壁に、扉が開いていた。
背の高い、両開きの扉。すきまから、やわらかな光がこぼれている。四年あまり前に見たのと同じ扉だった。
体を起こした。重さが、なかった。足を床につくと、膝は折れなかった。壁に手をつかなくても、立てた。
石を両腕で抱えなおした。
扉のほうへ、一歩ずつ歩いた。机の上の鍵束の前を通った。衣装箱の上の、花のなくなった白い紗の前を通った。七年の、最後の部屋だった。
振り返らなかった。
光の中へ、足を踏み入れた。
背中で、クロが一声だけ鳴いた。
それが、この世で最後に聞いた音だった。




